マルーン5『ハンズ・オール・オーヴァー』(A&M / Universal)

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maroon5.jpg 航空機の機内放送御用達の音楽というものがあり、個人的にオーセンティックなロック/ポップスのプログラムで組み込まれているアーティストやバンドを確認するのが趣味になっている。例えば、コールドプレイやレディオヘッド、U2なんて大御所は必ずと言っていい程、入っているが、存外にザ・キラーズ、リンキン・パークやグリーンデイといった十二分に大きな「ロック・バンド」が含まれていない事が時折、ある。移動中に聴くには、それらはオブセッシヴだという事なのか、考える事がある中、正々堂々とした現代のロック・バンドとしてプログラムに組み込まれているバンドにマルーン5が居て、彼等の佇まいの愛され方は「異様」とさえ思う。

 華華しいファーストの『Songs About Jane』は、誰の耳で聴いても「良い」と思えるポップとロックの折衷点を見出した曲の粒の揃い方で、また、スティーヴィー・ワンダーやプリンスなどの「黒さ」を程好く取り入れた軽やかさと全体を通底する伸びやかな世界観で、大文字のロック・ファンからミーハーな層まで魅了した。

 今現在、「高度な」大人ほど幼児化しているのは知っているだろうか。ある玩具メーカーのオフィスは「大きい遊び場」になっていて、皆も周知のGoogleの社内はプログラマーに一つずつ部屋はあるが、PC以外あとは全部、ジオラマになっている。もう亡くなりしマイケル・ジャクソンが夢想した「ネバーランド」を求める大人は、フレキシビリティの中で「サステナビリティ」を回避する。それはつまり、或る意味で今は共通言語が無くなってしまった時代でもあるから、と言い換えられる。野球も見ず、政治もよく知らないけど、漫画の話で延々2時間、昔話で延々2時間、語ることが出来たりする。それをして、「トライヴ」や「クラスタ」など自嘲/自尊ベースで名称付けるが、結局、「過去」だけは誰も侵食されないから、80年代のMTV隆盛時代のようなバウンシーでセクシーだけど、表層的で薄いサウンド・スタイルがリバイバルして、10年代に援用されているのは実はとても切実な現代への「対抗という名の退行」だと思っている。「共通」言語じゃなく「共犯」言語になってしまっている訳だから。

「共犯言語に堕す」と何が悪いか、と言うと「ソト」が分からなくなる。「ウチ」で完結してしまい、その架橋がメディアやコミュニケーション・ベースが或る程度、あったのだが、それも有効的ではなくなったから、今、「同じ言葉」を話していても「位相」は違う。

 先行シングルの「Misery」で「僕は永遠に送ることのない手紙を200通も書いたよ」とか「君を取り戻せない自分は惨め(misery)だ」と臆面なく歌うアダムの「身も蓋も無さ」は正面から向き合うと、相当に痛々しいし、時代錯誤的だ。クリス・マーティンがまだ「エルサレムの鐘が聞こえる」というのはメタ的に認知出来る。何せ、彼は「フェア・トレード(FAIR TRADE)」と手に書いてポーズを決める人なのだから。引き換え、マルーン5というバンドはどちらかというと、そこまでセクシーな対象枠には入りにくい。確かに、前作のアルバムからのリード・トラック「Makes Me Wonder」におけるスティーリー・ダン、ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツ的なシティー・ミュージックを現代的にベタ解釈して、PVでは近未来的なシチュエーション(ストロークスの「12:51」的な世界観と言おうか)で彼等は精一杯、男前を気取った様は目を奪われるものがあった。その「気取り方」がクールなのかアンクールだったのか、セールスが示した通り、アダム・レヴィーンはセクシーなアイドルとなり、バンド自体も全世界で受容されるだけの知名度と信頼度を得た。だが、どうにも彼等がよりクールに巨大な存在になっていく毎に、僕自身は「マルーン5は何に向けて音楽を鳴らそうとしているのか」、懐疑を持つようになった。

