September 2010アーカイブ

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parachute_musical.jpg 僕にとってポップ・ミュージックとは一回聴いただけで耳にぽーんとポップに入ってくるものである。いわばレコ屋の試聴機で聴いた途端、条件反射的にレジに持っていってしまう音楽のことなのだ。いやいや、音楽は聴くたびに新たな発見があるのだから何度も聴くべきだ、という言い分もよく分かるのだけど、何かを発見する目的で何度も聴くわけではないからなあ...。発見とは「結果的に」生じるものなんだから。

 その文脈において、コールドプレイやクイーンと比較されることもあるナッシュヴィルを中心に活動する4人組のピアノ・ロック・バンド、パラシュート・ミュージカルの音楽は、まさにぽーんと耳に入ってくる。なんだかそういうバンドが最近減った気がするのだ。ポップ・ミュージックは眉間にしわを寄せて聴くものではなくて、あくまでも大衆娯楽であるべき。ピアノの室内音楽的な響きを大切にし、クラシック音楽の要素を取り入れつつも、そこにラテンやジャズ、ロックを取り入れる音楽性は大胆不敵。音楽はエンターテイメントであるべきというメンタリティがある。
 
 彼らの国内盤デビューとなる本作は、08年リリースの『Everything is Working Out Fine In Some Town』に2010年リリースの最新シングル「No Confort」をプラスした日本オリジナル仕様。ナッシュヴィルの人気プロデューサー、デレク・ガーテンによるもの。流暢なピアノの音色と対比してエモーショナルなヴォーカルが活きている。時に叫び、時に泣いているような歌声は、わざとらしい衝動性がなく、自然と滲み出てしまった衝動の温度差が楽曲に色彩の豊かさを与え、ただのピアノ・ロックと表するのは勿体無い。衝動とは、衝動を出すぞと意気込んだ時点でフェイクになるのだから、自然と滲み出るものでなくてはならない。もはやギターを叩き割る行為が擬似衝動的なパフォーマンスと化していると感じる僕だが、本作にはパフォーマンスとしての衝動はないのである。加えるに、ヴォーカルはエモーショナルでありながらも跳ねるパーカッションやコーラスが茶目っ気たっぷり。かつ、足音や人の喋り声もサンプリングする。そんな茶目っ気がエンターテイメントの色を濃くしている。アルバム通してひとつの劇を観ているよう。ロック・オペラ的な側面も持っている。
 
 とにもかくにも、本作の良さはポップ感と衝動性だ。ピアノを打楽器として叩きつけるように弾き、衝動を表すバンドは多くいるが、パラシュート・ミュージカルは違う。綺麗にピアノを弾きながら叫ぶ姿は、人間が持つ二面性を、ピアノとシャウト、という二面性で提示する。流暢なピアノによる穏やかな感情とシャウトが持つやりきれない感情。その相反する感情を同時に出しているところにこの音楽の良さがある。そしてそれが、自然と滲み出てしまっているところが良いのである。

 当然ながら音楽とは何かを表現するものだ。技巧に長けていながらも、人間性を表現している本作にグッと惹かれた。このバンドはピアノ・ロックと表されるが、音楽を聴く際、僕らはジャンルを聴いているのではなく人間性を聴いている。とどのつまり、人間の可能性を聴いている。その可能性は無限であり、広がっていく。だが、ピアノ・ロックというジャンル名は無限ではなく、広がらない。人間はカテゴライズできないのだと訴える本作は、音と聴き手の関係性もまた無限であることを示す。あくまでもポップに。

(田中喬史)

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spitz.jpg「コンスタンティン・ツィオルスキーが宇宙時代のマルクスとしたら、ヴェルナー・フォン・ブラウンとロバート・ゴダードはレーニンとエンゲルス、アーサー・クラークはトロツキーではないか」という例えをしていたある作家の言葉があって、トロツキーが無性に読みたくなって、書店に行くと、光文社の新訳文庫で、「永続革命論」が出ていた。

 ここでのレーニンとの意見の対立を経ての、スターリンの粛清を受けるというのは「革命論」として現代的には「興味深い」ながら、トロツキニストの真価はこれから発揮されるのだろう、とも思った。それを読みながら、同時に頭に浮かんだのはキャリアとしては、20年を越えるバンドがいまだにストレートなギターロックで「恋する凡人」と自己卑下的な視線で疾走しながらも、「これ以上は歌詞にできない」ことを「歌詞」で綴るスピッツというバンドは何なのだろうか、ということだった。

「理論」としての、トロツキーはとても「一つの絵画を見る」ように美しい。しかし、それが「行動」に移される真際、破綻を来たす。学生運動が華やかなりし頃の「当時の青年たち」の内、スターリンを心酔していた人は結構偉くなっていったり、大企業の中枢とかインテリゲンツァ的なポジションでひっそりと「存在する」が、はて、トロツキーを読んでいた人たちは「何処へ」向かったのだろう。

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「メンシェビキ(少数派)」の意味を考えていたら、如何に今が不毛な時代なのか、ミスチルがツアーを行なう際にドームを常にフルハウスにする時代に、敢えてと言うより、当たり前にライヴ・ハウスを巡るスピッツは既に「大きいバンド」だが、「メンシェビキの為の集会」を設定する意図が明確にある。マルクスやドストエフスキーが「再評価」される世の中はとても味気なく、「日常のロマンティシズム」に埋もれている時間があるならば、「ロマンティシズムとしての日常」を箱庭化してしまえばいいだろうに。「拡大された装置」に乗る為に音楽は「誰も」に開かれている訳でもない。

