砂原良徳「Subliminal」EP(Ki/oon)

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sunahara.jpg 例えば、石野卓球がDJではドープなデトロイト・テクノでロング・プレイするときに、そこにはホアン・アトキンス、カール・クレイグ、デリック・メイからジェフ・ミルズへのリスペクトを孕んでいるのは勿論として、アンダーグラウンド・レジスタンスへの視座をより意識している時が必ずあって、「Hi-Tech Jazz」が挟まれた時のクラウドの熱量を捉えた時に浮かぶ「ダンス」はガブリエル・アンチオープの『ニグロ、ダンス、抵抗』におけるそれを彷彿とさせる。

 捕捉しておくに、この書物は奴隷制の変遷をたどった制度史ではなく、17~19世紀という近代国家の黎明期にあって、カリブ海地域を舞台に、いかに「ダンスという行為=文化表象」を通じて人種や民族、ジェンダーが配置され構成されてきたかを分析すること、そして更に、支配と従属のなかに生きてきた奴隷=ニグロにどのような「抵抗の道程」があったのかを明らかにするものであり、S・ホールのような、奴隷制プランテーションに対してそれを生産様式の関係性だけで捉えるのではなく、イデオロギーの次元の関わりをも重視している。ヨーロッパ中心主義的な史実の「書換え」をもダンスという文脈で行なう。奴隷にとっては、ダンスは単なる娯楽ではなく、それは、政治的な意味を持ち、抑圧からの逃亡を可能にするものであり、更にはニグロの定義を更改する。彼らは完全にはマスターに従属した存在ではなかった。

 彼は、電気グルーヴというペルソナではシビアに道化を演じながら、ソロ作品でハードなものからミニマルまで跨ぐ嗅覚にはいつも「現場」を可視化している優しいシビアさがある。それは、一晩で消費されてしまうアルコールの量や求愛の数、そして、鳴り止む音楽と、汗。フロアーが空けた後に戻るそれぞれの日常の辛苦を弁えているということでもある。だから、音楽は「永遠と一瞬を止揚する」なんて甘えた認識よりもその音楽が鳴っている瞬間が永遠であればいい、というスタンスを取っているように思える。そうでないと、あれだけのハード・スケジュールで日本以外の世界も含めて小さな箱もDJで回らないと思う。

 その彼が電気グルーヴ内でも一時期、全幅の信頼を置き、今でも時折繋がりを持ち、奇妙な事に捩れながらも、シリアスなスタンスが似てきているというのが、砂原良徳だった。無論、饒舌でスタイリッシュな石野氏と比して、彼はどちらかというと、テーマ設定の中で「音」を作る職人的なタイプだったので、ツアーやDJといったものより、リミックス作業やプロデューサー業に傾いでいたし、石野氏よりは寡黙に居場所を確認している所があった。その一理として、01年の『LOVEBEAT』が、隙間の沈黙さえも音にしてしまった部分があり、越えられない壁を自ら作ってしまったからとも言えるかもしれない。モンド・ラウンジ、クラフトワーク、飛行機といったテーマから逸れて「一」から構築した音の強度は容赦がないくらいに、クリアーでハイファイであり、また雑多な音を拒むストイシズムを帯びていた。踊るには少し緩やかなエレクトロニック・ファンク、リズムと最小限の音を纏った清冽な意志に貫かれた音の粒子。また、エイフェックス・ツイン、オウテカ、ボーズ・オブ・カナダなどのポスト・エレクトロニカ勢との完全なる共振が行なわれた実験室での未必の悪意は、「LOVE BEAT(ビートを愛する)」ではなく、「LOVEBEAT(愛のビート)」というイロニーを提示した。

 その後、ほんの僅かなリミックス・ワークを除き、以降、沈黙をする。沈黙の間、エレクトロ・クラッシュ、乙女系ハウス、ニューレイヴ、ドラムンベース、フレンチ・エレクトロなど幾つもの音が壁一枚隔てたクラブで分化され、鳴りながら、トライヴは決して噛み合うことなく、散逸され、その中、リバイバルでアシッド・ハウスからジャーマン・テクノ、勿論、デトロイト・テクノまでが巡り巡っていた。猥雑な喧騒を傍目にスタジオで彼は音を研ぐように、次の作品への模索を繰り返していた。

 09年にはサウンド・トラックとしてあくまで試作品的なモードを示してみせていたが、今年に入って彼の漸く「次の視点」が現れていると言えるEPがこの「Subliminal」になる。来るべきアルバムへのパイロットになるのか、彼の事だからまだ分からないが、十二分に密度が詰まった4曲が詰まっている。ここには明確な逃げ場がなく、かといって、誰もが参入できる入口もない。途中参加が赦されるような生ぬるい音像でもない。『LOVEBEAT』時より鋭角的に切り詰められながらも、ふくよかさも増した音は聴き手の安心や予定調和を拒む。ファンタジーというのはデ・ジャヴを何度もインストールし直すだけの非創造者側の怠慢だと定義付けるとしたならば、この作品のファンタジー性は、マッドなリアリズムを切り取り、曝す。YMOが野外で緩やかなパフォーマンスをする今、チルドレンの彼はまだ日和らない。「音の政治性」を認識したとても辛辣な作品だと思う。

 「Subliminal」は具体的に、ダンスを想起させる音像ではないかもしれないし、踊れる音楽ではないかもしれない。しかし、「ダンスが催される空間」の意味は再定義せしめる。その場では身分が可視化され、その差異を画定し続ける政治・社会的な戦略の場でもあり、一方、再創造として仮構された起源としてのダンス文化をヨーロッパにもアフリカにも回収できないようにせしめる。そして、「ダンス」が娯楽や祝祭に関わった振舞いであった以上に、政治的・社会的・文化的なマイノリティの主体化を賭した行為だということをリプレゼントする。

(松浦達)

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