September 2010アーカイブ

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the_hundred_in_the_hands.jpg 漬物が欲しくなる。味噌汁も欲しくなるからしようがない。いわば庶民の味が欲しくなる。いやいや、お前は何を言っているんだという感じだが、08年にTHITHという名義で結成し、現在はザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズに名義を変えた彼らの、Warpからすでに今年発表されたEPに続く待望のデビュー・アルバムはスマートでエレガント過ぎる。これは無論、褒め言葉だ。しかし、である。ブルックリンを拠点に活動するエレノアとジェイソンからなるこの男女デュオを例えれば、欧米の高級な食材を使ったフランス料理。そんな感じにエレガントなのだけど難を言えば庶民性が足りないのである。

 エレクトロ・ポップスと一口に言ってしまえば話は早いが、音響ミックスもダブの使い方も電子音の扱いもこなれている。楽曲によって何人ものプロデューサーを迎え、作りに作りこんだ楽曲のベクトルはすべてスマート。どの楽曲も綺麗に歌いこなす美人女性ヴォーカリスト、エレノアの歌声も手伝い、音楽理論に長けた研究生がすらすらと書いた論文みたいに聴いていて違和感が全くない。それがこの音楽の良さなのだが、同じくブルックリンを拠点にするダーウィン・ディーズの新譜が過剰に作り込まないことを目的とし、音が荒さや持つ土くささ、埃っぽさによってリスナーをずるずると音楽に惹き込んでいくことに比べると、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズは神聖で神秘的な音楽性が貫かれている。人間臭さはあまり感じない。しかしそれこそが狙いなのだろう。メンバーのジェイソンいわく「他のバンドとの違いはプロダクション・テクニック」とのことだ。つまり、サウンド・プロダクションの技巧を聴く音楽という意味を抜き出せばステレオラブに通じるものがある。ブルックリンを拠点とするバンドはそれぞれの良さを持っているが、この男女デュオはプロダクション・テクニックに個性を見出した。それについては賛否両論だろうが僕は賛同している。ここまでエレガントに数々の音楽要素を綺麗にまとめてしまう手腕には恐怖すら覚えたし、ブルックリンにこういうバンドが一組くらいいることで、音楽シーンは広がりを見せると思うからだ。

 また、前述したように本作がWarpから発表されていることが面白い。Warpとは常に最先端のバンドを世に送り出すレーベルだ。過去にもブルックリンのバンドを送り出してはいるが、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズほどスマートなバンドはいなかった。なんだか僕にはこのバンドの新譜が、Warpなりの、他のレーベルが送り出すブルックリン勢への回答だと思える。Warpは以前にもテクノへの回答としてアーティフィシャル・インテリジェンスと表した音楽性を示した例もあるわけだし、その可能性は低くない。本作は現在のWarpの姿勢を映す鏡に成りうると僕は思う。作り込まれた音楽という意味で、TV・オン・ザ・レディオと聴き比べてみるのも面白い。

 ただ、「期待の新人!」と謳われているわりには、あまり話題に挙がっていないのが現状だ。徹底してエレガントであることを押し出している本作は貴重だと思う。その反面、本作を聴いた後は庶民の味が欲しくなる。つまりは構築したアーティスティックなたたずまいを見せる本作をどのように崩し、ポップ・ミュージックとしての親しみやすさ、庶民性を出せるのかが、今後、課題になると僕は思う。スタイルを曲げることには勇気をともなうが、それも含めて僕は「期待の」という言葉を使いたい。なんだか昭和の民は高級料理を食べた後にお茶漬けが欲しくなるという話を思い出した。課題を克服さえすれば、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズは『Emperor Tomato Ketchup』期のステレオラブみたいなバンドになるよ、きっと。楽しみだ。

(田中喬史)

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coldcase.jpg 日本で海外ドラマが盛り上がりを見せるようになって久しい。少し前まではビデオ/DVD化されるまで待つか、いつ実現するともわからないテレビ放送を待つかしかなかったが、最近は民放やケーブルテレビ等で最新の番組も本国とさほど時差なく見られるようになった。TVジャンキーであるロブ・ゾンビは「チャンネルの少ない国ではツアーをしない」と公言し、日本にもあまり来てくれないのだが(昨年15年ぶりにやっと来日してくれましたが)、「今は日本もチャンネル数が増えたんだよ!」と教えてあげたいくらいだ。

 次々と放送される豊作状態のドラマの中でも特に多いのがクライム・サスペンスだ。古くは『刑事コロンボ』から最近では『24 -TWENTY FOUR-』など、日本でも『古畑任三郎』や『相棒』といった数多くの作品が作られ長年に渡って愛されてきたジャンルだが、最近の作品で絶大な人気を誇る『CSI』シリーズのプロデューサーであり、数々のヒットドラマや映画を送り出しているジェリー・ブラッカイマーが手掛けているのがこの『コールドケース』。フィラデルフィア市警の殺人課チームによる犯罪捜査を描いたもので、本国アメリカでもかなりの高視聴率を叩き出してきた人気作品。なので海外ドラマファンであれば既にご存知の方も多いことと思う。

 「コールドケース」とは未解決事件のこと。筋書きとしては、過去の未解決事件(ここで扱うのは殺人事件)についての新たな証拠が見つかるとか、遺族が再捜査を依頼してくるといったきっかけから改めて事件を詳しく調べていくという展開で、毎回ほぼ同じ流れでどことなく淡々と物語は進んでいく。アメリカは殺人事件の時効がないため、どんなに古い事件でも依頼があったり解決の糸口が見つかったとなれば再捜査することが出来る。事件関係者や被害者遺族に再び会いに行き、過去の証拠や証言を検証しなおすという地道な捜査を描く中で、事件当時の回想シーンが必ず挿入されるのだが、それがとても秀逸なのだ。丁寧に時代考証を行い、映像の色合いや風合いによって空気感を再現し、どんな時代だったか、社会的背景に何があったか等が、当時の様子を知らなくても十分伝わってくるように作られている。1900年代前半から現代までの様々な時代が登場するが、それぞれの時代を表現するのに特に重要な役割を果たしているのが、音楽だ。