 1995年の巷間的なブレイク曲「ロビンソン」でスピッツは「誰も触れない二人だけの国」を創出したが、それは今で言う「オタク」的な意味なものではなく、「Sandplay Therapy(箱庭療法)」的な配置を意図した。庭の「枠」があるために、箱庭による自己表現が可能であり、セラピー的効果があることで、鋭角的に表現を出来る、ということだ。当時はミスターチルドレン、ザ・イエローモンキー、L⇔R、ウルフルズなどと「J-」の枠の中で括られ、今で当てはまるとしたならば、彼等は草食系、または文科系のリスナーを陶然とさせていた。小室系やJ-POPの邦楽バブルのブレイク後の渾沌の中で、ミスターチルドレンがロックと殉教するように『深海』に潜っている間、"逆風に向かい 手を広げて 壊れてみよう 僕達は希望のクズだから"(「インディゴ地平線」)と彼等もブレイク後のヘビーな環境変化に対峙しながら、藻掻いていたが、全く「位相」が違った。それは現在、ミスターチルドレンが主体になる「ap bank」というフェスティヴァルと、スピッツが軸になる「ロックロックこんにちは!」というイベントくらいの幅で。

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 少し説明しておこう。「ロックロックこんにちは!」とは、都度、スピッツがメインを取り、彼等自身が興味深いアーティストやバンド、仲の良い人たちを招聘することが多いイベントだが、記念的なものを含めてほぼライヴ・ハウスでしか行なわれない。場所は仙台と大阪。今年は、仙台は「ロックのほそみち」と名前を変え、東京でも「新木場サンセット」という形で展開されていたが、これも「ロックロックこんにちは!」との連関性と見ればいいだろう。

 過去には、くるり、クラムボン、POLYSICS、GRAPEVINE、奥田民生、syrup16g、ORANGE RANGE、フジファブリック、いきものがかり、サンボマスター、ザ・ボウディーズなどなど多岐に渡るメンツが揃うが、何処となく「馴れ合い」的な意味を避けるようなオルタナティヴ性の強いフックアップを行なっている。僕もこのイベントは何度も足を運んだが、印象深かったのは2006年の大阪でのイベントの10年目を祝っての野外での大規模な形のものだった。奥田民生、KRAVA、ジェイク・シマブクロ、真心ブラザーズ、吉井和哉、レミオロメン、そして、ミスターチルドレンといったビッグ・ネームがサラッと並んでいたが、それぞれがスピッツという存在へ独自のリスペクトを見せながらも、フラットなライヴを行ない、トリをおさめたスピッツもあくまで自然体で気負いのないパフォーマンスを行なった。しかし、完全に「装置」的になってから以降のミスターチルドレンがあれだけ、何かしらの「アウェイ性」を持っていたライヴというのは初めて体験したかもしれない。スピッツはやはり「代案(オルタナティヴ)」であり、彼等は「本案」が故に、受けて側はその時は「代案」を求めていたのだった。

「代案」としての彼等の歴史の紆余曲折はあまりに長く、纏めるには個々の作品論、「本案」としてのシーンを見渡さないといけないが、イベントやフェス以外でアリーナ公演を単独ですることをしなかった彼等が2009年にさいたまスーパーアリーナと大阪城ホールで行なったのも、その06年のイベントと同じく意義深かった。このアリーナ公演では、当時の新作『さざなみCD』から主に、「チェリー」、「ロビンソン」といったヒット曲を挟みながら、ふとオルタナティヴ期の1992年の『惑星のかけら』の「ハニーハニー」をやり、シングルとしても独特な立ち位置にある「渚」などかなりアグレッシヴな部分も伺えた。

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 そして、この2010年に彼等は独自の「けもの道」を設定した。

 基本、アーティスト、バンドとしてのルーティン的な流れの、シングルやアルバムを出して、プロモーションをして、ライヴを行なうという行為を対象化して、新曲群も入れながら、ツアーを行ない、その最後にアルバムを出すという表明をしたのだ。案の定、ツアーは「その時点では、まだ名前さえもついていない新曲」が披露されたり、と、かなりファンの間でも話題になったようだが、今年の6月リリース「つぐみ」というシングルでは、次のアルバムでもスタジオ・ヴァージョンで入る「恋する凡人」という新曲のライヴ・テイクが敢えて収められていたり、試行の痕が垣間見えた。

 近年、どうにも大型のタイアップと彼等自身が担うイメージの問題もあったのか、「魔法のコトバ」辺りからA面サイドに当たるシングルが以前に無い生温さとポップ過ぎる部分にもどかしさをおぼえていた層からすると、そのシングルのカップリング、2曲目に収められる曲の実験的な部分を感受する事で、溜飲を下げるしかなかったのは正直、否めないだろう。何故なら、以前、ブレイク後でしっかりと固定的なファンの母体もある中で、正々堂々と「メモリーズ/放浪カモメはどこまでも」というオルタナティヴなシングルをメインストリームへ提出していたバンドだったのだから。殊更、「メモリーズ」ではあの鼻にかかるような透明感のある草野氏のボーカルは完全に加工されていた。

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 元々からして、アート・スクールの学生の延長線的な佇まいでシュールレアリスムのような世界観を、多大に影響の受けたザ・ブルーハーツ的パンク精神で貫くというモードで始まったバンドであり、初期の頃の草野氏の歌詞にはアンドレ・ブルトンの詩のような「死的な何か」が充溢していて、ベーシックな部分では相変わらず「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いの美しさ」をリプレゼントしてきた。それを、ベースの田村氏、ギターの三輪氏、ドラムの崎山氏との4ピースのスタイルで、バンドとしての一体感を持って、ロックを続けてきた過程は今も基本、変わらない。サポートは入っても、スピッツは4人で「成立」する。

 今回のツアーでは「初恋クレイジー」や「愛のことば」といった旧曲のチョイスもかなりエッジが入ったモードに入っている事が伺えたが、新しいシングルの「シロクマ/ビギナー」はなかなか面白い内容になっている。「シロクマ」はアコースティックな質感と抜けの良さ、爽やかなポップ・チューンでその中でふと「地平線を知りたくて ゴミ山登る」という草野氏独特の歌詞が挟まれるという「らしい」曲になっており、両サイドA面になる一方の「ビギナー」はスケールの大きいメロディーの「立ったサビ」での高揚含めて「手続きを取り易い」スピッツのバンド・サウンドの色が強く出た、近年のA面曲に相応しいクオリティになっている。

