September 2010アーカイブ

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no_age.jpg デビューアルバムが辛口メディアのピッチフォークにおいて10点満点中9.2点をたたきだした二人組には、様々な観点からの掘り下げる材料が用意されているようだ。前述したピッチフォークをはじめとした各国メディアの賞賛や、彼らが運営するザ・スメルから形成されるコミュニティであるとか、ヴィジュアル、パフォーマンスを総括するアート的な部分であるとか、ノイズ・ポップ・デュオでありシューゲイズでありながらもローファイであり、チルウェイブである。と、まあ、彼らを評する時には書ききれない程の要素が混在していて、なんだか複雑な数式を解いている気分になってきてしまった。無理矢理こじつければ、様々な人種が混在するアメリカの縮図と言ったところか。いずれにしても、そのひとつ、どれを掘り下げてみてもしっかりと我々の欲求を満たしてくれるであろうし、きっと彼らは確信犯的にそれらをごちゃまぜにしているのかもしれない。
 
 デビューアルバムよりひとつEPをはさんで、今回の作品へとつながった彼らの変化とは音を重ねコラージュしていく事で深みを増したポップネスを獲得した事であり、特にファーストアルバムと比べて聴きやすい作品になっている事は間違いない。ペイヴメントのようなローファイっぽさは薄れてきた印象で、それよりも前半では80年代のパンク/ハードコアを今に蘇らせ、さらに時代の空気さえ再現してしまいそうな音の雰囲気である。音を重ねたと言っても全編を通して基軸となるのはやはり歪んだギターの音とこもりがちのドラム音が産み出すサウンドスケープであり、そこからラジカセに入れたカセットテープから流れてくるような音を聴き取る事ができる。総じて、僕はチューインガムを噛みながらキャップを被りスケートボードを走らせるキッズの情景を僕は思い起こすわけだが、この作品を聴くとぼんやりと描く80年代のアメリカがそこにある。しかし、ただの回顧に留まらず、彼らの作り出す音は、歪ませたギターの音から、次の展開で出される音のヴォリュームのつまみにしろ、些細な部分で音の陰陽を作り出し、一聴するとざらついてる聴こえるようだが、実に心地よく、時に美しい。後半につれ、その様相は色濃く表現されて、2曲続けて鳴らされるインストゥルメンタルに、この作品のハイライトさえ感じてしまうほどだ。そこに僕はオレンジ色のノスタルジーを思い描き、スケートボードを持ったキッズの背中には昼と夜の狭間に姿を現すオレンジ色の夕日が見えてくるのである。
 
 でも、それはなんだか物憂げ。記憶の片隅に残る古き良き時代をぼんやりと思い描くだなんて、捉えようによっては随分と後ろ向きではないか。こういった音でアメリカを感じてしまうという事はある種の警告なのかもしれない。例えば、アマゾンでこの作品をクリックすれば円高ドル安、グッとリーズナブルな料金で買えるし、関連商品で、例えばディアハンターへと容易に辿り付けてしまうように、この手の音が少なからずシーンを作り出している事は確かである。しかし、そこからはかつてのマッチョで筋肉質な強いアメリカを見ることはできない。もちろん、テンガロンハットも自由の女神もアメリカンフットボールも、その他力強さの象徴諸々も。ただ、こういった音が現在のアメリカにとって、最もリアルな気もするし、物憂げだと見誤る危険だってあるのかもしれない。

 あくまでもDIYの精神にのっとり、彼らはクレヴァーに時代をかえようとしているのかもしれない。そう、僕は夕日を思い描いた情景が、実は夜と朝の狭間に姿を現す朝焼けなのかもしれない、という事だ。

(佐藤奨作)

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summer_camp.jpg「Dear, Dear, Dear... I, I. I... You, You,You...」、というオープニングのフレーズを聴いた瞬間、僕はこのバンドに夢中になった。ロンドンの、サマー・キャンプのデビュー・シングル「Ghost Train」だ。ドリーミーなプロダクション、キッチュな電子音、明快なメロディ、そして何よりこみ上げてくるノスタルジア。ウォッシュト・アウトを思わせるグロー・ファイ/チルウェイヴと、ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのようなトゥイー・ポップのセンス、更にはヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズなどから感じられるDIY精神など、現代のUSインディの流れを汲んだサウンドながら、受ける印象は決して、「今」じゃない。まるでタイムスリップしたような感じを受けた。実際、PVもそのイメージ通りで、海辺で繰り広げられるピュアなラヴ・ストーリーともやがかかったような映像はクラシック映画そのものだった。ネットにアップされた彼らの情報は瞬く間に広がり、UKのみならずUSにおいても大きな注目を集めることとなった。