 事件のあった年代のファッションや流行、文化を映像で再現するとともに、当時のヒット曲やその頃にリリースされた楽曲を惜しげもなく使用しているため、見ている者は一瞬でその時代に連れていかれる。最後の時を過ごしたバーで、流行っていたディスコで、ドライブした車の中で、傍らのラジオから、古いレコードから、音楽たちは物言わぬ目撃者とでもいうように、事件と寄り添うように流れてくる。ごく一部を挙げるだけでも、ビリー・ホリディ、ルイ・アームストロング、ジョニー・キャッシュ、マイケル・ジャクソン、ブルース・スプリングスティーン、スティーリー・ダン、デュラン・デュラン、オアシス、ピクシーズ、スマッシング・パンプキンズ、リアーナ等々...、半世紀以上前からごく近年までの幅広く多岐に渡るジャンルから選曲された楽曲郡は、リストを見ているだけでもワクワクしてしまうほど。中にはキュアーやニュー・オーダー、スノウ・パトロールやカーシヴ、ダッシュボード・コンフェッショナル等の名前も。1話まるごとボブ・ディランやU2、ニルヴァーナといった回もある。
 
 思わぬ名曲に出会ったり、知っている曲であれば改めて良さに気付いたり、その曲を知った時のことを思い出して、いつどこで買ったか、誰と聴いたか、その当時自分は何歳で何をしていたか...とついつい自分と重ねてしまったり、というのは音楽ファンであれば理解できる感覚ではないだろうか。「○○年代」とだけ言われるよりも、音楽が流れることでいつ頃が舞台になっているかを想像しやすくなり、自分と重ね、時代の感覚を掴むことで自然と物語に入っていける。と同時に、映像作品において音楽がもたらす効果の大きさ、音楽の持つ時代を超える力、記憶を呼び起こす力の強さも実感することが出来る。

 この回想シーンと豪華な楽曲郡が当然ドラマの人気要素であるわけだけど、しかしこれは殺人事件を扱った作品である。素晴らしい回想シーンとともに、命を奪われた人達の埋もれていた真実が明かされていく物語なのだ。その真実とは、時に残酷すぎて目を覆いたくなるようなもので、時に被害者の尊厳を守り抜くような尊いものであるが、どんな真実が明かされたとしても奪われた命は決して戻らないということを嫌というほど見せつけられる。
 
 リアルタイムに事件を追うものと違って、スピード感があるわけでも過激さや派手さがあるわけでもない。既に起きてしまった事件を扱っているため、命が救われるケースもほぼ無い。後に残るのは、犯人逮捕の爽快感や安堵感ではなく、浮き彫りになった真実の重みと癒えることのない哀しみばかりだ。事件当時には語られることのなかった、哀しく残酷な真実。犯人のエゴや保身のため、あるいは誰かを守るためや気高いプライドによって隠されてきた真実。それを露わにすることで被害者が救われるのかはわからないし、誰も幸せにはならないかもしれない。けれど、真実が消えてなくなることは決してない。どんなに隠してもそこにあり続けるのだ。被害者遺族が「真実を知りたい」と訴えるシーンをニュース等で目にすることがあるが、このドラマを見ていると、ほんの少しかもしれないが、その切なる思いがわかるような気がする。

 物語のトーンは重くダークで、とにかく切なくやるせないエピソードが多い。これまで何度泣かされたことか(同じエピソードを字幕/吹き替えでそれぞれ見て、どちらでも泣いてしまったことすらある)。フィクションとわかっていながらもこんなに感情移入してしまうのは、もちろんその時々の時事問題を盛り込んだストーリーやリアリティを感じさせる音楽の存在も大きいが、同じような事件がどこかで起こっていても不思議ではないと思わせる、多くの問題を抱えた現代社会のせいでもあるだろう(中には実際の事件をモチーフにしたエピソードもある)。ニュースを見れば毎日のように殺人事件が報じられ、幼児虐待、DV、いじめ、増加する自殺者、リストラ問題、人種間の争いや差別、終わらない戦争、権力によって捻じ曲げられる現実、そんな暗い話題ばかり。これらの出来事が一体ドラマとどれほど違うのか。加えて日本には時効制度によって未解決のまま忘れ去られていった事件も多い。しかし例え忘れ去られてもそこには一人一人の人生があり、このドラマの登場人物と同じく、どんなに時が経ってもたったひとつの真実が明かされることを望みながら、今も哀しみを抱えて生きる人達が大勢いる。
 
 時効制度の問題だけでなく、死刑についての賛否、冤罪問題や少年犯罪の厳罰化、裁判員制度などの法制度をめぐる課題も多く、これからも議論は続くだろう。法とは時代に沿って変化していかなければならないし、何が正しいかという明確な答えが出ないとしても、何が悪で罪なのかを見極め、どんな命も奪われてはならないという根本的な「正義」が、ブレることなく貫かれる社会でなければならないはずだ。
 このドラマの大きな救いは、哀しみや後悔、絶望を描く中にもその「正義」が根底を流れているということ。「正義」なんて言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、決して押し付けがましくなく、説教臭くもない。メインキャスト達の中にそれぞれの思う「正義」が息づいていることが、わずかに垣間見えるだけだ。社会を変えたいとか、悪を裁き根絶させたいといった大きな理想を掲げなくとも、同じ目線を持つことは私たちにも出来るだろう。「命は尊い」と再認識するだけでも十分意味がある。
 