 そして、これは触れておかないといけないだろう。今回のシングルではこの2曲以外に、ライヴ・テイクが入っている。1曲が「シロクマ」、更にもう1曲が「ナイフ」なのだ。

「ナイフ」とは、1992年のミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』というオーケストレーションを大胆に取り入れた実験的な作品に収録されていた。原曲自体も浮遊感溢れるアレンジの中で「3月の君のバースデイには ハンティングナイフのごついやつをあげる」という草野氏のシュールな歌詞が活きている佳曲だ。この「ナイフ」のライヴ・テイクがまた素晴らしい。危うさと程遠い程の長いキャリアと重ね、確固たる地位を得ても、まだこの蜻蛉のような繊細さと無為性を醸し出すというのはなかなか出来ない、と思う。僕などはベタなので、咄嗟にアンドレ・ブルトンの「ナジャ」での「美は痙攣的なものであるにちがいなく、さもなくば存在さえしない」という言葉を想い出した。既にアナウンスをされており、リリースを控える今度のアルバムも楽しみだが、このシングルで正々堂々とCMで流れる曲と「ナイフを混ぜる」確信犯的な所がある限り、今のスピッツは非常に面白い立ち位置に居るのではないか、と思う。代案で埋め尽くされた世の瀬に「目を閉じて不完全な部屋に帰るよ」というスタンスには意味も強度も繋がりもない。ただ、「深度」がある。

(松浦達)

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calexico.jpg カリフォルニアとメキシコをマッシュアップした実在の町の名前を持つ2人組、キャレキシコ。オルタナ・カントリーの伝説的存在として20年近くに渡ってパンク、ガレージ・ロックにルーツ・ミュージックをミックスしたサウンドを鳴らし続けたジャイアント・サンドのメンバーが中心となって結成されてから10年以上がたつ。ジョーイ・バーンズ(ボーカル/マルチ・インストゥルメント)とジョン・コンヴァーティノ(ドラム)は、その名のとおり、アメリカとメキシコの音楽を様々なアプローチで混血させてきた。ブルース、カントリー、テックス・メックス、マリアッチ、そしてフォーク。「ルーツ・ミュージックや民族音楽は、ちょっと苦手だなぁ」という人も耳を傾けて欲しい。だって、このライブ・アルバムは無料でダウンロードできるんだから! ルーツ・ミュージックや民族音楽は、ストリートから生まれたサウンド。食わず嫌いはもったいない。身体に馴染むビートやメロディ、楽器の響きがきっと見つかるはず。

 キャレキシコは1st『Spoke』から現時点での最新作である6th『キャリード・トゥ・ダスト』までTouch & Go傘下のQuarterstick Recordsに在籍してきた。以前、僕が紹介させてもらったミ・アミは1stだけをこのレーベルからリリースして、2ndではThrill Jockeyに移籍していた。ということは、Touch & Goが閉鎖された今、キャレキシコはどのレーベルとも契約していないってこと? だからこのライブ・アルバムは「僕たち元気ですよ! ツアーに出ますよ!」って言う挨拶がわりなのかもしれない。バンドのウェブサイトには9月~10月のアーケイド・ファイアとのアメリカ/カナダツアーがしっかり告知されている。ひと安心。

 このアルバムは2009年にドイツのニュルンベルクで行われたライブをパッケージしたもの。バンドは中心となる2人にペダル・スティール、トランペットなどの奏者を加えた7人編成。観客との一体感や熱気を感じるというよりも、自分たちの音楽を真摯に演奏するバンドの姿が目に浮かぶようだ。全10曲中7曲が『キャリード・トゥ・ダスト』から。でもそのスタジオ盤に慣れた耳にも、この深さと広がりは新鮮で感動的だと思う。「Red Blooms」は、ディレイを駆使したポスト・ロック的な響きが強調されている。疾走感を増す後半でボブ・ディランの「シルヴィオ」が歌い込まれる「Victor Jara's Hands」も最高にカッコいい!ブルース・ハープとアコギ1本で、時にはバンドを従えてフォークからブルース、カントリーまで自由に歩き続けるディランの影がここまで届いていることにも納得だ。ディランの作品としては不遇の時代とも言える88年の『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』からのピック・アップっていうのも素敵。名曲だから。

 さあ、このリンク先へジャンプして、ダウンロードを始めよう。スティーブン・ソダーバーグの『トラフィック』やコーエン兄弟の『ノーカントリー』の世界へようこそ。不気味なほど澄み切った青空とハイウェイ、不法入国、麻薬の取り引き、砂ぼこりと熱い太陽、そして夜の闇。ワイルドなんだけれども、人々の目はどこか覚めている。キャレキシコの音楽が鳴り響くここではない、どこかへ。

(犬飼一郎)

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white_denim.jpg テキサス州オースティンの3人組、ホワイト・デニム。彼らのサウンドのベースになっているのは、初期ストロークスやホワイト・ストライプス譲りのガレージ・ロックだ。だが、そこにプログレ、ファンク、フォーク、カントリー、更にはソウルやダブの要素までブチ込む貪欲な雑食性で奇妙なサイケデリアを生み出している。もし、レッド・ツェッペリンがアメリカ中西部でトリップしたならこんなふうになっていたんだろうか?、と思わせるような突然変異種のバンドだ。

 そんな彼らは、08年にデビュー・アルバム『Workout Holiday』、09年にセカンド『Fits』をリリース。これまでは速いペースで、充実した作品を制作してきた。

 そして今年はというと、案の定新作が届けられた。しかも、フリーDLでの配布に踏み切っている。現在、バンドのオフィシャルHPにてこの音源は配布中。トップページに掲載されたコメントによれば、この作品はあくまでもオリジナル・アルバムではなく、次のアルバムが出るまでの間ファンに楽しんでもらうためのものだそう。肝心のアルバムは来年になるようだ。