 そのサマー・キャンプによる初のEPがこの「Young」だ。結論から言ってしまえば、「Ghost Train」での期待を全く裏切らない、素晴らしい内容の6曲(日本盤はボーナス・トラック2曲収録)だった。スウィートなコーラスとダンサブルなビートいんシングルとなった「Round The Moon」(この曲のPVもロマンチックな映画風)でEPは幕を開け、スロウなテンポの「Veronica Sawyer」、「パッパパパ・・・」というコーラスが耳につく「Why Don't You Stay」などの曲が並ぶが、どれもノスタルジアに満ちた素晴らしい内容。まるで、過ぎてしまった夏を惜しむかのように、思い出がフラッシュバックさせる1枚だ。

 ジェレミー・ワームスレーとエリザベス・サンキー。この2人がサマー・キャンプのメンバーだ。ジェレミーは、ミステリー・ジェッツやエミー・ザ・グレイトなどと親交があり、既に2枚のアルバムをリリースしているSSW。一方のエリザベスは『Platform Magazine』をいう雑誌でガーリィな記事を書くライター。インディの流れを肌で感じ、またカルチャーを知る2人だからこそ、の楽曲なのだろう。彼らの出自を知ったときにはなるほど、と感じた。

 すでに、ザ・ドラムスやスロウ・クラブのオープニング・アクトとしてステージを重ねている彼ら、次はアルバムをよろしくお願いします。

(角田仁志)

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dorian.jpg 僕は音楽が現実逃避になるとは思っていない。音楽は音楽という現実で、日常は日常という現実で、意識が働いている以上、どちらも現実という一本の糸で結ばれている。音楽が豊かならば日常も豊かになり、逆もまたそうだ。そんなことを考えているからなのか、仮にドリアンの音楽が現実逃避的だと捉えられたら僕は反論してしまうかもしれない。本作はひとつの現実であり、この音と共鳴する感覚は僕ひとりに内在するものではなく、誰もが持っている様々な種の感動を、そして思い出をあぶり出すものとしてあるのだと。東京を拠点に活動し、七尾旅人×やけのはらの「Rollin' Rollin'」のアレンジ、リミックスを手がけたドリアン。僕は彼が出演したイベントに足を運んだことはないが、やけのはら七尾旅人の新譜にゲスト参加した彼のデビュー・アルバム『Melodies Memories』を聴いてそんなことを思うのだった。

 人との出会い、生活習慣、聴いてきた音楽、それら全ての「思い出」によってメロディーは生まれる。新たなメロディーを吸い込んだ「新たな思い出」は、また別の新しいメロディーを生み出していく。それは永遠に終わることのない音楽という現実の創造の連続だ。そしてそれは今も絶えることなく続いていて、僕らの手と手を繋ぎ合わせる。だから決して音楽は終わらない。ドリアンは、テクノなのかハウスなのか、ということ以前に、『Melodies Memories』という、これまで同じ場を共有した人々の時間と記憶というものをカタチにした。そして本作からまた、新たな思い出が生まれ、新たなメロディーが生まれ、広がっていく。なんだか本作のタイトルが印象的だ。

 贅沢なカクテルのように色彩豊かで、夏の終りを思わせる切なさと甘美さに溢れるメロディーが気持ちに残るノスタルジーな音楽性。それは過剰にアッパーではなく、80年代風のディスコ・サウンドを思わせる楽曲が並ぶ。無邪気にポップで愛らしい。先端的、前衛的とは無縁で、それが良くもあり、どんなジャンル愛好家であろうと年代であろうと受け入れられるはず。冒頭曲からして程よいグルーヴ感のあるファンクの要素とジャジーなサウンドが交じっていて、フュージョンという言葉が頭をよぎる。高い音楽性を感じさせるが、やはり、あくまでもポップなのだ。

 ポップス感覚でも聴ける本作は、やけのはらや七尾旅人、LUVRAW&BTBといった気心知れたアーティストや、土岐麻子に楽曲提供したことでも知られるシンガー・ソングライター兼DJのG.RINAをゲストに迎えた。G.RINAをフィーチャーした楽曲は夏の終りと恋の終りの切なさを歌っている。しかしドリアンのトロピカルなサウンドが切なさを甘美なストーリーとして紡ぎ出す。失恋ソングが内に篭ることを避けるように。そんな閉じたところを消してしまうサウンドとアレンジがドリアンの魅力であり個性だ。曲順も練られており、後半に進むにつれ高揚の度合いが増していく。特にスペーシーで歌とラップが交互に飛び出てくる「Shooting Star」の幸福感が素晴らしい。ヴィブラホンの音色がさらに楽曲に美しさを与えていて、なおかつ余白を使うのがとても巧い。空間の上をストリングスが気持ち良さそうに泳いでいく。その中で「この一瞬の煌めきを永遠に信じよう」と、恥ずかしげもなくやけのはらは言う。音は鳴らされた次の瞬間消えてしまう。しかし音楽から受け取った煌きの思い出は永遠にこころに残る。ほんとうに「音」そのものを信じているのが伝わってきて笑顔になってしまうのだった。聴き手が音楽を信じるためには、音を鳴らす側が音楽を信じていなければならない、という大前提がしっかりとある。だからこの音楽の前では誰もが音を信じる姿として無防備になってしまう。