 いつの間にか引き込まれ、そんなことを考えさせられるうち、このドラマが段々とただのフィクションには思えなくなってくる。「ドラマだから」と割り切れないのは、本当は悲しいことかもしれないけれど。

 この作品はあまりに多くの楽曲を贅沢に使用しているため、著作権等の問題でDVD化が不可能だといわれている。興味のある方は日本で放送しているうちにぜひ見て欲しいと思う。一話完結なのでシーズン途中からでも、見逃した回があっても十分楽しめる(「楽しめる」という言い方は語弊がある、というぐらいに内容は重いですが)。
 
 本国ではシーズン7で打ち切りとなっているが、日本では現在シーズン2(テレビ東京)、シーズン4(AXN)、シーズン6(WOWOW)を放送中。

・テレビ東京(シーズン2) 土曜27:15 (第4土曜日は除く) 
http://www.tv-tokyo.co.jp/coldcase2/
・AXN(シーズン4) 月曜20:55/火曜15:30/金曜24:00/日曜14:55/日曜23:00/月曜16:30
http://axn.co.jp/program/coldcase/index.html ※
・WOWOW(シーズン6) 土曜23:00/日曜10:00
http://www.wowow.co.jp/drama/cold/ ※
※放送分までの全楽曲リストあり

(矢野裕子)

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serge_gainsbourg.jpg 近年、話題になった2006年の『Monsieur Gainsbourg revisited』には個人的に納得いかない部分が多かった。フランツ・フェルディナンド&ジェーン・バーキン、ジャーヴィス・コッカー&キッド・ロコ、ポーティス・ヘッド、マイケル・スタイプ、トリッキー、カーラ・ブルーニなどの錚々たるメンツがセルジュ・ゲンスブール(彼の名前の日本語表記は諸説あるが、ここではセルジュ・ゲンスブールに統一する)へのトリビュートを行なったという事と、作品への解釈論ではあまり口を挟むところがないのだが、如何せん世界的に評価の高い『メロディ・ネルソンの物語(Ballade de Melody)』をメインに、中期から後期、又は「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ(Je t'aime moi non plus)」などの有名曲が多かったのには辟易したという要素因がある。

 だから、初期の「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」を鮮やかにポスト・パンク的に再構築したザ・レイクスや1968年の映画のテーマ曲「スローガンの歌(Le Chanson de Slogan)」をダルに潜航するように曲自体を低温に落とし込んだザ・キルズの流れには昂揚した。

          *          *          * 

 彼は、デビュー作の1958年の『Du Chant A La Une!』のプローモーション時において、「もし、貴方が貴方でなければ、誰になりたいか?」というインタビュワーの質問に即座に、「マルキ・ド・サドか、ロビンソン・クルーソー」と答えている。自分は、彼を偶像・崇拝化する気も貶める気もないが、彼の「借り物」性と、映画監督で見せる「質の悪さ」(ちなみに、僕は、最初は彼の音楽美より映像美に胸打たれた所がある。)、数多の「女性」と寝ながら、下らないブラック・ジョークを潜り、1944年のパリ解放までダビデの星を付けながら、ナチスの迫害に怯えていた頃の恐怖心とトラウマを避わすための長い「余生」を全うすべく、フランス国家への嘲弄、総てにおいてハイブロウな知的戯れに暮れた様は鮮やかですらあった。

 いつも彼は良い意味で空虚だったし、2010年の今においてもフランス人のみならず、モンパルナスの墓を訪れる人が多い理由は分からないでもない。何故なら、こんなに空疎に同じ言葉を持てなくなったセカイで、空虚に踊る為のイコンとして彼を求めるなり、再度、発見「してしまう」のは必然的なのかもしれない。

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 ある一説に、近代以降の大半のポップ・ミュージックとは、女性が男性から離れていった喪失感を基盤としており、「ガール」とは即ち「失って、帰ってこないもの」のメタファーである、みたいなことを言ったりもする。正義、伝統、理性、愛、モラル、平和、光、狂気、自由、何でもいいが、そういうものにも置き換えられるのかもしれない、としたならば、彼の過剰なまでのエロス(と引き裂かれたタナトス)はどうしようもない不条理な人生をバルザックの「知られざる傑作」の画家のフレンホーファー的に受け止めようとしていた証だったのかもしれない。フレンホーファーは10年に渡って、同じ肖像画を描き直し続け、そして、彼の想い入れの中でこの絵は絵画の世界に革命を起こし、「そのままの現実を完璧に描きだす」ものであるという意識で挑んだ。仲間の画家のプーサン、ポルビュスが完成したその絵を見るべく彼の部屋を訪れて、その絵を見れば、キャンバスには雑多な色と形が塗りたくられているだけだった。カオスと条理を通り越した不条理と無為。それでも、フレンホーファーは賢しげを気取る。しかし、その二人の「反応」を慮り、自身の「この10年間」は徒労だったと気付き、慟哭し、仲間が去った後、全部の絵を焼き、自殺する。

 セルジュ・ゲンスブールは、フレンホーファーまで極端ではなかったが、「緩慢なる自殺」を常に試行するニヒリストを気取った徹底したリアリストだった。何せ、デビュー曲と言ってもいい「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」で「自分はリラの門の切符切りで、もうこの世の中にうんざりしていて、はやくずらかりたい、そして、自由になるタイミングを逃したら、棺桶に向かっていこう」と表明しているのだ。