 とはいえ、この『Last Day Of Summer』は手抜きのラフな作品なのかといえば、決してそうではない。前2作と比較して肩の力が抜けているような印象は確かにある。だが、その結果として、これまでの2作に漂っていたムサ苦しさや男臭さがぐっと軽減。その代わり、フックのあるヴォーカルの掛け合いや、トロピカルなビートなどが前面に出てきてぐっと聴きやすくなっている。楽曲のユニークさにおいても、ミニマルなリフを延々と繰り返すインストがあったり、うねうねと曲がりくねるメロディに曲の世界に引きずり込まれたり、はたまた曲によってはサックスを導入して新たなサウンドを模索している充実ぶりだ。『Last Day Of Summer』とのタイトルどおり、ぎらぎらと照りつける日差しが和らぎ、涼しさが姿を現そうとするひとときを切り取った、くらくらするようなサウンドスケープが広がる作品だ。

 全12曲、ポップにベクトルを向けた作風に、今後の期待が高まるばかり。この作品でまだ練習レベルなのだから、これから取り掛かるアルバムは素晴らしいものになるのだろう。この音源で多くの人がこのバンドの期待を共有して欲しいものだ。

(角田仁志)

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DCPRG.jpg 「人類の歴史は、自然の一部でありながら、自然を対象化するようになった生物の一つの種が、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人の一生においても、社会全体としても、叡智をつくして、つまり最も人工的に、みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する、その模索と努力の過程ではないかと思うことがある」
(『曠野から』中公文庫 31頁 川田順造)

 サブ・プライム、リーマン・ショック以降の金融危機が起こり始めた際、戦争が起こるのではないか、と考えた人もいたが、戦争で経済が良くなるには幾つもの条件付けが必要であり、昨今の戦争ではその便益も曖昧になってくるのはポール・ポーストの「戦争の経済学」に詳しい。「戦争」というのは政治的なツールとして使われ、時に国家間の軋みから個へと降りてゆく惨憺たるものでもあるが、経済的に捉える観点も時にドライに必要でもある。損得勘定で言えば、昔の戦争特需的なイメージは現代では抱かない方が良い。

 1999年のデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(DCPRG)結成における菊地成孔氏の筆による最初の企画書ではレナード・リュイン「アイアン・マウンテン報告」、モンティ・パイソン、マイルス・デイヴィスの『On The Corner』というモティーフを散りばめ、戦争に関する音楽としての意味付けをした。その「戦時下でのグルーヴ」は、妙なことに全く「ポストモダン」も何も分からないクラヴァーに受け入れられ、ROVO(彼らとはスプリット・シングルを出したりしていたが)や渋さ知らズ等の枠内に収められた。或る種の層からするとベタで苦々しさもおぼえるエレクトリック・マイルス時期の「そのままの音」とポリリズムを「敢えて」の表象の宛先不明性。また、それぞれのパートの微妙なタイムのズレをして、その「行間」でこそ観客を踊らせた様は、00年代は「敢えて‐」の時代に入ってゆくのだな、とライヴに足を運ぶ度に、感じた。

 大友良英氏が居た『REPORT FROM IRON MOUNTAIN』周辺の第一期は兎に角、菊地成孔氏のイメージするバブルな時期のディスコ的な「ミラーボール」を仮象化する事に傾心し過ぎていたところは否めない。その後もライヴでの定番となる「Hey Joe」や「Mirror Balls」はスタジオ録音では非常に無機的で表層的だったが、CDJを絡めての独自のファンクネス、ポリリズムによるバウンシーな「揺らぎ」は十二分にあった。ライヴで再構築される様は現場に居たら感得出来たが、その集大成として2003年のライヴ盤の『MUSICAL FROM CHAOS』にて十二分に確認は出来る。場所を変えて5テイク収められた「Catch22」、マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』の「Spanish Key」の丁寧なカバー。散逸するリズムと放り投げられる或る種のベタな渾沌。兎に角、菊地氏はこのDCPRGにおいては「渾沌」というモティーフを用いる。それが、彼の他の幅広い活動の中でも異例なくらいに、「憂鬱と官能」といったターム以上の「記号性」でもって、半ば「戦時下の為のダンス・ミュージック」という強引さで結びつけられる。大型フェスティバルから小さなライヴハウスまでを跨ぐ強引さで、兎に角、疾走(失踪)を試行した。

 以前、大阪でのトーク・ショーに足を運んだ折、「結婚以後のスラヴォイ・ジジェクに興味は無くなったのは何故ですか?」と質問を彼にしたことがあったが、その質問は僕自身が間違っていた事を今でも考え直す。ジジェクにおける「結婚」というタームの捉え方というよりも、一時期、「一番、インタビューしてみたい、話してみたい人はジジェク」と言っていた彼自身の問題として、アナモルフィック・リーディング的に捉える「べき」だと思ったのもあり、今回、DCPRGが3年振りに活動を再開するにあたって、「主体」自体は、実在の正の場を正の実体と誤って認識してしまうというものに対して「負」を仮置きして、その大きさによって捕捉される作用性自体を考えないといけない、と思ったのもある。

 00年代を猛スピードで駆け抜けた、菊地成孔という人の在り方は多かれ少なかれ皆が周知だろうし各々の感性の神話ベースに吸収され、本人自体が多くを語っているので詳細は割愛するが、「遅れてきたポストモダニスト」としてのその饒舌な語り口のトリックスター性は、スタティック(静的)なユースのイコンでもあったし、停滞を余儀なくされていた論壇界でも軽やかに風穴を空け、遂には大学といったアカデミックな場所にも求められる事になり、ハイブロウもサブ・カルチャーもモードも行き来しながら、兎に角、「今、何故にゴダールやマイルス・デイヴィスを語る必然性があるのか?」という疑念を持つ層さえ捩じ伏せ、「敢えて‐」のイズムを貫き通した。だからこそ、想像を絶するほどの批判や非難も受けただろうし、同族嫌悪のインテリゲンツァは無視することを決め込んだり、彼自身が予期設定した「戦場」ではあらゆる亡霊(revenant)が行き来していた。その意味で、第二期の始めとしての『Structure et force(構造と力)』はおそらく、そのマッシヴで好戦的な部分が最も現れた作品であり、実際のライヴで「structure I la structure de la magie moderne /構造I(現代呪術の構造)」などはイントロ部分で歓声があがり、一気にフロアーが沸いた。その沸き方の野暮ったさとリズムと踊りが噛み合わないギクシャクとした感じはDCPRG、もしくは菊地成孔氏自体を巡る磁場自体を巡る何かを孕んでもいた。ヘーゲル哲学がある種の人たちを「熱狂」させ、そうすることで、「本当」に大事な懐疑精神から目を背けさせてしまうかのような。

