松浦達の場合は...

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 アルケミストたちの「発明」が科学を進めたとしたら、総ての「有」とは「有ではない何か」からしか演繹されない。だから、無など「無い」訳であって、その無を求める作業過程の中で喪失してゆく「有的な何か」こそが、江戸川乱歩的な「うつし世の幻、夜の夢こそまこと」的なアフォリズムをゲームの卓上の上に発現させるとした「ならば」、大衆の集合的無意識がセットインする渦の中に「有」は無く、「無ではない何か」があり、それは錬金術のようなマインド・トリックを帯びる。音楽というのは可視化出来ない故に、「騙される既知的可能性」を永劫的に流転せしめる固定的なメタ意識をそれぞれの「無意識」内にプリンティングさせる。

 だから、「同じ音楽を聴いていた」としても、そこには「差異」が歴然とある訳であり、その「差異」に「強調」ベースの理論形成をして、他者とハイタッチをするような意味性に本当には「意味がない」ということを考えないといけない訳であり、グリーン・ステージのアトムス・フォー・ピースのトム・ヨークの声が亡霊のように後景的に張り付く中、苗場食堂でTHE GELLERSが急遽、カバーしたレディオヘッドの「Creep」のトクマルシューゴ氏の吐き捨てるようなボーカリゼーションの無為性に僕はアルケミストが進めたプログレスの果ての有為を視た気がする。その後、アンコールにおいて、ピアノ・オンリーでトム・ヨークが「Videotape」を歌った時に輻射された、沈み込むようなトーンが基底する集合的無意識をサルベージさせず、開け広げたのだと思った。その「瞬間」だけ僕は誰かと繋がるために音楽を聴いているのではなく、寧ろフェスティバルとは「個」が「孤」として分散する優秀な装置性を感得する為に備えられた磁場であるという事を非・郵便的にサジェストする事を感応した。

 そもそも、フェスティバルは「権威側が大衆のガス抜きとして仕掛けたフーコー的な監獄」であるか、「大衆側が意図的に挑もうとした反抗の狼煙」なのか、二元論をデ・コンストラクトして、メルロ・ポンティの「眼」の意識が現前しないと、大事な何かは取りこぼしてしまうだけでなく、ポスト・コロニアル化された自意識が通底的に「仮連結」してしまう錯覚を無化せしめる。

 僕は、今年のフジロック・フェスティバルというのは例えば、ミューズ、ロキシー・ミュージック、アトムス・フォー・ピース、マッシヴ・アタック、ベル・アンド・セバスチャンやLCDサウンドシステム、ブルックリン、ニューエキセントリック勢から日本のASIAN KUNG-FU GENERATION、ストレイテナーといったものを含めたラインナップ的に整合性があり、更にインディー系やダンス系の充実した配置から大御所までのセグメントまで意図的にした時点で、カオティックなものになるだろう、という推測をしていたが、土曜日に会場に入った時点で、既にそれは間違ってはいないが、正しくもない事を思い知った。というのは、フジロックの持つ「単一神話」がもう分化されてきている「兆し」がアウラとして宿っているのを感じたからだ。

 97年の嵐の天神山から紆余曲折を経ての、苗場に完全に落ち着いてからのユーフォリアが或る程度、ルーティン的な波に回収される中で、「音楽を求めにくる」場所ではなくなり、皆と「久闊を叙す」磁場になったというのは冗長なパロールではなく、リアルに僕自身が「フジロック」へ持つミームをより強化させられ、更に、エスケーピズムとしてフェスティバルは機能しない、思索を研ぎ澄ませる岡崎京子のリバーズ・エッジ的な旧さ(透明な戦場)を誘引したのは事実だ。