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 彼は、15枚のオリジナルアルバムとその他多くの提供曲、映画音楽があるが、今回は、前半7枚辺りの、所謂「ジャズ的な何かを求めた時期」、ブレイク以前の作品を掘り下げることで、何らかの視角を輻射したいと思う。

 周知の通り、彼はアティチュード面では心酔される存在だったが、音楽面では毀誉褒貶があり、デラシネ(deracine)で表層的な振舞い(デヴィッド・ボウイ的な、と言おうか)が故に逆説的に音楽の「本質性」へとアタッチメントしていたのではないかと思うくらい、シャンソンからジャズ、そして、スウィンギン・ロンドン、ポエトリー・リーディング、ロック、レゲエ、ダブ、ニューウェーヴ、果てはヒップホップへとロールしていった。

 そういう文脈では、1958年から1968年の10年間の作品は「リラからスウィンギン・ロンドンまで」の片道切符が切られている。ファーストの1958年の『Du Chant A La Une!』は既に「遅すぎた」デビューアルバムだった。パリのキャバレーでピアニスト兼歌手として働いていて、ここで出会ったボリス・ヴィアンの歌唱を聞き、感銘を受けての30歳のデビュー。ニヒリスティックな歌詞とバックサウンドのバド・パウエルを彷彿とさせる流麗なジャズっぽさと、彼の独特の気品とスノビズムの鬩ぎ合い。「死」の気配が充填されているのも「らしい」作品で、棺桶に足を半分突っ込みつつ、ジャガーが溝に落ちて死にそうになっているカップルの横で鳴るカーステレオ、不倫、というモティーフの中、サン・ジェルマン=デ・プレ、左岸派へ目配せしながらも、裏ではシニカルに挑発的に中指を立てている、いまだにBGMとかカフェ・ミュージック吸収を免れ続けている癖のある23分弱のささやかな10インチ内でのレヴェル(藻掻き)。

 1959年の『No 2』は、デビュー作より更に短くなり、今で言うEPとも言えるような8曲入りの、英語や言葉遊び、語呂合わせを満遍なく取り入れた「遊んでみた」デビュー作と一転しての、軽やかな一作になった。取り立てて特筆すべき冒険は為されていない相変わらずの、ジャジーなテイスト。表層的にマンボやチャチャを取り入れた然り気ない試みは後々のセルジュのカット・アンド・デコンストラクトの手腕の萌芽を感得出来る。

 1961年のサード・アルバム『驚嘆のセルジュ・ゲンスブール(L'etonant Serge Gainsbourg)』では、やはりジャック・プレヴェールの作詞した「枯葉」をモティーフにした「プレヴェールに捧ぐ(La Chanson De Prevert)」が有名になるのだろう。しかし、その実、ネルヴァルやユーゴー、アルヴェールの「詩」へ曲を付けたり、当時の流行のムーブメントであったイエイエに対して真っ向から「抗う」ようなシャンソンの要素が強い、まだ「時代と寝るのを拒んでいた」頃の彼の文学的リリシズムが溢れる繊細な作品になっている。更に、1962年『No.4』ではジャズへの傾倒が進み、ただ、そこでも、ボサ・ノヴァやサンバといった当時ブラジルで隆盛してきた音楽への目配せをされているところがアンテナの鋭敏な彼らしいパスティーシュの鮮やかさがあり、ただ、全体としてとてもダークな趣きが強いのはアメリカーナ、ブリッツからの、ツイスト、イエイエ(1960年代フランスで流行ったロックンロール調の音楽やディスコ調の音楽)の下世話な盛り上がりに耐えられなかったのか否か、「外れ者」であり続けている自分の幕引きさえも考え、絵描きの世界へ戻ろうという失意から生まれた「ツイスト男の為のレクイエム」としてのアルバムになったのは皮肉だった。その流れのまま、1964年の『Gainsbourg Confidential』は、よりジャズに接近する。ベースのミシェル・ゴードリー、エレク・パクチックとのトリオ構成で2、3日で一気に録りあげた静謐さとアイロニカルな知的美しさに満ちた空気感。「何も語らない」アルバム。

 だからなのか、前三作の「沈黙」を対象化して、「語る」ために同年の『Gainsbourg percussions』でアフロ・ラテンサウンドへ傾斜する。ここまでのアルバムになかった開放感と明朗さが打楽器、12人の女性バッキング・ボーカリストと共に、繰り広げられたエキゾティシズムの表層的な剽窃と、譜割に合わせるが故に全く記号的に音韻を踏んだ歌詞世界。ジョアンナやローラ、ジェレミー等が繰り広げる悲喜劇。ちなみに、90年代以降のクラヴ・カルチャーで最も再評価され、パワースピンされたアルバムであるのは知っている人も多いだろう。

 そして、1965年のフランスギャルへの提供曲「夢見るシャンソン人形」のヒットにより、商業作家としてようやっと実を結び始め、映画音楽も多数手がける中、ブリジッド・バルドーと恋仲になる。その躁的テンションのまま、ロンドンで取られたEPが1968年の『Intial B.B.』になる。トータル・アルバムというには程遠い、ちぐはぐなスウィンギン・ロンドン風ビートに満ちた作品。この頃には、「誰がインで、誰がアウト?(Qui est in qui est out)」というコンテクストで言うと、もう彼は愈よ「イン」になってきていたが故に、スキャンダラスな話題を撒き散らすトリックスターを演じるようになってくる。