 07年の今のところ、スタジオ録音作品として最後になる、カフカの未完の作品である「アメリカ」をモティーフにした『Franz Kafka's Amerika』では遂に「踊ること」自体が困難な音像を生み出してしまい、「宛名のない手紙」が投函される形で、「役割を終えた」と活動の休止に至ったのは仕方なかった事なのかもしれない。オバマ前のマッドなアメリカを「夢想」する限界性はどう考えても、滞留を余儀なくされたからだ。

 そして、3年。ポスト・オバマの閉塞、ソブリン・リスク、チャイナVSアメリカ、オイル・マネー、日本という先進国の底抜け、と世界的な複合不況を引き寄せる要素とそこから派生する予期不安を刈り取る為に今、DCPRGという装置を推し進めようとするのか、それとも、完全なる戦時下においてのダンスを今こそ定義したいのか、明確な理由はまだはっきりとはしない。だが、「敢えて‐」で00年代をサヴァイヴした菊地成孔氏がもうそれでは無理だという「危機の数は13」とばかりに鎧を脱ぎ捨てての、再開なのか、今後の動向が気になると共に、ライヴ、ニューアルバムへの視座などどういう展開になるのか、1929年のニュールンベルグ党大会における、巨大出力PAスピーカーを埋め合わせる意図を孕むのか、米国国防総省(ペンタゴン)と英国王室庭園(ロイヤル・ガーデン)を目指す為のラングはあるのか、注視したい。

(松浦達)

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of_montreal.jpg ジョージア州アセンズのレーベル名(インディー・バンドの小さな音楽コミュニティ、と表現したほうがピンとくるかも)で90年代を代表するムーブメントの代名詞のひとつともなり、日本でも愛されたエレファント6を離れ、かつてのローファイ・ポップからエレクトロ・グラム・ファンクとでも形容すべき音楽性にモデル・チェンジを遂げ、広く世界に名を轟かす契機となった2007年の大傑作『Hissing Fauna, Are You the Destroyer?』以降、ケヴィン・バーンズは己の自我をどこまでも膨らませながら、ビートルズやキンクスの流れを汲んだキャッチーなソング・ライティングとトッド・ラングレン的なサウンド・コラージュを得意とした自身の先天的な資質を、ブラック・ミュージックへの憧憬という名の靴スミで黒く上塗りしているみたいな音楽を作りだしてきた。

 ファンク・ミュージック的なマナーに則ったドラム・マシーンがアルバム全編を支配し、不自然で強引な転調がめまぐるしく続き、曲間は塞がれ息をつぐ余裕さえ奪われた、大仰でパラノイアックなノンストップ・ロック・オペラとなった前作『Skeletal Lamping』はひとつの極北というか、ふだんは部屋のベッドにうずくまって返事もしない男の子が大風呂敷いっぱいに広げた妄想をトイレもない部屋で聞かされているような、どうにも胃のもたれる作りだった(そこが良かったのだが)。おまけにステージでは忍者や虎を従え本物の白馬を乗り回すなどド派手すぎるショウを展開し、破天荒すぎるその雄姿に共感しワクワクさせられつつ、さすがにこの路線もやり尽くしてそろそろ一区切りだろう...と思いきや、本作『False Priest』でも彼はその妄想と黒人音楽への愛を拡張させていく道を選んだようだ。作を重ねるごとに(ケヴィンの弟・デヴィッドが担当している狂ったアートワークとともに)過激に変貌していくオブ・モントリオール。だが、本作にはポップ・レコードとして素直に歓迎できる取っつきやすさが復活している。

 本作は『Hissing~』で生まれたケヴィン・バーンズのペルソナ、Georgie Fruit(デヴィッド・ボウイにおけるジギー・スターダストみたいなもの)を巡る物語の第三章である。「熱烈な恋→らぶらぶ→別れるぷんぷん→いじいじ→開き直る→私清くなんかないもん→強制終了」(的確でわかりやすすぎるので、Twitterでの@emoyamaさんのツイートをそのまま引用させてもらった)という実に現代的な恋愛ドラマのラインに沿いながら、歌詞におけるセクシャルな表現やタブーを恐れぬ居直りっぷりは変わらず。

 この作品が"開かれた"レコードとなっている最大の要因はジャネル・モネイ(Janelle Monae)及び、彼女の音楽仲間であるワンダランド・アート・ソサエティ(Wonderland Art Society、以下WAS)との出会いだ。2719年からやってきた(という設定の)彼女がフリッツ・ラングの『メトロポリス』を下敷きに創ったフューチャー・ソウル・アルバム『The ArchAndroid』は想像力と柔軟性に富んだ今年を代表する作品であるが、オブ・モントリオールもそのアルバムのなかで「Make The Bus」という曲を提供している。露骨にオブモン節溢れる楽曲はR&Bアルバムのなかではさすがにちょっと浮いていて初めて聞いたとき笑ったが、思えばリーゼント・スタイルのアンドロイドと白馬の王子様の邂逅はある意味で必然であり、妄想VS妄想の濃すぎる交友はケヴィンに多大なインスピレーションを与えたようだ(実際、あらゆるインタヴューで彼はモネイやWAS界隈について言及し、さらにツアーも一緒に周っている)。

