モーモールルギャバン『クロなら結構です』(Victor)

|

mowmowlulugyaban.jpg まず、確認してみよう。セクシュアリティとは、次のように定義されている。「性にかかわる欲望と観念の集合で、自然と本能ではなく、文化と歴史に帰属する」(女性学事典,岩波書店,2002) 。加え、アメリカ心理学会の見解では、「セクシュアリティの構成要素」を4つに纏めている。

 まず、性的指向のある特定の性(gender)を持つ人に対する持続的な魅力(例えば、情緒的魅力、恋愛対象としての魅力、性的魅力を注ぐ対象としての魅力)ゲイ、ヘテロ、バイセクシュアル、これらに加え、異性と同性の双方に魅力など感じない「Aセクシャル」というものもある。第二に、 生物学的性としての、性器における男女差。セクシュアリティを構成するものとして、生物的な性も含むが、これらも男女の二分法だけで考えていけないのは周知だろう。第三に、性自認(gender identity)。これは、自分が男性である、あるいは女性であるという自己意識のこと。戸籍上の性、養育上の性、身体の性、社会的性役割が一致していると認識されている状態に比して、性別違和感を持つ人もいる訳で、この違和を一つの疾患単位としたのが、「性同一性障害」という概念。性同一性障害とは、「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性別に属しているかをはっきり認識していながら、その反面で、人格的には自分は別の性に属していると確信している状態」を指す。つまりは、身体の「性別」と心の「性別」が引き裂かれている状況内でも、身体性と精神性の溝に対して強い不一致を感じている人も多い。第四に、社会的性役割(gender role)。社会的に規定された性役割や身体理解などの文化によって後次につくられた「性差」。

 「君は大嫌い でも君のパンティーは好き」と歌う「パンティー泥棒の歌」での「君」はセクシュアリティを帯びていないのは上記の見解の枠内に落とし込めば、容易に解析出来るだろう。だからこそ、下着という「記号」にロジカルなパッションをリプレゼントする訳であり、例えば、くるりが昔に「男の子と女の子」で「いつも女の子のことを考えている」というメタ・ベタな「無」を弁えて、別に、男の子は「いつも」女の子のことを考えていないとすると、女性の下着に拘り、クールにジャム・セッションする後ろにはNO NYの影だって不思議に視えてしまうのは当然で、モーモールルギャバンは昨今の「セカイ系」バンドではなく、引き目のメタ俯瞰で「世界」を観ている。その世界の中に在る自己も冷静に責めているナイーヴなバンドだ。

 「裸族になれば優しくなれるのかもね」(「裸族」)

 第一次世界大戦での経験もあり、1920年にフロイトは『快楽原則の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips)において、それまでの「性の本能」、「自己保存本能」の二元論からエロスとタナトスの二元論へと転回した。前者は生の衝動、後者は死の衝動と言えるだろうか、つまり、人間を含めた「生物」といったものは、「生の本能」によって物事を作り出し、建設して行くかにみえるが、その深層内で、それをぶち壊して、「無」に再帰していこうとする死の本能に裏打ちされている訳であり、人間という種においてそこから派生して、一般的欲動には性欲動(リビドー)と攻撃性(アグレッション)という欲動に分類される。

 そうすると、「対象関係論」においての攻撃性、つまり「死の欲動」がモーモールルギャバンの佇まいには在ると言えないだろうか。

 彼等の音はどちらかというと、ジャンクな音ではなく、整合的な破綻を示すスウィング感のあるドラムに合わせてのディスコ的なベースのうねるグルーヴをトーンとしながら、ノン・ギターなものの、ピクシーズ、ナンバーガールといったバンドが見せていた鋭角的な疾走感も強く、また、鍵盤の効果が大きく、独特のローファイさと隙間に溢れたサウンド・プロダクションであり、新進系のバンドの中では演奏技巧力やスムースな演奏スタイルは抜きん出ていると思う。但し、パフォーマンスとその歌詞に過剰なアテンションが集まっているのも周知だろう。ドラムでボーカルのゲイリー・ビッチェの上半身裸で汗だくになってハイテンションに「パンティー」コールを皆に煽る様、そのゲイリーに影響を与えたのが銀杏BOYZだから、そういった青春パンク的なものに回収されてしまう、衝動的なバンドなのか、と言えば、僕は精緻には違うと思っている。

 ドラムを叩きながら、セクシュアルなこと、下世話でどうしようもないことを乱射砲のように叫ぶゲイリー、紅一点のユコ・カティーのシビアな目線、低音のグルーヴを受け持つベースのT-マルゲリータのトライアングルが浮かび上がらせる熱量はとても低温火傷しそうな知的な佇まいさえあるからだ。これはただ「無邪気」だけでは出ないアウラがある。

 『野口、久津川で死す』から、メジャーデビュー・ミニアルバム『クロなら結構です』までの速度と存在の大きくなり方は性急過ぎる気もしたが、自らJ-POPを名乗り、その文脈で、過激にJ-POPを嘲笑うかのように、駆け抜ける中、ふと今回、「悲しみは地下鉄で」という曲でタナトスに張り詰められたディプレッシヴなバラードが入っていて、「僕は死ねばいい」とダウナーに真面目に歌う。

 色モノとして彼等を捉えるには、その色がmono(chrome)であるという視座で捉えると、カラフルなステージと比して、まだスタジオワークは単一色なのがよく分かってくる。このグラデーションが噛み合ってきたとき、「下着」や「テンション」に頼らなくても、正統なポジションと評価を得ると思う。

(松浦達)

retweet