          *          *          * 

 冒頭に戻ると、セルジュ・ゲンスブールの初期作品というのは「敢えて」スルーされているのか、それとも評価するに値しない類の習作群なのか、懐疑が募る。荘厳なストリングスが絡む1971年の『メロディ・ネルソンの物語(Histoire de Melody Nelson)』がベックを始めに多くのアーティストに賛美される瀬も良いと思うし、ルーリードの『ベルリン』を髣髴とさせる『くたばれキャベツ野郎( L'Homme à tête de chou)』の重厚なポエトリー・リーディング調のスタイルとコンセプト性、その後のレゲエ、ダブ、ヒップホップ路線への暖かい視座も許容出来る。

 しかし、現代、「君と僕」で完結してしまうポップ・ソングか、ネタ探しをする迄もない、笑うに笑えない、アリストテレスが「芸術は自然を模倣する」と言ったのに対して、オスカー・ワイルド的に「自然は芸術を模倣する」と切り返してみせるような音楽や表現が多い中で、セルジュ・ゲンスブールの「模倣という美学」の中で存在性と初期作品に漂う強烈なニヒリズムこそ必要されるべきだと思うのは筆者の迷妄だろうか。

 セルジュ・ゲンスブールとは、自己の模倣と他者の模倣の相互作用によって、過去および現在において知られる熱狂や狂信といった歴史の力を対象化する。そして、その対象化能力は初期の1958年から1968年の10年間の作品群にも十二分に詰まっている。来年3月2日で没後20年を迎えるが、今こそ彼の全体像は再定義されるべきだと願ってやまない。この原稿がその一端になれば、幸いである。

(松浦達)

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JOHNNY MARR & OGRE YOU ASSHOLE

つきつめると、音楽さえ良ければ
たいていどんなことでも我慢できるんだ


昨年のザ・クリブス東京公演を見にいったとき、フロント・アクトをオウガ・ユー・アスホールが務めていた。彼らはたしかにいいバンドなんだけど、これまで(とくに中心人物の出戸が)USインディー・ファン、というイメージが強くて、ちょっと意外なとりあわせだと感じた。現在はクリブスのメンバーとなっているジョニー・マー(もちろん、ザ・スミスのギタリストとして最も有名)に、開演前の楽屋でちょっとだけ話をする機会があったのだが、オウガの話になると目を輝かせ、「いいバンドだよね!」と言っていた。あとで聞いたところによると、この日彼らが演奏するのも、ジョニーの強烈なプッシュで実現したらしい。そういえば、ジョニーって、クリブスに加入する前はモデスト・マウス(これは出戸も大好き)にいたわけじゃん...と考え、なんとなく、つながり(?)が見えてきた。

そしてフジ・ロックの初日には、偶然にもクリブスとオウガ・ユー・アスホールがどちらも出演する。この機会を逃す手はない...というわけで(とくにジョニーは、あまりにビッグな人なので、できるかな...と思いつつ)両バンドの対談を申し込んだところ、あっさり実現してしまった。

以下、その全貌であります!

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all photos by Toru Yamamoto

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!!!

変わっていくことっていうのは
すごくナチュラルで、美しいことだと思う


バンドのハイ・エナジーをそのまま落とし込んだような作風から、ミニマルで、エディットがふんだんに盛り込まれた作風へと移行した最新作『Strange Weather, Isn't It?』を引っさげて、堂々フジロック初日、ホワイト・ステージのトリを飾った!!!。まだまだ新作からの楽曲は試運転段階のようだが、これまで以上にグルーヴィーな新しいバンド像を垣間見せる、貴重なステージだったと言っていいと思う。インタビュー中でニックが語っているように、10月の単独公演(こちらもご参照ください!)では新曲をより自分たちのものにし、さらに素晴らしいステージを見せてくれることだろう。今回のインタビューではフジロックや新作の話はもちろん、ダンス・バンドの流行から、はたまたイギー・ポップの是非まで、様々な話を聞かせてくれた。

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2010年9月18日

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TEENAGE FANCLUB

長い間レコードを作っていなかった僕らの
新作を作る喜びが反映された結果じゃないのかな


新作『Shadows』を6月に発売したグラスゴーの永遠のギター・ポップ・バンド、ティーンエイジ・ファンクラブ。エヴァー・グリーンな歌心を失わない彼らが、5年ぶりの新作で目指したサウンドとは? 8年ぶりの単独来日公演を10月に控える中、新作の内容からメンバーのサイド・プロジェクト、今や20年以上の活動歴となったバンドが長く続く秘訣までを、ノーマン・ブレイクに聞いた。

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deerhunter.jpg 80年代にR.E.M.(やラヴ・トラクターやガダルカナル・ダイアリー)を輩出したアメリカのジョージア州(州都はアトランタだが、学生都市アセンズも見逃せない)から、90年代には、オブ・モントリオール(やオリヴィア・トレマー・コントロールなど)が登場した。そして00年代以降は...ディアハンター(やデンジャー・マウスなど)だっ!

 ...なんて言ってもいいほどの存在感を、彼らは獲得している(ちなみに、デンジャー・マウスの件については、この8月におこなったブロークン・ベルズのインタヴューも参照してほしいのだけれど、まだテープ起こしも終わっていない...。うー、もうしばらくお待ちください。すみません...:汗)。

 彼らのニュー・アルバム『ハルシオン・ダイジェスト』は、まさにタイトルどおり夢の世界をさまようかのごとき甘美な感覚も、ポップ・ミュージックとしての強度も、見事に増している。

 ご存知のとおり、ハルシオンとは、医者に処方されればこの日本でも合法的に入手可能な(たしか、今もそうだよね? ちがったら、ごめんなさい...)睡眠導入剤。ちなみに、ぼくは数年前からマイスリーという薬を処方されているのだが、その際に医者と話したところ、ハルシオンは最近は(日本の医者が処方する薬としては)あまり流行りではないとのことだった。その理由は...まあ、あえてふせておくが、とりあえず、ハルシオンは決して「非合法ドラッグ」ではない(もしくは、なかった)ということを強調しておこう。それを薦めているわけではない。ハルシオンの大量摂取の習慣から、そっちのほうに入っていってしまい、結局亡くなってしまったという人も、かつての知り合いにいる。

