ジャン=ピエール・ジュネ『ミックマック』映画(角川映画)

|

micmacs_a_tire_larigot.jpg 01年に世界的にブレイクした『アメリ』の提示したファンタジーで囲い込んだ作為性、仕組まれたブラック・ユーモア、模範的教科書には成り得ない寸前のロマン、そして、ヤン・ティルセンの程好いサウンド・トラックはどれも及第点を越えるが故に、味気なかった。つまり、ディズニー映画が時にマッドな領域を超えて、勧善懲悪を全うする為に「仮想敵」を集団的な自意識の中に植民地化して、夢でオチを作るような所作からすると、『アメリ』の描く素朴な残酷さは僕にはナイーヴが過ぎた。

 そういう意味で言えば、主人公であるAmélie Poulainのアナグラムから、Oui à l' ami Le Penになるという指摘も踏まえると、「ジャン=マリー・ル・ペン」の存在を想い出すのは少しクールな気がする。彼が右を向いている間に、例えば、アブダル・マリックを代表とした「スラム」という音楽がパリの郊外の暴動と「共振」して、ダブ・ステップやグライム的な下辺音楽を待備せしめたというリアリズムに振り回される内に、ゼロ年代におけるフランスのファースト・レディーにカーラ・ブルーニが「なってしまう」という皮肉が受容されてしまうことがどうも偶然に思えないからだ。カーラは元々、70~80年代フレンチ・パンク、ニュー・ウェイヴ・シーンの人気バンド、テレフォヌのリーダーのルイ・ベルティニャックがファースト、セカンドをプロデュースしていたこともあって、スーパーモデルなどといった側面以外に、音楽的センスの良さは様々な国の人たちに認証されるところはあった。それが、サードでのドミニク・ブラン=フランカールを招いての「失速」と言ってもいいだろう、ビッグなバランスが象徴していた。ゲンズブールの国はいつもフェイクが似合う。
 
 そこで、実質的なリリースは09年にはなるが、日本公開として10年代の幕開けを『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネの新作『ミックマック』が「冒険」と「ブラック」という原点に回帰したのはとても興味深いと言える。権力装置への「装置」を外す試みとして、今回、レンタル・ビデオ店の店員のバジルは発砲事件の関係で頭の中に流れ弾が入ったままになってしまう。この「流れ弾」はある種のシンボルであり、一つのメタファーだ。何故なら、昔に地雷で父親の命を奪われたバジルにとってその弾を構成している巨大な兵器産業へのアゲインストを心掛ける契機になる訳で、バジルは廃品回収をしながら底辺的な暮らしをおくる共同生活仲間と共に「結託」をする。しかし、その「結託」とは「連帯」ではない。一つの目的の為に、お互いがお互いの特技を許し、託し合いながら(一人はスーツケースに体が入ることが出来るほど体が柔らかい、など)、まるで日本で人気の漫画の「ワンピース」のような活劇のような瞬間さえ浮上させるときもあるロマンティックなピカレスク・ロマン。

 『アメリ』が持っていた過剰なファンタジー性、つまり、ジュネのイマジネーションの飛距離は今回も活きているが、もう少しシビアな形での軟着陸を示している。それは、流れ弾が頭に入ったことで様々な意識が膨れ上がるバジルをモティーフにしながら、肥大し、暴走してゆくように。時には、バジルの「妄想」はフリーキーでバレアリックで、「世界そのもの」の解析を試みるようなものになる。

 今、大人が描く世界がとても味気ない「セカイ」か、3D仕掛けのフェイクのリアリスティックな世界になってゆく中、この作品で描かれる世界はチャイルディッシュで悪意もあって、どちらかというと、残酷で救いのないファンタジーだ。ただ、それは子供が視たままの「世界」であり、例えば、それは、ホッブズがリヴァイアサンを「発見」したのが、社会に「自然状態」というフィクションを想定できたからだったという部分に連結することは出来ないだろうか。国家も法律もない社会における、裸の人間として、フィクショナルに踊ってみせる所作。このラインでのブースターは生命原理に回帰する。生命原理はバイタリティと訳すのも良いだろう。

 その根源的なバイタリティに満ち足りた映画がこの『ミックマック』だ。予想通りの夢も現実もないが、フランクな映画というファンタジーがもたらすカタルシスがここに溢れている。

(松浦達)

*日本版 公式サイト
http://www.micmacs.jp/

*9月4日より東京のみで先行公開。9月18日より全国ロードショー。【編集部追記】

retweet