スピッツ「シロクマ/ビギナー 」CDS(Universal)

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spitz.jpg「コンスタンティン・ツィオルスキーが宇宙時代のマルクスとしたら、ヴェルナー・フォン・ブラウンとロバート・ゴダードはレーニンとエンゲルス、アーサー・クラークはトロツキーではないか」という例えをしていたある作家の言葉があって、トロツキーが無性に読みたくなって、書店に行くと、光文社の新訳文庫で、「永続革命論」が出ていた。

 ここでのレーニンとの意見の対立を経ての、スターリンの粛清を受けるというのは「革命論」として現代的には「興味深い」ながら、トロツキニストの真価はこれから発揮されるのだろう、とも思った。それを読みながら、同時に頭に浮かんだのはキャリアとしては、20年を越えるバンドがいまだにストレートなギターロックで「恋する凡人」と自己卑下的な視線で疾走しながらも、「これ以上は歌詞にできない」ことを「歌詞」で綴るスピッツというバンドは何なのだろうか、ということだった。

「理論」としての、トロツキーはとても「一つの絵画を見る」ように美しい。しかし、それが「行動」に移される真際、破綻を来たす。学生運動が華やかなりし頃の「当時の青年たち」の内、スターリンを心酔していた人は結構偉くなっていったり、大企業の中枢とかインテリゲンツァ的なポジションでひっそりと「存在する」が、はて、トロツキーを読んでいた人たちは「何処へ」向かったのだろう。

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「メンシェビキ(少数派)」の意味を考えていたら、如何に今が不毛な時代なのか、ミスチルがツアーを行なう際にドームを常にフルハウスにする時代に、敢えてと言うより、当たり前にライヴ・ハウスを巡るスピッツは既に「大きいバンド」だが、「メンシェビキの為の集会」を設定する意図が明確にある。マルクスやドストエフスキーが「再評価」される世の中はとても味気なく、「日常のロマンティシズム」に埋もれている時間があるならば、「ロマンティシズムとしての日常」を箱庭化してしまえばいいだろうに。「拡大された装置」に乗る為に音楽は「誰も」に開かれている訳でもない。

 1995年の巷間的なブレイク曲「ロビンソン」でスピッツは「誰も触れない二人だけの国」を創出したが、それは今で言う「オタク」的な意味なものではなく、「Sandplay Therapy(箱庭療法)」的な配置を意図した。庭の「枠」があるために、箱庭による自己表現が可能であり、セラピー的効果があることで、鋭角的に表現を出来る、ということだ。当時はミスターチルドレン、ザ・イエローモンキー、L⇔R、ウルフルズなどと「J-」の枠の中で括られ、今で当てはまるとしたならば、彼等は草食系、または文科系のリスナーを陶然とさせていた。小室系やJ-POPの邦楽バブルのブレイク後の渾沌の中で、ミスターチルドレンがロックと殉教するように『深海』に潜っている間、"逆風に向かい 手を広げて 壊れてみよう 僕達は希望のクズだから"(「インディゴ地平線」)と彼等もブレイク後のヘビーな環境変化に対峙しながら、藻掻いていたが、全く「位相」が違った。それは現在、ミスターチルドレンが主体になる「ap bank」というフェスティヴァルと、スピッツが軸になる「ロックロックこんにちは!」というイベントくらいの幅で。

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 少し説明しておこう。「ロックロックこんにちは!」とは、都度、スピッツがメインを取り、彼等自身が興味深いアーティストやバンド、仲の良い人たちを招聘することが多いイベントだが、記念的なものを含めてほぼライヴ・ハウスでしか行なわれない。場所は仙台と大阪。今年は、仙台は「ロックのほそみち」と名前を変え、東京でも「新木場サンセット」という形で展開されていたが、これも「ロックロックこんにちは!」との連関性と見ればいいだろう。

 過去には、くるり、クラムボン、POLYSICS、GRAPEVINE、奥田民生、syrup16g、ORANGE RANGE、フジファブリック、いきものがかり、サンボマスター、ザ・ボウディーズなどなど多岐に渡るメンツが揃うが、何処となく「馴れ合い」的な意味を避けるようなオルタナティヴ性の強いフックアップを行なっている。僕もこのイベントは何度も足を運んだが、印象深かったのは2006年の大阪でのイベントの10年目を祝っての野外での大規模な形のものだった。奥田民生、KRAVA、ジェイク・シマブクロ、真心ブラザーズ、吉井和哉、レミオロメン、そして、ミスターチルドレンといったビッグ・ネームがサラッと並んでいたが、それぞれがスピッツという存在へ独自のリスペクトを見せながらも、フラットなライヴを行ない、トリをおさめたスピッツもあくまで自然体で気負いのないパフォーマンスを行なった。しかし、完全に「装置」的になってから以降のミスターチルドレンがあれだけ、何かしらの「アウェイ性」を持っていたライヴというのは初めて体験したかもしれない。スピッツはやはり「代案(オルタナティヴ)」であり、彼等は「本案」が故に、受けて側はその時は「代案」を求めていたのだった。

