オウガ・ユー・アスホール「浮かれている人」EP(Vap)

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ogre_you_asshole.jpg "ここまでの君はどうかしてる"
(「バランス」)

 要は、「僕」ではなくて、どうかしてるのは君だという訳だ。このクールな突き放し方に、日本の新世代勢の表現者の一部が共有している感性のヒップな優しさを受容してしまって、グッときてしまった。ポストモダン的に「僕」を消すことを厭わないが、モダンでは「僕」は書き換え可能だということ。

 最近、個人的にエッジがあると想う日本のバンドの中、ザ・ミイラズモーモールルギャバン、踊ってばかりの国、そして、今回のオウガ・ユー・アスホール(OGRE YOU ASSHOLE)といい、彼等は積極的に「自死」の翳を散りばめる。しかも、そういった表現を覆うサウンド・テクストは意外と「ベタ」なギターロックだったり、ファンク、レゲエ、ローファイだったり、意匠は違うものの、脱力した生真面目なリアリティからの脱却の回路が敷かれているのが僕にはフラットに新しく映る。もうわざわざ「表現のために音を選ばなくてもよくなった」、つまりは「この表現にはこの音でしかフィットしない」、という規範となるレールからの外れ方が予め内在化されており、彼等の背後にはぼんやりといつも今は亡きフィッシュマンズやゆらゆら帝国などの存在が亡霊として平然と歩いている。それは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中でマルクスが、「人々は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない」として、人々を動かす「過去の夢魔」を分析したように、夢魔をそれぞれなりに嚥下して、今ここで起きる白昼夢をリアルに生き抜ける。
 
 彼等のキャリア自体は決して短くなく、また既に一定の評価を受けているバンドだが、今年の春から八ヶ岳の麓にスタジオを構え、そこで活動を始め、今回の『浮かれている人』に繋がった流れでは確実にパラダイムのシフトが起きている。森での空気感が融け込んでいるかのように何処か隙間のあるサイケデリアの中に鳥の声や葉の擦れ合う音さえ「含まれている」ような、柔らかさと緩さを孕んでおり、そこにペイヴメントやモデスト・マウス、ビルト・トゥ・スピル等が持っているUSローファイ感があり、DFA界隈が持っていたハンドメイドのダンス・ビートが揺れている。その「誤差」分をゆらゆら帝国『The Sweet Spot』以降の「隙間が埋め立てている」とでも言おうか、bonobosの光も乱反射している不気味さがある。スイートだが、毒を孕んだ甘さがある。

 キルケゴールは、人生には三つの有り様と段階があると考えた。ここで言う「段階」には、どの有り様に置かれようと、どんな人間もより高い「段階」に飛ぶことが出来るという意味が含まれている。しかし、多くの人々がある一つの段階で一生を過ごしてしまうとされてもいる。まず、この段階の人が殆どだろうが、「美的実存の段階」にいる人間は刹那的に生きていて、楽しむ機会ばかり希求して、躍っている。「感覚」の世界に浸かり、自分の快楽や気分に隷属して、面倒なことには一切、乗らない。懊悩にしても、美的、或いは鑑賞的な態度を取るだけだ。そこで軸になるのは「虚栄心」。「虚栄心」は人を多弁にさせ、「自尊心」は人を寡黙にするというアフォリズムが有効ならば、例えば、オウガ・ユー・アスホールは饒舌を気取らないのか、理由が分かると思う。

 簡単に言えば、「美的実存の段階」にある場合、人は虚無に囚われやすくなる。しかし、このような感情が故の希望の矢印を視る事が出来るとキルケゴールは考える。「不安」への肯定性。今の時代、「死に至る病」なんてもう、前提条件であれども、わざわざコース料理のメインディッシュになる程のものではない。「不安」は個人が「実存的な状況」にあると気付いた証左だとしたら、「レースのコース」に一瞥するだけなのだ。

 そういう意味に沿うと、彼等はこのミニアルバムを経て、「美的実存の段階」から「倫理的実存の段階」へと跳躍するように促す「選択」をしようとしているのかもしれない。ソクラテスの「本物の認識は自分の内側からやってくる」、という言葉に沿うならば、「実存的な空洞」を非・実存的な筆致とサウンドスケイプで脱臼させてみせた、自己における「実存的な状況」への"気付き"が、別方向に捩れるならば、次の作品はカント的なものとして「倫理的実存」に着地してしまう憂慮もあるのだが。何故なら、カントの倫理学では、道徳律や努力といった言葉が蠅のように観念を飛び回るからだ。

 彼等は果たして、「深淵への跳躍」は可能なのか、俄然興味が尽きない「過渡期の一枚」にして、「変化の橋」としてキャリアにおいて何らかの楔になる鮮やかな美しさを持った「理知的な」作品になった。「生ける理知に飛び込む」ことによって、人間がサルヴェージされるのは、本当は実存なのかそうではないのか、を露わにすることになるだろう。

 反復されるミニマル・ビート、ローファイネスと60年代のような甘いポップネス、かといって、回顧主義にはならないように仕組まれたコーラス・サンプリングとエフェクト処理、そして、ふと挟まれるシニシズムの視線が容赦なく、借り物の実存を対象化しながら、フィッシュマンズが『空中キャンプ』で提示した「夏休み」なんて何処にでも転がっているものさ、というスタイリッシュな冷酷さが「夏休みを終わらせない」という反転現象を示唆させる。でも、そこで「浮かれる彼 背に浮かぶ」と歌うように、背中合わせで、僕たちが体験しようとしている夏休みではないところが彼等のまた良い所だと思う。

(松浦達)

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