 まさしくふたりの出会いを歌っているかのような、ボーイ・ミーツ・ガールのウキウキする悦びに満ちたこれぞオブモン! なファルセット・パラダイス「Our Riotous Defects」と、WASの面々に影響を受けて読んだというフィリップ・K・ディックらSF小説の匂いが色濃く反映された、インベーダーの襲来を喚起させるスリリングなシンセが美しいスペース・オペラ調の「Enemy Gene」の二曲でモネイとのセクシーな共演を披露している。また、モネイからの紹介で知り合ったという、ビヨンセの妹・ソランジュとも「Sex Karma」(スゲェ曲名...)で掛け合っている。素晴らしい歌唱力を誇る女性陣と、別にそうでもないというかむしろ音痴なケヴィンの危うい絡みは実にチャーミング。

 さらにアルバムを表情豊かにさせているのはジョン・ブライオン(最近はカニエ・ウエストなども手掛けたが、個人的には『マグノリア』などエイミー・マンの初期作での仕事が印象深い)のプロデュースだろう。バンド史上初の外部プロデューサーとなったブライオンはケヴィン制作のデモに手を加えまくり、前作にあった打ちこみの多用によるリズムのもたつき、ファンクなのに腰が振れないもどかしさを生ドラムや生楽器を前面に押し出し、ベース・ラインを今まで以上に太く強調することで解消させ、多彩なシンセ・ワークでアルバムに見事な音の凹凸をもたらした。これまでは上塗りでしかなかったブラック・ミュージックからの影響を、バンドの個性を殺すことなく完全に血肉化させることに成功している。イントロのサーフ・ロックを思わせるテケテケ・ギターからピート・タウンゼント風ギター・ストロークとヘヴィなリズムに雪崩れ込む、シングル曲「Coquet Coquette」(ぶっ飛んだジャケどおりの"ニワトリ戦争"を思わせる楽曲)も雷鳴のような鋭いシンセの音色で迫力を増しているし、歌のメロディだけ取り出せば1.5流のローファイ・ポップに落ち着きそうな「Godly Intersex」も執拗なまでにエコーやエフェクトをかけまくることで、終わりの見えないエロス地獄の粘り気と倦怠をうまく表現している。「Like A Tourist」の曲終盤で鳴るパイプオルガンみたいな響きは神々しい暴力性をもっているし、ケヴィンの一人多重コーラスもかつてないほど色気がある。

 アルバムはモータウン~マーヴィン・ゲイ調の「I Feel Ya Strutter」でミュージカルのオープニングのように華々しく幕を開け、前述の楽曲のほかにも、後半のうねるブリープ・シンセも気持ちいい洗練されまくったスムース・ソウル「Hydra Fancies」、カーズみたいなギター・ロックからいまやすっかりお手のものなエレクトロ・ファンクに急シフトする「Famine Affair」など、聴きどころは実に多い。終盤はやや曲調も重くなり、レディオヘッドの「Fitter,Happier」(『OK Computer』収録の)で朗読しているソフトにヴォコーダーを通させたような語り口で「兄弟姉妹より神が大事だなんて、君は間違っている~」とかブツブツ呟く≪強制終了≫の仕方(「You Do Mutilate?」)はセカイ系みたいで正直ちょっとイマイチだが、それも誠実さと受け止められるなら(もともとケヴィンの世界観って相当ウジウジしてるしね)本作が最高傑作だと言えなくもないほどの充実度である。

 最高傑作といっても、前作まで僅かながらあったエレファント6時代の残り火のようなものはいよいよ消え失せてしまった。人懐っこくビートリーなギター・ポップやぶっ飛んだ転調もここにはほとんどない。ひっくり返したおもちゃ箱はキレイさっぱり片付けられてしまったようだ。他のエレファント6界隈のバンドも、アップルズ・イン・ステレオはELOみたいになってアメリカを代表するポップ・バンドへと飛躍したり、逆にエルフ・パワーの新譜は炭酸が抜けたぬるいコーラというと表現は悪いが、相変わらずの捻りは見せるもののかつてあった煌めきは正直色あせていた。やめる人は消えていくし、残った人は次々変わっていく。

 そんななかでオブ・モントリオールが逞しいのは、これだけ音楽性が変わりバンドの人気やステージが巨大化しながらもDIYの精神を失わないところ。ツアーにおける多様なコスチュームのデザインもおカネの管理も移動の車もぜんぶ自前で、楽器スタッフもひとりしかおかず、コスト削減とチケット代の値下げに努めているそうだ。先日、彼らの地元アセンズで行われたライブのチケット代はなんと17ドル! この原稿を書いている時点で1,428円である。あんなマジカルなライブがそんな値段だなんて夢みたいな話だ。しかも、今行われているツアーではマイケル・ジャクソン・メドレーのオマケつき! CD不況と嘆かれるなか、前作の超変形ジャケットほどではないけどパッケージ・デザインは凝っていて厚みのあるブックレットもついてるし(「モノ」として欲しくなる)、バンドTシャツを買えばアルバム音源のmp3もついてくるし、一方でケヴィンはステージ上で脱ぎまぐるし、ヘンテコな踊りをかますし、どう考えても誰より信用できるじゃないか。やっぱり極端な人が好き! 一生ついていきたい。

(小熊俊哉)

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maximum_balloon.jpg デイヴ・シーテック。もしこの男がいなければ、00年代のポップ・ミュージック界はかなり違ったものになっていたかもしれない。ブルックリンの大御所バンド、TV・オン・ザ・レディオのギタリストとして、また、ヤー・ヤー・ヤーズやライアーズ、フォールズなどのプロデューサーとして、エポックメイキングな作品を世に送り出してきた。今のブルックリンの活況もデイヴあってのものといえるだろう。