 日々の喧騒に追われる中で音楽を聴く楽しみをどこかに置き忘れてしまった人がいたとしたら、この作品を聴いてほしいと僕は思った。きっと甘い開放感が溢れ出てくるはずだから。そしてそれは『Melodies Memories』と絶対に共鳴する。文字のない文化はあっても、音楽のない文化はない。聴き手であっても演奏者であっても、きっと僕らはギター一本だけで、ビートだけで雄弁に語り合える。音楽はフィクションではないんだ。


(田中喬史)

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kreva.jpg 人間に実は、「MUST」は無い。ただ、「MAYBE」の連鎖がかろうじての生を紡ぐだけなのだ。初期のオアシスだって何故、あれだけ「MAYBE」に拘ったのか、最初から「LIVE FOREVER」とステイトメントすることで、「MUST」の底辺に縛られたワーキングクラスの現実をブレイクスルーとしようとした試みがあり、ロック・スターかサッカー選手になる以外に確約されてしまう、パプで管を巻くか、喧嘩でウィークエンドを何度も繰り返す事へのかろうじての、抵抗でもあり、ささやかな大声でもあったからだとも言える。
 
"このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも"(「かも」)
 
 そういう意味で「言い切ること」への覚悟を定めていたKREVAは今になって、「喪失」と「閉塞」に向き合い、まるでソロ一作目の「希望の炎」時のように捩れながら、還る。インタビューで言っていたが、ここには前作の『心臓』のような甘やかなラブソングは意図的に排され、敢えて言うならば高度情報化社会への疑義呈示が前面に押し出されている。

 09年のSEEDA&OKI(GEEK)のTERIYAKI BOYZへの「ディス」が然程の発展と波及を見せずに結果的に、収束したのは日本という土地柄もあったのか、「ディス」(Disrespect)という作法が巷間的に認証ベースで許容されてはいないのか、想う所はあった。

 想えば、近年、海外でメジャーな所でのJAY-ZとNASの「ビーフ」は大きい余波を残した。しかし、それはヒップホップ・マナーに依拠していた丁寧なルール内でのものだったので、ヒップホップ界「外」の人たちにも興味深く映ったことは間違いないだろう。「ディス」の文脈で言えば、KREVAは過去、般若など多くから受けている。
 
 そんな状況下で、日本におけるアンダーグラウンド・レベルではなく、「正統」なヒップホップを定義するのは難しいと思う。昔、ジブラやラッパ我リヤと組んだドラゴン・アッシュはステージで自分たちの音楽形式を「ミクスチャー・ロック」と名乗るようになったし、シンゴ02やザ・ブルーハーブの許容した基盤ファン層にはアンダーグラウンド・ヒップホップ・マナーを弁えての意識の諸氏も多かったが、もう少し文学的でサブカル的な磁場が囲い込んでいた部分も大きかったのも周知だろう。そういう意味では、小室哲哉プロデュースからの大胆な舵取りを行ない、一気にマッシヴな方向へ振り切った安室奈美恵の「Girl Talk」から『Queen Of Hip-Pop』という流れは大事であり、その「Hip-Pop」という名詞部分の外延の持つ内包性(intensionality)は深かった、と言える。特に、このアルバムにおける「Want Me,Want Me」のパンジャビMC調のバングラ・ビートと歌謡性がミックスされた様は鮮やかでセクシーだった。

 ヒップ「ホップ」か、ヒップ「ポップ」か。日本では検討可能性の余地がある。

 一時期はケツメイシやリップ・スライムと並んで、メジャーシーンへのヒップホップを訴えかけたキック・ザ・カン・クルーの「意味」は大きかっただけに、02年の「マルシェ」のブレイク以降の作品の連続リリースの中で、バルト的に、楽しみながら彼等のトラックやライムを受け取るのが、可能ではない部分が出てきたのは残念だった。「非・快楽的なテクスト≒拡大される作家の苦吟」と商業的なバランスの不和。だからこそ、03年のシングルで「脳内」のバケーションをリプレゼントして、リスナー側の期待をハントするような経緯になった。ワーカホリックたる自分たちへの自重もあったのかもしれない。彼等は、ヒップホップが時に持つ多くのマッチョイズム、私的エクリチュールの押し出しに対して、あくまで茶目っ気と抒情、分かり易さをベースにした「強み」があった。但し、短い期間の間にあまりに沢山のリリース・スタイルを取った所為か、04年の活動休止は必然的だったとも言えた。欲望の弁証法の可能性と悦楽の予見不能の可能性の引き合いのゲームの綱引き結果は、ゲームが行われなくても「遊び」はある筈だったが、その「遊び」自体が煮詰められたと感じたから、キック・ザ・カン・クルーの活動休止後、そのMCの一人、KREVAはソロ名義として実質的な一作目の「希望の炎」で「俺は最低の人間」と表明して、自分の声さえも加工しないといけなかったのだろう。