 だから? いや、ドラッグ=クールなどという、わけのわからないイメージを持つ人には「だっせー」と言われてしまいそうなギリギリの位置にある、こういう薬の名前をアルバム・タイトルにもってくるのが、なんか彼ららしくてかっこいい...というか、素敵に今っぽいな、と。

 オルタナティヴ=アウトロウ(outlaw:法の外にあるもの)=クールといった、これまたくだらないイメージを持っている人が、この新作をどうとらえるかどうかはわからない。しかし基本的には「オルタナティヴ=常にそこにあるけれど見すごされがちなもの」と考えているぼくのような者にとって、この『ハルシオン・ダイジェスト』は明らかに彼らの最高傑作だ。

 ギター、ベース、ドラムスという伝統的な楽器をメインにしつつ、わざと焦点をぼかしたような(ときおり「本題にはなりえない」印象的サウンドが響くことも「焦点をぼかしている」ことにつながる)リヴァーブがかったサウンドと、あらゆる人の琴線にふれつつ心を浸食していくようなメロディーの融合は、(「瞬間のひらめき」を大切にするタイプの)職人芸的な輝きを、ますます増している。

 既にウィキペディアに掲載された記事(早っ!:笑)で、中心人物ブラッドフォード・J・コックスは、アルバム・タイトルについて、こんなふうに語っている。

「このアルバムのタイトルが示唆しているのは、ぼくらの大好きな思い出がここにたくさんつまっている、ってことかな。『ねつ造された記憶』も含めて。たとえば、ぼくとリッキー・ウィルソンが友だちだったときのこととか...。ヴィクトリアン・オートハープ工場だった場所の廃墟に住んでいたときのこととか...。そんなふうに、ぼくら人間が自分たちの記憶を書き換えたり、エディットして記憶のダイジェスト・ヴァージョンを作るのと同じように、このアルバムの曲を書いた。それで、ちょっと悲しい感じも漂っている」

 このリッキー・ウィルソンとは誰なのか? まあカイザー・チーフスのシンガーじゃないだろうし、もしかするとバスケットボールの選手? それとも...、いや、まさか...と思いつつ(実は上記の発言自体は、ほかのウェブサイトの記事で見つけた。オリジナルはどこなんだ? とググって、ウィキにも行きついた)、同じウィキのページに載ってる発言を見たところ、その「まさか」だった!

「70年代や80年代に、レコード屋さんが『アート・ロック』的なもので盛りあがっていたころのことには、いつもつい魅了されちゃうんだよね。アセンズのワックストリー(Wuxtry)とか。ぼくも子どものころに、よく行っていた。あと同じくアセンズのワックスンファクツ(Wax 'n' Facts:ちなみに、ワックスというのは、アナログ盤のこと。それをヴァイナルと呼ぶのと同じような感覚)とか。ルー・リードやXTCのポスターの隣に、もう完全に色あせた(おそらく70年代末とかの?)B-52'sのライヴのフライヤーがはってあったりしてさ...。壁一面が、もう『アート・パンク』のスクラップブックみたいだった。ぼくは『おい、このクソみたいな目玉の着ぐるみをかぶったレジデンツって、誰なんだ? あまりにアホらしくて最高じゃないか!』みたいな感じだったよ」

 リッキー・ウィルソンとは、R.E.M.と同じころアセンズの「アート・パンク」(アメリカにおいて「ポスト・パンク」という言葉を使わないのは当然正しい)界隈から登場して彼らより早く全米でブレイクを果たしたバンド、B-52'sの、ほかでもない1985年に亡くなったオリジナル・メンバーのことなのだろう。

 泣ける話ではないか...。

 そういえば、R.E.M.というバンド名の意味は「どのようにとらえてもいい」と当時から彼らは強調していたものの、「夢を見るときの眼球の動き」であるRapid Eye Movementを示している、という解釈もあったなんてことを思い出す。

 日本では、ディアハンターはシューゲイザーというカテゴリで語られることが少なくない。それを無視するのもなんなので、一応付加しておこう。ぼくとしては、そのカテゴリに入れられる90年代のバンドでは、やはりクリエイション・レコーズから出ていたものがとくに好きだ。そして初期クリエイション・レコーズの作品群は(主宰者アラン・マッギーのそれも含み)、80年代なかば当時、アメリカで「ペイズリー・アンダーグラウンド」と称されていたバンドたち...ドリーム・シンジケートやレイン・パレード、グリーン・オン・レッドやヴァイオレント・ファムズ、そして初期R.E.M.らの音楽に、かなり通じるものだった(アランは当時レイン・パレードをイギリスで出したがっていたという話も聞いた)。

 本作には、そういった80年代なかばのサイケデリックな音楽が、今まったく新しい意匠をまとって蘇ったようだと感じられる部分もある。

 シューゲイザーもポスト・パンクも、アート・ロックもアート・パンクも、レッテル系の「言葉」はすべて飛びこえて、このアルバムからは、こういった素晴らしい「音楽のつながり」さえぼんやりと見えてくる。

(伊藤英嗣)

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manic_street_preachers.jpg 常に時代の真逆へと舵を切っているマニックス。今作『Postcards From A Young Man』でも、時代に逆らうようなアルバムを作ってきた。良い意味で売れ線なのだ。そして、かなり王道的な音になっていると言われたりしていたけど、前作の『Journal For Plague Lovers』の余韻を引きずったような曲もあるし、「まんま『A Design For Life』やん!」な「Postcards From A Young Man」のような曲もある。