 そんな個人的な懐疑を別に、3年振りの今回の『Hands All Over』はなかなかの力作になった。その理由として、沈黙や不在に基づいた独自の文学観を提示したモーリス・ブランショがしばしば、「消失」の運動を志向する文学は実は、思考が消失を目指す非人称的な運動に従うだけでなく、逆に、この非人称性を起点として「孤独・友愛・共同性」という多層的な人称世界を豊かに産出するものでもあることを明らかにしているとすれば、匿名的な「マルーン5というバンド」のYOU&Iだらけの過剰さも、「具体的に」恋愛関係や現実の政治的コンテクストと関係づけることで、彼等を具体的な現実の中に配置して、生き生きとさせているのかもしれないとも思えるからだ。

 ディスコを援用して、リズムのバネのタフさが映える「Misery」、流麗な彼等の18番的な美しくポップなアレンジで詰められた「Never Gonna Leave This Bed」、アダムの歌唱が朗朗と響く「How」、ブルーアイド・ソウル的な「Just A Feeling」、レディ・アンテベラム(Lady Antebellum)と組んだカントリー調の「Out Of Goodbyes」など佳曲群がズラッと並んでおり、一気に聴くと食傷してしまう位の過剰さがある。その「過剰さ」を支えたのがプロデューサーのAC/DC、デフ・レパード、カーズ、シャナイア・トゥエインなどを手掛けたロバート・ジョン・マット・ラングだとすると、当意即妙とも言えるかもしれない。70年代末から80年代の「本流」のロックを支えた大御所。彼とマルーン5のタッグは、ケミストリーを起こさない代わりに、十二分にバラエティに富んだ「メインストリーム」を捻じ曲げるサウンドを生み出した。「スマートで、味気ない」という声をボリュームと過剰さで捻じ伏せるような力技もある。

 日本の寂れたサバービアのショップでも、世界のカルフール、ウォルマートやターゲットでもこれは置かれるアルバムであるし、配信形態としても爆発的に拡がるだろうし、それを手に取り、聴く人はバラバラだろう。でも、それは「共犯言語」のそれではなく、「共通言語」に限りなく近いファンタジーとしたら、マルーン5というバンドは侮れないのかもしれない。

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 最後に、ロールズの「正義論」に関して触れよう。

「正義論」は、今更語るまでもないものの、功利主義に代わる代案としての「正義」の強度を民主主義の背景に置いて、「相互利益を希求する冒険的な企図」が社会の諸制度が機能した上で分配して、尚且つ「原初状態」における人たちの判断を二つに区分した。

 その二つとは、①各人は基本的な自由に対しての平等な原理を持つべきであって、そのベーシックな自由は各人と同様な「自由」と両立する限り、最大限、自由でないといけない、ということ。②社会的・経済的不平等は、もっとも不遇な人の立場における利益を最大限、尊重しないといけない、また、公正な機会の均等を割り振った条件下での、各位の職位や地位に付随するものでないといけない、というものを満たさないということ。

 これは実はとても、「感覚」論だ。よく考えると、人間の正義原則、本能欲求とは、もっと「無為なものへ働くこともままある」訳で、自由そのものの定義性どうこうよりも現代最新の経済学では「サービスをしないことこそが、サービスであり、奉仕でもある」という理論もある。そこで、マルーン5が描くものとは、決して大文字の他者ではないイロニカルな構造が浮かび上がる。

 ロールズ的正義下では、「原初状態ではみんな、最悪の状態を回避して、合理的な判断を下すだろう」とされるが、この「原初状態」というのは「無知のヴェールに覆われた人たち、つまりは周囲との相対性、優劣意識がない状態」を指す。つまり、先進的な「現実」では援用は出来ても、「適用は出来ない」。何故なら、お金が無くても、皆、「必須なもの」じゃなくても、「気になる」ものにはお金惜しまない。それが全く、効率的じゃなくても。

 今回の『Hands All Over』は「効率的ではない」。故に、より多くの人に求められるだろう。

(松浦達)

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