 KREVAの巷間的に決定打となったのは06年の『愛・自分博』というアルバムでは、キック・ザ・カン・クルー時代にあった抒情性に更に独自のメロウネスを加えながら、「俺」節を入れ、全体はアッパーに貫き通し、Jもののヒップホップ作品としては異例のセールスをマークしたのは彼に詳しくなくても、知っているかもしれない。その際の武道館のライヴでも、彼は完璧にスター性と万能感を提示した。しかし、「スタート」というシングル曲が持つ別離をモティーフにした感性的な繊細性と頼りなさが実は正しかったのは、その後、『よろしくお願いします』、『心臓』のアルバムのパトスを受け取れば判るだろうし、布袋寅泰、スピッツの草野マサムネ、久保田利伸等とのコラボレーションでの鮮やかさでも伺える。決定的だったのはRupert Holmesの「Speechless」をサンプリングした「瞬間speechless」だろう。「パーティーとは、始めから終わりに向かうこと」、「パーティーは一瞬という永遠を約束すること」のニ軸をアウフヘーベンして、喧騒内での沈黙を表象して、君に魅かれても成就はしないだろう(MAYBE)という儚さに向き合った佳曲だった。

 会うは別れの始まりなり。会者定離。

 色んな言葉があるが、要は、万物は流転する。一刻も停まることない時間の刹那内で誰かとはしゃぐ永遠をピンで留めて、額縁で囲んで観ている内にもう終わる。終わるから、始めるのか。別れるなら、出会うべきではないのか。そんな煩悶は不毛だ。何故ならば、在ること自体が「在ることではない、何か」を示唆して「無」の対立事項ではないからだと言える。「無」に怯えるニヒリストは時に過重的に「無ではない何か」を求める。それは仕事か恋愛か芸術か生活か人それぞれだろう。しかし、留保されてリオタールする「無的な何か」は決して何も是認しない。

 KREVAの今回のミニ・アルバム『OASYS』はとても刹那い内容になった。

 加工されたボーカリゼーション、サンプリングした音を使っていない、エレクトロ要素が強まったトラック、全体的に内省性を帯びたリリック。もしかしたら、カニエ・ウエストの『808s & Heartbreak』の影も見える人も居るかもしれない。ヤング・パンチのカバー「エレクトロ・アース・トラックス」もスタイリッシュに再構築して、全体を通してコラージュ的にサウンドの実験が挑まれ、総てが「終わり」へ向かうことへの怖れを為さず、「気がついたら 随分生きにくい世の中になったもんだな」("最終回")と綴るなど、彼のライヴ・ツアータイトルを拝借すると、「意味深」な要素が格段に増えた。推測してみると、彼は今、おそらく、クロールしようとしているのかもしれない、言い切っていた時の自分と、最終回を決める自分の狭間を。

 「最終回」が美しく纏まるべきだとは僕は想わない。宙ぶらりんなまま、保留された痛みが昇華される為ならば、無限に「再放送」を繰り返せばいい。いつだって、最終回を見逃す為に人間は「在る」なら満更、悪くない。今のKREVAは漸く「最終回」を夢想するようになったというのは、好ましい意識変化だと思う。

(松浦達)

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yamon_yamon.jpg スウェーデンはストックホルム出身の4人組のデビュー作。資料にもあるとおり、シー・アンド・ケークを思わせる透明感のあるギター・サウンドを中心とした、慎ましさを伴うポップ・ソング集。約1年かけて制作されたというだけあって、練られた楽曲と端正なアレンジはデビュー作とは思えない質の高さを誇っている。一方で、老成や熟成を重ねた後ではなかなか得ることの難しい(アルバム冒頭の「Alonso」や「African Nights」などでの)「瑞々しさ」、そして(「The Darker Place」、「Fast Walker」などで時折り顔を覗かせる)「スリル」といった感覚が全体に薄く漲っているのはやはりその若さ故だろうか。

 フラットで平熱なのに、目に見えない興奮や感動がその中に密かに含まれているのを、ふとしたきっかけでじんわりと実感してしまう...季節の変わり目なんかによく体験する「あの感じ」に近い音だ。「残響」というレーベル・カラーや日本の気候にも不思議とフィットしている。