 7月31日の昼に入り、会場のオアシス・エリアで様々なトライヴの方々と意見を交わす中で、それぞれの目当てのアーティストは分化しているようで、画一化していて、更にそこへのディグ・アウトというよりはフラットな意味のコンテクストを敷いているのを受容した際、僕自身は初めに立てていたタイトなルート予定を放棄することにして、クーラ・シェイカーを少し観たが、非常に「退屈」だった。その「退屈さ」は新作で提示したフォークロア的なイメージを全く再現出来ていなかった事に尽きる。もうドライヴィンなロックンロールを彼等はしなくてもよい訳なのに、ファン・サービス的に初期の曲をするような佇まいにも少し好感が持てなかった。その次に、ジェイミー・カラムを観た。流麗ではないオーセンティックなジャジーさが柔らかく、オーディエンスを突き放す中、一際歓声が上がったのはレディオヘッドの「High And Dry」のカバーであったりした訳で、今回、全体を通して何処となくデリダ的な「喪に服す」感じが通底していたのは、LCDサウンドシステムの終焉などではなく、トム・ヨーク的な緊縛を感じたのは、あちこちのDJスピンなどでレディオヘッドの曲が掛けられていたり、オーディエンスでもその関係のTシャツが多かったという要素因だけではなく、「終わりの始まり」を各々のアーティストが示すステージングが多かったというのがある。

 だから、ベスト・アクト的に最終日にマッシヴ・アタックを挙げる「重さ」とはミラン・クンデラの「存在の耐えがたい軽さ」を反転的に企図していたと言え、そういう意味では今回のフジロックは「セクシャリティ」が足りなかったのが、僕には少し気掛かりだった。ジュディス・バトラー的な意味の「性」ではなく、もっとダイレクトなパトスの意味で。要は、「武骨」と言えたアクトが多かったのもある。だから、個人的に観ることが出来なかったが、クロージング・アクトにシザー・シスターズを置いたのは「彗眼」だと思った。

 入場規制が掛かった土曜日のMGMTの頼りなさと、かなり渋いロックをストレートに鳴らした御大のジョン・フォガティを対比した際の浮きあがる、所謂、ブルックリン系やニューエキセントリック系の実際のパフォーマンスの脆弱さが今回は相当、目立った時に、スタジオワークの「センス」とライヴで「テンス」のズレ自体に考え込む事が多かった。遥かに、ベンヤミンを後方に置き去りにした時代においての「一回性」はもはや確約出来ないのかもしれない。

 8月1日の日曜日。アーティストのラインナップもあるのか、人の入りがかなり凄いことになっており、また、或る程度、それぞれの導線が決まっているような節があった。ヴァンパイア・ウィークエンドはセカンドで取り入れたエレクトロニクスの要素を効果的に取り入れているとは言えないパフォーマンスであり、アフロ・パンクを丁寧に表象する「頭の良さ」は感じたが、偏差値が高いだけで「遊び」がない余白に少し辟易もした。その余白は今後の作品やパフォーマンスで埋め合わされるとは今のところ思えないが、トーキング・ヘッズでいう『Remain In Light』を彼等は創る「べき」だと思った。

 その後、フォールズやLCDサウンドシステムが表象した「小文字」のフォントを無理に「大文字化」させたアトムス・フォー・ピースの本編における『The Eraser』の全曲演奏は、僕は正直、かなり疲弊してしまった所がある。そこには、トム・ヨークの「例の声」があり、フリーのベースがうねり、ジャム的に演奏を繰り広げる中に、どうしようもないマチズモ感と一方通行のサーカズムがあったからで、だから、僕自身は「無ではない何か」をかろうじて繋ぎとめる術は彼らには全く「無く」、故にその捩れの中でトム・ヨークというイコンが幻像化してゆく過程を想い、今回のベスト・アクトはやはり彼等なのだと思ったし、もう今後のレディオヘッド(壊れたラジオ受信機)が受け取る電波に過大な期待を持てなくなったという意味で、儀式的なフジロックの禊ぎを通過出来た。

 今回のフジロックは個人的に、祈念を寄せる対象が圧倒的に「喪失」ではなく、「無為(無でなく)」であった時に、有為性が「内在化」された。その「対象」はアナグラム的に「対称」に翻訳され、経済学用語で言う「情報の非対称性」を帯び、各自の感性内に収斂するとしたならば、その全体に投げかける「共犯言語」は完全に島宇宙化しており、その島同士を繋ぐ橋がとても脆い事になっている危惧もおぼえた。ドゥルージアンたる自分はそれをして、「逃げ切れ」と言えるのか、自信が無くなった。その橋から飛び降りるのか、立ち止まるのか、それは今は明瞭に言えない。ただ、渡ることは出来ないだろう。戦時下の、フェスティバルとはかくも残酷な様相を示す。

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