「代案」としての彼等の歴史の紆余曲折はあまりに長く、纏めるには個々の作品論、「本案」としてのシーンを見渡さないといけないが、イベントやフェス以外でアリーナ公演を単独ですることをしなかった彼等が2009年にさいたまスーパーアリーナと大阪城ホールで行なったのも、その06年のイベントと同じく意義深かった。このアリーナ公演では、当時の新作『さざなみCD』から主に、「チェリー」、「ロビンソン」といったヒット曲を挟みながら、ふとオルタナティヴ期の1992年の『惑星のかけら』の「ハニーハニー」をやり、シングルとしても独特な立ち位置にある「渚」などかなりアグレッシヴな部分も伺えた。

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 そして、この2010年に彼等は独自の「けもの道」を設定した。

 基本、アーティスト、バンドとしてのルーティン的な流れの、シングルやアルバムを出して、プロモーションをして、ライヴを行なうという行為を対象化して、新曲群も入れながら、ツアーを行ない、その最後にアルバムを出すという表明をしたのだ。案の定、ツアーは「その時点では、まだ名前さえもついていない新曲」が披露されたり、と、かなりファンの間でも話題になったようだが、今年の6月リリース「つぐみ」というシングルでは、次のアルバムでもスタジオ・ヴァージョンで入る「恋する凡人」という新曲のライヴ・テイクが敢えて収められていたり、試行の痕が垣間見えた。

 近年、どうにも大型のタイアップと彼等自身が担うイメージの問題もあったのか、「魔法のコトバ」辺りからA面サイドに当たるシングルが以前に無い生温さとポップ過ぎる部分にもどかしさをおぼえていた層からすると、そのシングルのカップリング、2曲目に収められる曲の実験的な部分を感受する事で、溜飲を下げるしかなかったのは正直、否めないだろう。何故なら、以前、ブレイク後でしっかりと固定的なファンの母体もある中で、正々堂々と「メモリーズ/放浪カモメはどこまでも」というオルタナティヴなシングルをメインストリームへ提出していたバンドだったのだから。殊更、「メモリーズ」ではあの鼻にかかるような透明感のある草野氏のボーカルは完全に加工されていた。

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 元々からして、アート・スクールの学生の延長線的な佇まいでシュールレアリスムのような世界観を、多大に影響の受けたザ・ブルーハーツ的パンク精神で貫くというモードで始まったバンドであり、初期の頃の草野氏の歌詞にはアンドレ・ブルトンの詩のような「死的な何か」が充溢していて、ベーシックな部分では相変わらず「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いの美しさ」をリプレゼントしてきた。それを、ベースの田村氏、ギターの三輪氏、ドラムの崎山氏との4ピースのスタイルで、バンドとしての一体感を持って、ロックを続けてきた過程は今も基本、変わらない。サポートは入っても、スピッツは4人で「成立」する。

 今回のツアーでは「初恋クレイジー」や「愛のことば」といった旧曲のチョイスもかなりエッジが入ったモードに入っている事が伺えたが、新しいシングルの「シロクマ/ビギナー」はなかなか面白い内容になっている。「シロクマ」はアコースティックな質感と抜けの良さ、爽やかなポップ・チューンでその中でふと「地平線を知りたくて ゴミ山登る」という草野氏独特の歌詞が挟まれるという「らしい」曲になっており、両サイドA面になる一方の「ビギナー」はスケールの大きいメロディーの「立ったサビ」での高揚含めて「手続きを取り易い」スピッツのバンド・サウンドの色が強く出た、近年のA面曲に相応しいクオリティになっている。

 そして、これは触れておかないといけないだろう。今回のシングルではこの2曲以外に、ライヴ・テイクが入っている。1曲が「シロクマ」、更にもう1曲が「ナイフ」なのだ。

「ナイフ」とは、1992年のミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』というオーケストレーションを大胆に取り入れた実験的な作品に収録されていた。原曲自体も浮遊感溢れるアレンジの中で「3月の君のバースデイには ハンティングナイフのごついやつをあげる」という草野氏のシュールな歌詞が活きている佳曲だ。この「ナイフ」のライヴ・テイクがまた素晴らしい。危うさと程遠い程の長いキャリアと重ね、確固たる地位を得ても、まだこの蜻蛉のような繊細さと無為性を醸し出すというのはなかなか出来ない、と思う。僕などはベタなので、咄嗟にアンドレ・ブルトンの「ナジャ」での「美は痙攣的なものであるにちがいなく、さもなくば存在さえしない」という言葉を想い出した。既にアナウンスをされており、リリースを控える今度のアルバムも楽しみだが、このシングルで正々堂々とCMで流れる曲と「ナイフを混ぜる」確信犯的な所がある限り、今のスピッツは非常に面白い立ち位置に居るのではないか、と思う。代案で埋め尽くされた世の瀬に「目を閉じて不完全な部屋に帰るよ」というスタンスには意味も強度も繋がりもない。ただ、「深度」がある。

(松浦達)

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