(佐藤一道)

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el_guincho.jpg パオロ・ディアス・レイシャ――スペインはバルセロナのサイケデリック・ロック・バンド、ココノットのメンバーであり、そして何より、ソロ名義=エル・グインチョとして活躍している人物だ。2008年にリリースされたソロとしてのセカンド『Alegranza!』では、テープ・ループを多用した、トロピカルかつファンキーなビートは、パンダ・ベアの名作『Person Pitch』に匹敵する内容だった。

 そんな彼の新作がこの『Pop Negro』だ。全体的には前作より楽曲のテンポを落としているものの、今作でも、彼のトロピカルなビートの追求は続いている。スティール・パンやアフロ・ビートにサンバ、それにカーニヴァルなど、南半球の国々の陽気なダンス・ミュージックのセンスをあらん限り詰め込んだ極彩色のビートは、胸を高鳴らせ、制約のないステップに僕らを駆り立てる。

 ハンドクラップやスティール・パンなどで作り上げるサニーな輝きでアルバムは幕を開け、タイトル通りソカを取り入れた「Soca Del Eclipse」、サックスを加えた「Muerto Midi」など、ビートやサウンドは色とりどりでバラエティに富んでいる。

 非西欧のグルーヴを貪欲に取り入れ、カラフルさをぐっと増した今作。ぜひ、DJ機材を扱いつつ、片手でパーカッションを打ち鳴らす器用な彼のステージが日本でも早く見れることを願うばかりだ。

(角田仁志)

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im_here.jpg 皆さん、スパイク・ジョーンズの新作短編映画『I'M HERE』を見ましたか? 数ヶ月前からWEBで公開されてるから「今頃かよ!」との声が聞こえそうで怖い。『I'M HERE』は、サンダンス映画祭やベルリン映画祭でも上映されたアブソルート・ウォッカとのコラボレーション作品。制作にあたっては、スパイク・ジョーンズに完全に自由が与えられたとのこと。だから「お金を出すから、口も出す」ということはなかったみたい。ログインするときに誕生日の入力が必要。それだけが、お酒会社のスポンサーらしいところ。

 近未来のLAを舞台に描かれるロボット同士のラブストーリー。字幕はないけれど、台詞は少なめ。大丈夫。情景描写やロボットたちの表情(!)、そして素晴らしい音楽からニュアンスはしっかり伝わるはず。むしろ、台詞がわからないところは想像で補うという楽しみ方が、この作品にはピッタリかもしれない。アメリカ人社会に生きるロボットを見る僕たち日本人という構図が図らずも、コミュニケーション(通じ合うこと)を意識させてくれるから。

 僕は「かいじゅうたちのいるところ」は凡庸だと思った。よく知られている原作があるから、仕方がないのかな。音楽は良かったけれど、想像を超える発見はなかった。同じ日に、さほど期待せずにレイトショーで見た「ラブリー・ボーン」のほうが印象深い。もともとBMX好きのガキだったスパイク・ジョーンズには、「怪獣もの」よりも「日常」を舞台にした作品が合っていると思う。日常に溶け込んでいる「認識の歪み/差異」がどう見えるか? ということが可笑しくて切ない。登場人物たちがピュアで、居心地が悪そうであればあるほど、滑稽で泣ける。「I'M HERE」にはそんなエッセンスが、30分間にギュッとつまっている。

 地味なセーターを着込むナードな草食系ロボ男子と天真爛漫なロボ女子の恋。壮大なCGやSFXとも違う、チープな合成とも違う独特のファンタジー映像がやっぱり最高。柔らかい秋の日差しと室内の灯りを活かしたライティングが、ロボットたちの繊細な表情を引き立てる。特に眼差しが優しい。そして、相変わらす選曲のセンスも冴えまくっている。ヤー・ヤー・ヤーズのニック・ジナーによる新プロジェクトのTHE LOST TREES、ガールズ、スレイ・ベルズ、オブ・モントリオールなどの曲がフィルムの質感に彩りを添える。

 人間は楽しむことを求めながら、当たり前として身勝手な生き物だ。そして、ロボットたちの行動は、どこか控えめで主体性がないように思える。その大きな違いは肉体と機械ということ。その違いは当然、心の在り方にも影響する。だからこそ、人間にとっては楽しいホームパーティやライブがロボットには悲劇の舞台になる。

 「何としてでも生きる」のが、人間というか生き物の本能。この作品で描かれている主人公のロボ男子には、その対比として「(他者を)生かす」という心がある。人間たちが造り出したロボットに、人間たちが忘れかけていた気持ちがインプットされていた(または、ロボット自身がそう感じた)という皮肉。僕自身、生まれてこの方ほとんど使ったことのない「献身的」「自己犠牲」という言葉の意味に気付かされた。そして、セックスもする生身の人間として「それでいいのかよ!」と思わず叫びそうになったラストシーンは、主人公に自己投影しがちな僕たちの生半可な視点を軽く拒絶する。「I'M HERE」とは、最期まで主人公のロボット男子の言葉であって、僕たちの言葉ではない。見る人にとって「I'M HERE」と言える場所/在り方を優しく問いかける傑作だと思う。秋の夜長に好きな人と、またはひとりぼっちでどうぞ!