 僕自身『The Holy Bible』がマニックスのディスコグラフィーのなかで一番好きだし、どうしてもそのときの「ポストパンク・リバイバルを先取っていた音」のイメージが拭い去れない。そして、リッチーの創造力溢れる歌詞。良くも悪くも、マニックスにはリッチーという存在が付きまとっていた。もしかしたら、今作に収録されている「Auto-Intoxication」での「俺ってラッキーなんだよな/生き残ったんだよな」という一節なんかは、「『The Holy Bible』期のマニックスとリッチー失踪について?」と世間では思われるかも知れない。でも、『Postcards From A Young Man』にリッチーは付きまとっていない。正確には、マニックスの中にリッチーは生きているけど、リッチーを引きずっていないという感じ。今作に対する引き合いとして、『Everything Must Go』や『This My Truth Tell Me Yours』といった彼らが過去に発表したアルバムが挙がるけど、『Everything Must Go』の「とりあえずの応急処置」や、『This My Truth Tell Me Yours』の「手探りで彷徨う姿」というのはここには見られない。むしろ、絶対的な確信に満ちている。それは前作『Journal For Plague Lovers』で、歌詞という形ながらも、リッチーと向き合った影響があるのかもしれない。

『Postcards From A Young Man』でのマニックスは、多くのマスや観衆を求めている。それでも、インターポールの最新作みたいな安っぽさを感じないのは、マニックスの行動が常に批評精神に基づいているからだと思う。今の時代というのは、アンダーグラウンドに留まりつつ(若しくは、その精神を保守的なまでに守りつつ)、少しずつ支持を得ていきながら活動するというのが主流になっている(まあ、そうせざるえないという一面もあるけど)。もしかしたらマニックスは、旧態的な音楽ビジネスの良い面である「音楽のカオスと躍動」が好きなのかも? だから、クイーンだったり、久保憲司さんの言うところのカーティス・メイフィールド、つまり、ハード・ロックだったり、アーバン・ソウルだったりするのだろうか? そうだとしたら、僕からすると、単なる「おっさんの戯言」に聞こえてしまうけどね。でも、マニックスの凄いところは、その戯言でさえ批評として成立してしまうところ。だから僕は、マニックスが大好きなんですね。

 僕としては、このアルバムが現在の音楽シーンの幻想を取り払ってくれることを期待している。つまり、「音楽ビジネスそのもの」を否定して、ある種のナルシズムに陥り、「否定」が自己目的化してしまう罠。現在の音楽シーンって、そんな罠にはまって退屈な音を鳴らしている輩が多いと思うので。DIYな活動で注目集めているアーティストやバンドだって、やっていることは、従来の音楽ビジネスの人達がやっていたことと、ほとんど変わらないですからね。ただ、その使い方を自分なりにアレンジしているだけ。要は、「どう使うか?」ということです。
 
 マニックスは、音楽ビジネスの仕組みを上手く使いこなせるから、どんな方向性に行っても支持され、注目されるんだと思う。そして、自分の主張や表現を曲げずに実行する。これは相当なタフネスと知性がないとできないことだし、それを20年近くも第一線でやり続けているのには、マジで尊敬です。解散してしまったオアシスとの差は、そこだと思う。そして『Postcards From A Young Man』は、そんなマニックスのひとつの集大成であり、新たな始まりだと僕は思う。

(近藤真弥)

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maroon5.jpg 航空機の機内放送御用達の音楽というものがあり、個人的にオーセンティックなロック/ポップスのプログラムで組み込まれているアーティストやバンドを確認するのが趣味になっている。例えば、コールドプレイやレディオヘッド、U2なんて大御所は必ずと言っていい程、入っているが、存外にザ・キラーズ、リンキン・パークやグリーンデイといった十二分に大きな「ロック・バンド」が含まれていない事が時折、ある。移動中に聴くには、それらはオブセッシヴだという事なのか、考える事がある中、正々堂々とした現代のロック・バンドとしてプログラムに組み込まれているバンドにマルーン5が居て、彼等の佇まいの愛され方は「異様」とさえ思う。

 華華しいファーストの『Songs About Jane』は、誰の耳で聴いても「良い」と思えるポップとロックの折衷点を見出した曲の粒の揃い方で、また、スティーヴィー・ワンダーやプリンスなどの「黒さ」を程好く取り入れた軽やかさと全体を通底する伸びやかな世界観で、大文字のロック・ファンからミーハーな層まで魅了した。

 今現在、「高度な」大人ほど幼児化しているのは知っているだろうか。ある玩具メーカーのオフィスは「大きい遊び場」になっていて、皆も周知のGoogleの社内はプログラマーに一つずつ部屋はあるが、PC以外あとは全部、ジオラマになっている。もう亡くなりしマイケル・ジャクソンが夢想した「ネバーランド」を求める大人は、フレキシビリティの中で「サステナビリティ」を回避する。それはつまり、或る意味で今は共通言語が無くなってしまった時代でもあるから、と言い換えられる。野球も見ず、政治もよく知らないけど、漫画の話で延々2時間、昔話で延々2時間、語ることが出来たりする。それをして、「トライヴ」や「クラスタ」など自嘲/自尊ベースで名称付けるが、結局、「過去」だけは誰も侵食されないから、80年代のMTV隆盛時代のようなバウンシーでセクシーだけど、表層的で薄いサウンド・スタイルがリバイバルして、10年代に援用されているのは実はとても切実な現代への「対抗という名の退行」だと思っている。「共通」言語じゃなく「共犯」言語になってしまっている訳だから。

