桐野夏生『グロテスク』書籍(文藝春秋)

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kirino.jpg 男性が上位であり女性が従属物であること(家父長制)の否定から始まったフェミニズムが「フェミニズム」という政治的力を持つ大きな団体として社会進出をするとき、そこから漏れ出るものが出てしまうのは『統一』に拘る限りは必然となる。だが、マイノリティである女性を救い上げることを目的として集まった女たちであったはずなのに、フェミニズムを組織化したい多数派が押し出す『統一』というスローガンの下に零れ落ちてしまうフェミニストが出てしまうというイロニーについてジュディス・バトラーは触れている。

 そんな「統一」を拡散させるように、桐野夏生は「個」の内部に降りてゆく。彼女はサスペンス作家の括りになる場合もあるし、最近では、実際の事件をモティーフにした『残虐記』や今夏映画化される『東京島』という社会性を帯びた作品も増えてきた。ただ、僕自身としては彼女の決定打は泉鏡花文学賞を取った『グロテスク』だと思う。文庫本の解説で、文芸評論家の斎藤美奈子が書かれている悲惨で、絶望的で、陰惨な出来事の連続なのに、「読後感は妙に爽やか」だと言う言葉も首肯するところがある。高村薫が現代のドストエフスキーと称されているが、文体は抜きに心理描写の執拗さでは、彼女の方が近い気がする。そして、「ナラティヴ」がまだ持ち得る対・現実への可能性の「何か」を見せてくれる意味での飛距離が長い。
 
 例えば、個人的にこの作品の読後感は、ドストエフスキー『白痴』や大江健三郎『われらの時代』を一気に読みきった時の感覚やスミスのアルバムを聴き通した眩暈のような感覚、ランズマンの『ショアー』を観た感覚に近いと言えるだろうか、兎に角、人間の「深いところ」まで降りていって(井戸掘り)、逆説的にカタルシスと爽快感があるところが「絶望を見つめ尽くした故の希望」なんて態の良いレヴェルではなく、胸に響く。

 主軸となる人物は四人。外国人を父に、日本人を母に持つハーフである「わたし」。その妹であり、誰もが憧れと羨望のまなざしを向けるほど美しいユリコ。懸命な努力の上で、学力で他者より高みに立とうと必死で藻掻く和恵。優秀な成績をとって周囲に一目置かれる存在のミツル。その四人が、エスカレーター形式で歪な差別構造のある中高大一貫私立学校での出来事を軸に、それぞれの人生が展開していく。この作品の一つの主題である「女性社会のヒエラルキー構造」というのは兎角、ややこしいのはよく知っている。ましてや、美/醜、異性、地位を巡っての駆け引きの陰湿さと周到さは自分達男性の矮狭な想像力や感応力では追いつかない「生物として本能的なもの」だとも思う。
 
 美しくて、若くて、家柄が良くて、お金があって...という女性の持つ刹那さと引換えの富裕や「なにもない」が故に、懸命にサヴァイヴする女性の果敢なく根源的な美麗さ。こういったファクトを受容すると、男性は、仕事とか地位とかで様様な生理的なコンプレックスや先天的な何かを置換出来る生き物だという「社会的事実」に時々救われる気分になるがでも、その分、男性性の持つ触れれば壊れるような脆弱さと頑迷さもよく分かるのだが。男性の苦悩は、「抽象性」に抜け、女性のそれは「具体性」に抜ける、なんて凡庸な物言いをしていた人が居るが、それは「一部層」に限ったことであり、男性のエンヴィーや悪意の根深さは存外、タナトスが巻き付いている。

 上記の、ニンフォマニアでセックスを通じて、男を介しながらも快楽と頽廃の一線上を持ち前の美貌で渡り歩きながらカタストロフィーへと傾いでいくユリコ、東電OL事件のモティーフとして昼は一流企業に勤め、夜は街娼をする和恵、悪意と理論武装で俯瞰的に現実を捉えながら、ユリコの影を常に意識して生きてきた姉(自分)、東大医学部へ行き、常に上昇運動を続けようとしたあまり世間的な価値からドロップしてしまい、横軸としての承認獲得の為、宗教に走って大きな事件を起こすミツル、はたまた中国の内陸地から密入国してきたチャン、それぞれ「真っ当」でなく、(そもそも「真っ当」とは何か僕はよく判らないが)、どれにもアイデンティファイ出来ないどころか、都度これでもかとばかりにどす黒い憎悪や悪意やシニシズムや絆の縺れが重層性を持ちながら、絡まり、点と点が線を結ぶように、しかし、その線が図形を浮かび上がらせないレベルの曖昧な模様でドライヴしていきながら、壊れてゆく。

 アイデンティティの確立を巡る、数多の刻苦と駆け引き、ストラグルは悲愴ですらあるが、人間の本質はこんなものじゃないか、と思わせる本能的な滾りに充ち満ちてもいる。

 基本構成は、姉(自分)の手記がメインだが、ユリコ、和恵、ユリコと和恵を殺したとされるチャンの上申書などが絡まっていき、それこそ、各自が各自なりの感情の文脈沿いに言葉と主観性を持って、露悪的な自己顕示欲、他者への冷徹にして歪んだ視線を向け続け、そして結果的に、どれが真実で、どれが間違っていて、なんて事自体を「問う」行為性そのものがナンセンスで無的なものだと(読み手側は)思い知らされるような着地へと向かう中、「藪の中」にある人間(的生物)の持つエグみと果敢なさと、醜いまでの美しさが滲み出てくる最終的な消失点において、視界が「変わる」ように薄いヴェールに包まれた幾つものブルーの残影が具視化されるとき、妙なカタルシスがあり、「こんな世界」に生きている事を恥じるでも、避けるでもなく、当たり前のものとして受け止められる様な気分になることが出来る。

 強いて言う事では無く、イジメとか差別とか権謀術数とか性差とか弱肉強食とか駆引きとか妬みとか悪意とかもうそんなのは生きていくにあたって「前提」でしかなく、それら数多の負性を掻い潜って生きなければならない様態こそが「人生」であって、だから明朗で底の浅い希望的観測なんて深遠な絶望しか惹起しない。ちなみに、別に自分がそうとかではなく、エリートとかインテリとか高学歴社会の方がその実、凄まじい差別や醜い確執抗争があるのを実際よく知っているし、実際、知り合いに聞いた某・私立一貫校でのヒエラルキーの敷かれ方はこの小説よりもっと生々しかった。

 この小説を読んで、新しい視界は開けないだろうし、相変わらず世界は何処までも憂鬱で、時折とても美しく「視える」ときもあるだけのものだろう。但し、表面的にブラッシュアップされた事象や小綺麗にコーディネイトされた(ような)人間の生きる背景には色々な渦巻くものがあるんだよ、という事を教えてくれる重石のような作品として今でも有効な暗みを孕んだナラティヴを描いていると思う。

 人間は安心するために群れるのではなく、より孤独になるために集まるのかもしれない。

(松浦達)

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