(犬飼一郎)

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faifai.jpg 批評家・佐々木敦氏が代表を務める「HEADZ」の演劇/パフォーミング・アート作品をリリースする新レーベル「play」の第一弾リリース作品の快快(faifai)『Y時のはなし』のDVDについて。

 まずは彼ら快快(faifai)について。2004年結成(2008年4月1日に小指値(koyubichi)から快快に改名)、メンバー10+サポートメンバーによる東京のカンパニー。ステージやダンス、イベントに楽しく新しい場所を発信し続けるパフォーマンスカンパニーであり、日本という枠をとっくに飛び越えて海外でもそのパフォーマンスを展開している。

 作風としてはまずは多幸感、そして祝祭性がある。極めて今の時代のポップさがあり身体性があり、ゼロ年代に対するカウンターあるいはアンチテーゼとして機能するカラフルでハッピーなポップさが咲き乱れている。 そんな彼らについたあだ名は「Trash & Freshな日本の表現者」「現代の蜃気楼、ファイファイ」というもの。今月の9月4日にはスイスのチューリッヒ・シアター・スペクタルにて『my name is I LOVE YOU』がWinners of the ZKB Patronage Prize 2010を受賞する快挙を成し遂げている。

 僕が初めて舞台で観たのがその『my name is I LOVE YOU』だったのだが、感想としてはかわいいとかっこいいが混ざり合っている、そして身体を使い、舞台をめいいっぱい使いダンスなどで身体性が発揮されている。観る側の視覚で捉える身体性が示す物語、台詞は英語なんだが、まるで英語がサウンドトラックのように聞こえた。

 舞台をまるで観ないというわけではなく、大人計画などの小劇場出身の舞台を観に行ったりすることはある僕だけども、彼らの動きや物語に孕まれている多幸感というハッピーさは初めて味わう感じだった。そして毎日という平凡な日常の中にある祝祭性を感じれた。それらの感覚<多幸感/祝祭性>はネガティブなものが支配したゼロ年代を吹き飛ばしてしまう素晴らしさがあった。くよくよしても変わらない世の中に対してわたしたちはいくらでも楽しむ事ができるのだという明確な意思表示、カラフルに彩られている世界への気づきが彼らのパフォーマンスにはあり、観ている者をそちら側に振り向かせてくれる。

 DVD化された今作『Y時のはなし』は二年前の日本初演時にも大反響を巻き起こした『R時のはなし』をタイトルも新たに、さらにアイデアを盛り込み長編としてリマスターしたもの。夏休みの学童保育を舞台に、子どもと大人、人形と人間、夢と現実が、子どもの頃に一度は夢見たスペクタクルと夏の終わりの悲しみが鮮やかに交差する物語。本編にもカエルだったり宇宙人だったり三人一組を一人で演じたりと怪演している天野史郎によりアニメーションが重ねられているので実際に舞台を観た時とまた違った『Y時のはなし』に仕上がっている。

 この作品は役者が人形を持って演技をする、つまりはある種の人形劇でもある。人形を持っている役者ももちろんそのまま映し出され演じている。時折人形ではなく彼ら自身が人形の代わりにもなる。人形というデフォルメと人間という身体性が混ざり合っていく、人間の肉体では不可能な事を人形では行なえる。身体で表現できるダンスや躍動感が対比と言うよりはそれらがプラスされて世界を広げていく。小道具もその使い方はポップであり時にはバカバカしくて自然と笑みが溢れてしまう。楽しんでいるというのが画面を通してでも伝わってくる。

 舞台上で流されている映像も、実際の景色やファミコンのドット画像なんかが僕らの幼年期の原風景と重なっているような感じを受ける。それらのものが合わさってお互いの輪郭を薄くして全てものがそこにあるのが自然な雰囲気になってくる。でも、どことなくワンダーランドであって多幸感が溢れ出る。

 ある人が観れば子どもの遊びの様に感じられるかもしれない。真剣に「かめはめ波」を放つ人間を観た事が君はあるか? 大人になっても真剣に楽しんで遊ぶ事の正しさと幸福さ、そこに巻き込まれてしまう事の心地よさ。それは世間に世界に社会にある問題に背を向ける事ではない、きちんとこの世界でどれだけ「play」できるかという挑戦だ。何もしなくても世界が変わらないのならまずは僕たちがわたしたちが、まず出来る限り楽しんで世界の色彩を変えてしまえばいいのだと彼らの舞台を観ていつも思う。