 そんな彼が、初となるソロ・アルバムを作り上げた。名義はマキシマム・バルーン。TVOTRのバンドメイト、トゥンデ・アデビンペとキップ・マローン、カレン・Oにホーリー・ミランダ、それに注目の新人ラッパー、セオフィラス・ロンンドン、更にはデヴィッド・バーンまでがゲスト・ヴォーカリストとして参加している。そのメンツの豪華さはまるで、今年のゴリラズやマーク・ロンソンのアルバムのよう。しかも、共通しているのは、あくまで「裏方」であること。決して、自分自身がフロントにしゃしゃり出てくることはない。

 しかも、ヴォーカリストひとりひとりにベストなトラックを提供していることに驚かされる。そのハマり具合には恐れ入るばかりだ。例えば、艶やかに黒光りするトゥンデのヴォーカルにはゴシック・ディスコを、カレン・Oには『It's Blitz!』に通じる気高さを感じるシンセ・ポップを、デヴィッド・バーンには後期トーキング・ヘッズを彷彿させるミニマルなファンクを、といった具合だ。はっきりいって、各ヴォーカリストが実力を十二分に発揮できないはずがない。すべての曲で、デイヴのトラックとヴォーカルががっぷり四つに組んでいる。そのため、結果的に個性豊かな楽曲が揃うこととなった。

 全体的には、ナイル・ロジャース譲りのパーカッシヴなギターが印象的な、ソウルとアート・ロックを融合させたような作風が展開されている。TVOTRの最新作『Dear Science』での一大抒情詩的作風とは打って変わり、ダンサブルなビートを備えたフロア対応型のアルバムだ。だが、ベクトルこそ違えど、実験性とクロさ、ポップネスの3つを全く欠くことのないハイ・クオリティを誇っている。まだまだ、デイヴ・シーテックは時代のトップ・ランナーだ。彼は、そのことをこの作品で証明して見せたのだから。

(角田仁志)

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mogwai.jpg もう既に役割を終えたバンドだと思っていた。しかし、やはり素晴らしい。役割うんぬんで語るバンドではない。CDとDVDの二枚組みの本作は現時点の最高傑作だ。95年にグラスゴーで結成され、サッカー選手ジダンのドキュメンタリー映画のサントラを手がけ、映画『マイアミ・バイス』に楽曲を提供したことでも知られるモグワイ。今年のメタモルフォーゼにも出演した。
 
 思えばスリントを敬愛するこのバンドは常にリスナーの期待と戦い続けてきた。神秘的なメロディから轟音へ。それは時としてマンネリと評されつつも、母語として彼らは守り続けた。エレクトロニクス・サウンドを取り入れようが、歌や朗読を取り入れようが、轟音だけは絶対に譲れない意地がモグワイにはあった。リスナーになんと言われようとだ。心臓を目の前に差し出す覚悟はあるのか? モグワイにはある。膨張した心臓が脈打つような轟音を、彼らは覚悟として鳴らす。いつ破滅するのか分からない。そんなぎりぎりの覚悟が宿った轟音は血が滴り落ちるほど生々しい生命力に満ちている。音の中でいくつもの音が動き、ざわめき、奇声をあげ、いまにも破裂しそうなまでに「生きて」いる。その音の前ではリスナーのマンネリという言葉はかき消される。心臓を差し出す覚悟はあるのか? 僕らにはない。
 
 90年代後半から00年代前半までのモグワイの勢いは凄まじかった。多くのフォロワーを生み、来日するたびにライヴは伝説とまで評された。特に初来日公演と03年の渋谷AXでのライヴの記憶は今でも頭にこびりついている。巨大な化け物と向かい合わされたような迫力。音に飲み込まれる感覚。音圧が皮膚に当たり、すれ傷になりそうなほど圧倒的な音のかたまりが全身にのめり込む。時間が止まり、やがて訪れる放心状態。音に打ちのめされるという言葉が似合うライヴをやるのはモグワイだけだ。作品も発表されるたびに話題となり、マーキュリー・レヴのデイヴ・フリッドマンをプロデューサーに迎えた2nd『Come On Die Young』はストーリー性に富んでいて、モグワイのメロディ・メイカーとしての素質も浮き上がらせ、なおかつ轟音の破壊力も美として昇華させた傑作だった。続くテクノ的アプローチを見せた『Rock Action』も、一音が持つ美を徹底的に突き詰めた『Happy Songs For Happy People』も素晴らしく、その後二作のアルバムも同様、モグワイだからこそ鳴らせる生命力が宿っていた。

 彼らは決して音楽シーンに便乗することも、音楽性を曲げることもしなかった。それは何かへのアンチではなく、自分達のスタンスを信じているが故の強さであり、モグワイはいつだって裸なのだ。裸の自分をためらいなくリスナーにぶつける。まるで死を恐れず暗闇に飛び込むように。死をも覚悟している轟音から生命力が溢れ出す。そして音の中から再び聞える。心臓を差し出す覚悟はあるのか?
 
 本作は09年の4月27日から29日にわたって行なわれたブルックリンでのライヴを記録したものだ。モグワイは何も変わっていない。いや、いままでの音楽性をさらに深く追求し、これ以上のものはない、というところまできている。彼らと似た音楽性を押し出すバンドは多いが、たとえ同じことをやっていようが、モグワイには遠く及ばない。まさに彼らの意地が、覚悟が、そして裸の姿が詰まっている。新旧の楽曲がまんべんなく並ぶ本作だが、ひとつのストーリーとして聴こえるから不思議だ。それは映画のサントラを手がけたこともあるのだろう。「Mogwai Fear Satan」の次が「Cody」だなんて、素晴らしいじゃないか。それだけで泣けてくるのに、哀感をも大切にするメロディが聴き手を惹き込み、そして轟音が泣き叫ぶように鳴っている。ライヴ盤にもかかわらずエレクトロニクス音を導入した楽曲も生々しさを失わぬまま効くべきところで効いている。興奮と哀感が交互に訪れ、笑顔と涙でぐしゃぐしゃにされてしまいそうだ。そしてより迫力が増した轟音が体の奥まで入り込む。モグワイを聴く事とは音との一体化なのだ。その中毒性は凄まじい。メロディ・メイカーとしての資質も本作で十二分に発揮されていて、それは轟音の中にまで入り込み、多種多様の音が轟音の中で動いている。メロディすら、じっくり聴かせる作品になっているのは「モグワイ=轟音」というステレオタイプなイメージの払拭を狙ってのことだと僕は思う。ついついアーティストに固定したイメージを持ってしまうことがあるが、本作を聴くだけでもモグワイは轟音のみのバンドではないと分かる。メロディがしっかりしているからこそ、過去のバンドとしてモグワイは終わらないのだ。
 