「共犯言語に堕す」と何が悪いか、と言うと「ソト」が分からなくなる。「ウチ」で完結してしまい、その架橋がメディアやコミュニケーション・ベースが或る程度、あったのだが、それも有効的ではなくなったから、今、「同じ言葉」を話していても「位相」は違う。

 先行シングルの「Misery」で「僕は永遠に送ることのない手紙を200通も書いたよ」とか「君を取り戻せない自分は惨め(misery)だ」と臆面なく歌うアダムの「身も蓋も無さ」は正面から向き合うと、相当に痛々しいし、時代錯誤的だ。クリス・マーティンがまだ「エルサレムの鐘が聞こえる」というのはメタ的に認知出来る。何せ、彼は「フェア・トレード(FAIR TRADE)」と手に書いてポーズを決める人なのだから。引き換え、マルーン5というバンドはどちらかというと、そこまでセクシーな対象枠には入りにくい。確かに、前作のアルバムからのリード・トラック「Makes Me Wonder」におけるスティーリー・ダン、ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツ的なシティー・ミュージックを現代的にベタ解釈して、PVでは近未来的なシチュエーション(ストロークスの「12:51」的な世界観と言おうか)で彼等は精一杯、男前を気取った様は目を奪われるものがあった。その「気取り方」がクールなのかアンクールだったのか、セールスが示した通り、アダム・レヴィーンはセクシーなアイドルとなり、バンド自体も全世界で受容されるだけの知名度と信頼度を得た。だが、どうにも彼等がよりクールに巨大な存在になっていく毎に、僕自身は「マルーン5は何に向けて音楽を鳴らそうとしているのか」、懐疑を持つようになった。

 そんな個人的な懐疑を別に、3年振りの今回の『Hands All Over』はなかなかの力作になった。その理由として、沈黙や不在に基づいた独自の文学観を提示したモーリス・ブランショがしばしば、「消失」の運動を志向する文学は実は、思考が消失を目指す非人称的な運動に従うだけでなく、逆に、この非人称性を起点として「孤独・友愛・共同性」という多層的な人称世界を豊かに産出するものでもあることを明らかにしているとすれば、匿名的な「マルーン5というバンド」のYOU&Iだらけの過剰さも、「具体的に」恋愛関係や現実の政治的コンテクストと関係づけることで、彼等を具体的な現実の中に配置して、生き生きとさせているのかもしれないとも思えるからだ。

 ディスコを援用して、リズムのバネのタフさが映える「Misery」、流麗な彼等の18番的な美しくポップなアレンジで詰められた「Never Gonna Leave This Bed」、アダムの歌唱が朗朗と響く「How」、ブルーアイド・ソウル的な「Just A Feeling」、レディ・アンテベラム(Lady Antebellum)と組んだカントリー調の「Out Of Goodbyes」など佳曲群がズラッと並んでおり、一気に聴くと食傷してしまう位の過剰さがある。その「過剰さ」を支えたのがプロデューサーのAC/DC、デフ・レパード、カーズ、シャナイア・トゥエインなどを手掛けたロバート・ジョン・マット・ラングだとすると、当意即妙とも言えるかもしれない。70年代末から80年代の「本流」のロックを支えた大御所。彼とマルーン5のタッグは、ケミストリーを起こさない代わりに、十二分にバラエティに富んだ「メインストリーム」を捻じ曲げるサウンドを生み出した。「スマートで、味気ない」という声をボリュームと過剰さで捻じ伏せるような力技もある。

 日本の寂れたサバービアのショップでも、世界のカルフール、ウォルマートやターゲットでもこれは置かれるアルバムであるし、配信形態としても爆発的に拡がるだろうし、それを手に取り、聴く人はバラバラだろう。でも、それは「共犯言語」のそれではなく、「共通言語」に限りなく近いファンタジーとしたら、マルーン5というバンドは侮れないのかもしれない。

          *          *          * 

 最後に、ロールズの「正義論」に関して触れよう。

「正義論」は、今更語るまでもないものの、功利主義に代わる代案としての「正義」の強度を民主主義の背景に置いて、「相互利益を希求する冒険的な企図」が社会の諸制度が機能した上で分配して、尚且つ「原初状態」における人たちの判断を二つに区分した。

 その二つとは、①各人は基本的な自由に対しての平等な原理を持つべきであって、そのベーシックな自由は各人と同様な「自由」と両立する限り、最大限、自由でないといけない、ということ。②社会的・経済的不平等は、もっとも不遇な人の立場における利益を最大限、尊重しないといけない、また、公正な機会の均等を割り振った条件下での、各位の職位や地位に付随するものでないといけない、というものを満たさないということ。

 これは実はとても、「感覚」論だ。よく考えると、人間の正義原則、本能欲求とは、もっと「無為なものへ働くこともままある」訳で、自由そのものの定義性どうこうよりも現代最新の経済学では「サービスをしないことこそが、サービスであり、奉仕でもある」という理論もある。そこで、マルーン5が描くものとは、決して大文字の他者ではないイロニカルな構造が浮かび上がる。

 ロールズ的正義下では、「原初状態ではみんな、最悪の状態を回避して、合理的な判断を下すだろう」とされるが、この「原初状態」というのは「無知のヴェールに覆われた人たち、つまりは周囲との相対性、優劣意識がない状態」を指す。つまり、先進的な「現実」では援用は出来ても、「適用は出来ない」。何故なら、お金が無くても、皆、「必須なもの」じゃなくても、「気になる」ものにはお金惜しまない。それが全く、効率的じゃなくても。

 今回の『Hands All Over』は「効率的ではない」。故に、より多くの人に求められるだろう。

(松浦達)

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