 そして彼ら快快はA.T.フィールド(『新世紀エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明氏は「A.T.フィールドは心の壁のようなもの」と言っている) を張らずに多くものを受け入れるキャパシティがあり、観ているもののそれを取り払ってしまうし、軽々と越えて入ってきてしまう。だから彼らの多幸感や祝祭性が僕らの中に芽生えていく。

 このDVDを観たらきっと生で彼らのパフォーマンスが観たくなるだろう。舞台で観ればもっと違ったものが。

 真剣に「かめはめ波」を放つ大人に僕らもなればいい、ポップな散乱銃でカラフルな風景がこのテン年代(by 佐々木敦)に広がればいいと思う。快快は世界中を走り回って祝祭を与える。

(碇本学)

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luchino_visconti.jpg ジョルジョ・バタイユの「青空」の序文で、実験のために書かれる書物と、必然的に生まれる書物との差異について、書かれている。「文学」とは基本的に破壊的な力を持ち、「恐れとおののき」と共に対峙されるもので、生の真実とその過剰なまでの可能性を開示する力を帯びると記している。「文学」というのは一個の「連続」体ではなく、寧ろ幾つもの「断続」の「連なり」ということだ。僕自身は、その文脈上に敷かれた「激情の瞬間」をアカデミズムや余計なバイアスの外に置く事にしている。だから、その「外」に置かれた場所で、流浪的に「体内に取り込む言葉や表現」を選別することによって、初めて意味が発現すると思っている。

「約束」で形成された場所に行くためには、それに近づく望みを禁忌しないといけない。だから、総てを遠ざけることこそが、何かに近付くことでもある。人生が一回限りの何かでしか無く、何処まで飛べるのか、を競い合うものでしかないなら、自分の確信から「より遠く離れたとき」にこそ、実は「到着地点に近付く」。「未来という過去」に身を投じようとする人たちに、「セカイ系」は勿論、生優しいサルヴェージの言葉も似合わない。因習に沿って、因習を内側から「壊すように」、もう一度再生すればいいだけの話であり、定例通りの作品を避けた後で、定例外の道を、テクストの余白に書き込むように読み解く慧眼を持つならば、今の時代において、ルキノ・ヴィスコンティについて考えることは意義深い事に思える。

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 ヴィスコンティと言えば、大概、『ベニスに死す』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は廉価版で流布されているが、その他の作品群含め、日本ではなかなか評価軸が定められなかった。例えば、『夏の嵐』はネオレアリズモから演劇的様式美へのファースト・ステップを踏み、19世紀の書き割的な小説のような退廃と破滅に対して色彩豊かに「橋」を渡り、認められたが、『白夜』や『山猫』辺りになると途端、評論枠は絞られる。
 
 例えば、フェリーニやゴダール、もっと言うとコッポラがこれだけ藝術的に受容され、「再」評価される世の中だからこそ、今、ヴィスコンティを僕は評価したいのだが、ヴィスコンティ的なロマンや華麗さは現代には必要ないのだろうか、とさえ嘆息もおぼえてしまうのも同時にある。

 彼は高貴な家庭に生まれ、何不自由のない生活をおくっていたハイクラスの人間だった。そして、バイ・セクシャルでもあり、ロシア文学に精通しており、イタリア共産党に属していたりした時期もあったり、面白い経歴を持っている。基本、彼の作品はとても美麗で耽美的とも言える映像を切り取るものが多いが、ナラティヴ自体は頽廃的であり、破滅的で、陰惨な結末を迎えるものが多いのは幾つかの彼の作品を観た人なら認識出来ているだろう。貴族階級の没落、芸術家の破滅、悲恋、絶望的な道筋。

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 なお、僕は、彼の作品の中でも1957年の『白夜』(イタリア・フランスの合作になっている)を愛好しており、現代的にも響く何かがあると思ってもいる。

『白夜』とは言わずもがな、原作はドストエフスキーの初期の短編。映画化にあたっては、イタリアのチネチッタ(Cinecittà)でリヴォルノをモデルとした架空の港町を創り上げ、箱庭的な閉塞感を醸した。原作においては、19世紀のサンクトペテルブルグ(当時はペテルブルク)だったが、イタリアの架空の港町にシフトされ、初夏だった季節は冬に切り替えられている。主な登場人物は、橋の上で旅に出たままの彼を待ち続ける日々をおくる、マリア・シェル演じるナタリアと、そこで出会う転勤で来たマルチェロ・マストロヤンニ演じるマリオ。