 そしてヴィンセント・ムーンとナサナエル・ル・スクアーネックが監督を務めたDVDが素晴らしい。ライヴ映像中心だが、映像作品と呼べるもので、モノクロで映し出されるその映像はライトなホラー感があり、メンバーのギターを弾く指使いや、眼球の動きや汗まで見えそうなアップを多用することで臨場感を重視し、モグワイの世界観ではなく、メンバーそのものに焦点を当てている。それゆえ、生々しく、アングルの編集も絶妙で、最前列でライヴを観ているような疑似体験が味わえる。モグワイのライヴといえば照明も見物のひとつではあるが、あえてモノクロにし、遠くからの映像をほとんど削いだことで彼らの野性的な魅力が毒々しいまでに映し出されている。観ている間は心拍数が上がりっぱなしだった。すなわち、興奮する。もしモグワイを聴いた事がないリスナーがいたら、まず本作を手に取ることを薦める。そしてDVDを観てほしい。仮にDVDだけだったとしても買う価値は十分ある。呼吸困難になりそうなほど、このDVDは化け物じみている。CDを含め本作は、モグワイが表現者として常に前進していることを示している。脈をうつ音楽は確かにあるのだ。

(田中喬史)

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skream.jpg このアルバムは、スクリームを多くのリスナーに触れさせることになるかも知れない。ダークな2ステップだった頃も含めると、ダブステップもそこそこ長い歴史があるけど、『Outside The Box』はそんなダブステップというジャンルの現時点での集大成がある。6月にリリースされたラスコのアルバムでも聴けるけど、最近のダブステップは、ドラムンベースやヒップホップ回帰していたり、ダブステップにとってのルーツな音が目立ってきている。ダブステップというのは、ほんとに様々な音楽性を取り込んできたし、今もスクウィーなどサブジャンルという形で、広がりを見せている。『Outside The Box』は、そんなダブステップの可能性と魅力が存分に詰まっている。

 そして、このアルバムのもうひとつの魅力は、スクリーム自身の幅広い音楽的嗜好とポップセンスだと思う。特に、「Where You Should Be」「How Real」「Finally」の3曲は、優れた「歌」として機能している。ダブステップの歌モノって、ラップになりがちだけど(基本ダブステップはヒップホップですからね)、スクリームの場合は、アンダーグラウンドよりもラジオ・ヒット曲に近いものになっている。意外とスクリームって、マニックスのようなポップジャンキーなのかも? さらにはアルバムの構成も優れていて、序盤はゆっくりと始まって、4曲目の「Where You Should Be」から盛り上がり始めて、「I Love The Way」でピークを迎える。それ以降は、徐々に熱を下げていって、最終的には「冷めた高熱」というなんとも不思議な感覚に陥る。特にアルバム終盤は、ラ・ルーが参加している「Finally」がキーになっている。彼女の祈りにも似た、囁くようなヴォーカルは、『Outside The Box』に決定的な「ナニカ」を与えている。僕自身ヴォーカリストとしてのラ・ルーの魅力に気づいたのも、「Finally」だ。アルバムとしての流れでは、「Where You Should Be」から「I Love The Way」までの展開は、圧巻の一言。この辺りは、かなりフロアチックな展開になっていて、盛り上がる。

 前作が、フロアの空気を意識した、かなり力任せなジャイアン的なアルバムだとしたら、今作は、スクリームのプロデューサーとしての審美眼とアーティストセンスが同居した余裕のあるアルバム。フロアの外に出たダブステップの多くが、安易なポップの流用でエッジを失っていくなか、スクリームの『Outside The Box』は、ポップ・ミュージックが本来持っているエッジを取り込みながら、スクリーム自身のエッジをさらに鋭くしている。ダブステップで、ここまで心を揺さぶってくるアルバムは、初めてではないだろうか? もしかしたら、ダブステップはあなたの隣に居るのかも知れない。

(近藤真弥)

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seaworthy + matt_rosner.jpg 12kからアコースティックギターとドローン・サウンドによるエクスペリメンタルな作品をリリースしている(レコーディング場所は海軍の弾薬庫)シーワーシーと、Room40あたりから電子ノイズによるエクスペリメンタルな作品をリリースしているマット・ロスナーによる、オーストラリア出身のアーティストらによる共作。彼らの共作はスプリットも含めると二枚目になる。
 
 本盤の生まれた経緯も興味深いもので、4月に彼らはニュー・サウス・ウェールズのメルー湖とターメイル湖を訪れ、そこで生態系研究を目的としたフィールドレコーディングを行った。その副産物(あくまでも生態系研究ありき)として、研究の合間にシーワーシーが即興でアコースティックギターやウクレレを爪弾き、マットがスタジオでそれらにドローン・サウンドを織り込み、ミックスを手掛けたという、いわば研究結果のようなアルバム。曲のタイトルも、メルー湖の岩棚、ターメイル湖付近の砂丘など、"すっぴん"のままである。ターメイル湖での録音の方が、やや寂寥感に満ちてはいるが、お互いの単独作品に比べると風通しが良く、内省的でない。
 
 音楽が片時として彼らの傍らから離れていないというか、パーソナル性の体現である。肩肘はって音楽に対してつんのめるのではなく、もっと平穏で日常的な要素の一つとして音楽と対峙している姿勢はかっこいいと思うし、憧れる。神々しくも現実離れもしていないアンビエント、ドローン、エクスペリメンタルがあってもいいはずだし、必ずしも美しくある必要なんかない。

(楓屋)

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