 独身の会社員のマリオは転勤で小さな港町に移ってくる。友達も知り合いも居ない中、歩いていると、橋の上で若い女性が泣いているのを発見する。それがナタリアだった。警戒した彼女をマリオはそれでも取り敢えず一度、家に送る。そして、「次の晩に同じ橋の上で会おう」と約束をする。極寒の夜を彷徨するマリオの幻惑を掻き立てるナタリアと位相は拗れながら、女性の扱いにも慣れていないマリオと、ただ怯えるナタリアという構造そのものが「ナタリアの頭の中の物語」でマリオはその中の「架空の人物」だったのかもしれない。

 次の晩に、マリオを見たナタリアは逃げだし、さすがに気分を害したマリオに対して、彼女は「訳」や「自分のこと」を話す。スラヴ系の盲目の祖母と住んでいること、そして、彼女の家にハンサムな下宿人が来て、彼女は恋に落ちて、彼は一年後に帰ると言い、この町を去っていったこと。その下宿人を演じるのはジャン・マレーであり、貧しい青年像の原作のイメージと比してマチズモ的なものを示すが、とても「匿名性」が高い存在としても描かれている。

 マリオが下宿人に手紙を渡したという嘘をついてからの、三度目の夜にダンスホールで二人は甘美な幻想に耽る。ロックンロール、スクーザミ、流れる音楽は性的な、そしてユーフォリックな予感を惹起させる。ただ、突然、「我に返った」ように、ナタリアは「橋」へ向かう。

 その「橋」と結局は何だったのか、考えてみる。幻想的世界と現実的なものを繋ぐ何か、と表象するには違う気がするからだ。もしかしたら、経済学的に言う「見えざる手」のような何かかもしれない。

          *          *          * 

 市場原理社会内で「見えざる手」とは、社会総体的に最大の利益を付与するのが自由競争であるから、という言い訳と幻想を撒き散らす事が出来る。無論、アダム・スミスそのものが自己利益の拡大が、自分と全く予想さえもしていなかった目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、「自由」な競争原理の可能性や継続的な発展性に対して懐疑的だった。更に、ここからダーウィン理論への簡単な接線を敷いてみよう。「自然淘汰は、個体の再生産の成果を増加させる」ような、特徴や行動を促進させるが、全体にとって利益になるかどうかは別問題であり、ただ「知性」などの幾つかの特徴に関しては個体の再生産の成果に貢献する「のみ」でなく、全体により幅広く利益をもたらす事となるとしたら、マリオと下宿人の関係性はどう捉えられるだろうか。

 一方で、個体の利益になるものの、全体性には何も還元されないものもある。
例えば、ヘラジカの牡は過酷な競争の中で、牝に近づき交尾の末、種を残すが、その際、「より大きな枝角を持っている」方が「有利」に働くケースが多い。その結果的に、次世代の大きな枝角を持った遺伝子を含有している進化が試されるというのは、凡庸な「進化論」として収斂する。しかし、枝角が大きくなればなるほど、森林内では「目立つ」。目立つと、外敵に狙われやすくなる。総て、字義通り捉えるのではなく、メタファーとして把握してみるとして、小さい港町へ転勤で訪れたマリオの「目立ち方」は、余計なものに狙われやすくもなるのも確かだ。狙ってきたのはナタリアの幻想だったのかもしれない。
 
 ヴィスコンティの作品と、市場原理論、ダーウィン理論の「結び付け」は共約不可能性を帯びる以前に噛み合うことはないだろう。前者はデカダンスの崩れを希求し、後者群はアフォーダンスの揺らぎを求めるからだ。コモンズの悲劇的に、藝術や頽廃や、ましてや「見えざる手」を考えるべきではないのは自明の理としても、そんな瀬においてまた、繰り返される「悲劇」にこそ、本当に「見える手」を差し伸べて欲しい。現代における藝術に向けて、その先の「君」に向けて。

『白夜』でのラスト・シーンにおけるマリオの背中は、とても寂寞と孤独感が滲み出ている。総てが幻の出来事だったかのように元の通り、何もなくなったからかもしれない。

(松浦達)

ザ・ヴァセリンズ

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THE VASELINES

聴いたらすぐに「これはヴァセリンズだ!」って
思ってもらえるようなアルバムを作りたかったんだ


ニルヴァーナのカート・コバーンが憧れたことでも知られる80年代の伝説的グラスゴー・バンド、ヴァセリンズが奇跡の再結成を行ない、さらになんと21年ぶりとなるセカンド・アルバム『Sex With An X』をリリース! ミュージシャンとして成長しながら、当時と変わらないエネルギッシュな作品を作り上げたバンドの中心人物のユージン・ケリーとフランシス・マッキーの2人に、待望の新作で目指したサウンドについて聞いた。

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Photo by Wattie Cheung
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