August 2010アーカイブ

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wolf_parade.jpg この音の堂々ぶりたるや頼もしい。それにも増してふてぶてしい。とはいえ、彼らの持ち味のひとつである力の抜けたところもあり、メロディのセンスも良く傑作だ。
 
 アーケイド・ファイアやモデスト・マウスから絶賛されているカナダはモントリオールのウルフ・パレード。彼らの2年振り、3作目となる『Expo 86』。それはかなりの力強さを持ったサウンドがまさに堂々と溢れてくる。前作では様々な音楽要素を駆使し、起用に扱っていたところがややあったが、本作ではどんな音楽要素も飲み込み、はちきれんばかりの迫力がある。まるで音でぱんぱんに詰まった箱から様々な音が堪え切れないとばかりに飛び出てくる。それは時にアクセントになり、時にアクロバティックに宙を舞う。へヴィなギター・サウンドもカッコよく、煌めく電子音も楽曲の表情を豊かにしている。変拍子も良い。怒りのパワーをポップに昇華しているところも巧いのだ。そこにひねくれた歌声が乗っているから楽しい。
 
 特に「Pobody's Nerfect」での切り込んでくるギターと良い意味でぬけた歌声のアンバランスな感覚がユーモアたっぷりでいて痛快。そして豪快。ギター・ソロも決してナルシスト気味になっていないから気持ちがいい。コーラス(かけ声?)もまた痛快なのだ。そしてアルバム冒頭曲からして、今、バンドが良い状態であることが分かる。「行くぞ!」という声が聞こえてきそうなほど突っ走る。全曲通してひたすらに走り続けている本作は、バンドのエネルギーをそのまま何かに変換せずに押しだしている。だからいいのだ。聴くと昂ぶるのだ。一皮むけたという感じなのである。
 
 いわば素をそのまま出している。熱く、濃く、しかしユーモアを忘れずに。出す音の一切に迷いがない。全ての音が一体となったときのカタルシスは凄まじいものがあり、素を出すことに躊躇がなくなったことはアーティストとしての、表現者としての成長だと僕は思う。本作はウルフ・パレードにとってひとつの転機になるのではないだろうか。全てを出しつくした上で、この先どう出るのか。いや、先を考えるのは野暮かもしれない。彼らは今に全力を注いでいる。その姿は美しさすら感じさせる。

(田中喬史)

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books.jpg コンスタントに無難な良作を作っていくアーティスト。それに対し、駄作も発表するけれど、とんでもない傑作も生み出してしまうアーティスト。どちらが魅力的かと言われたら僕は迷うことなく後者と答える。が、しかし、00年にニューヨークで結成し、プレフューズ73とも関わりがあり、9月にはオール・トゥモローズ・パーティーズへの出演を控える2人組、ザ・ブックス。彼らは僕にとって前者であった。箱庭的なフォークトロニカを実に上品に作り、これからも無難に良作を発表していくのだろうなと思っていた。そこにきてこれだ。『The Way Out』。約5年振り、4作目となる本作に、無難なところはなく、大暴投覚悟の勢いがある。
 
 まるでiPodをシャッフルで聴いているようなヴァリエーション豊かな楽曲の数々。初期のフォー・テット的なサウンドが現れたかと思えばポエトリー・リーディングもある。ダンス・ビートを強調し、やりたい放題やらせてくれとばかりにサンプリングしまくった曲もある。その予兆は前作からも窺えたが、まさかここまで出してくるとは思ってもいなかった。DJシャドウ的かと言えば違う。プログレ的かとも一瞬思ったがそれも違う。アクフェンの『My Way』を彷彿させるところもあるが別物だ。などと思っていると綺麗な歌ものも混じっているから捉えどころがないのだが、逆にその捉えどころの無さが興奮を沸き起こす。アコースティックなサウンドにファンクやロックの要素をぶち込んでいるところなど、アコースティックにこだわってきた彼らにとって新境地と言えるだろう。
 
 例えば「I Didn't Know」や「A Cold Freezin' Night」はまさになんでもあり。ずたずたにカットアップされた女性や子供の声がファンキーなベースとヴィブラフォン、エレクトリック・ギター、チェロと絡み合い、やがて音は膨れ上がり、意識がひゅんと飛んでしまうトリップ感がある。「I Am Who I Am」の、ノイ! のビートとドリルンベースが混じったような低音は体にずっしりくるし、吹き飛ばれそうな勢いだ。
 
 この変化は、フォークトロニカと呼ばれる前作(ブライアン・イーノにも絶賛された)が、彼らにとってひとつの極点であり、彼ら自身が満足しきった作品だと感じたからではないだろうか。そうして満足感に浸らず、新たな音楽性を提示する姿勢は音楽家としての高い志しがあってこそ。ただ、どんなに破天荒な楽曲であろうと、彼らの核にあるアコースティック・サウンドが持つ温もりへの愛情が窺えるから、暴力的なところがないゆえ構えず聴ける。アルバム冒頭で語られる「新しい始まりへようこそ」という言葉どおり、ザ・ブックスが表現する新しいサウンドに飛び込んでほしい。


(田中喬史)

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kenseth_thibideau.jpg 彼のバンド参加遍歴(ツアー含む)を羅列していくと、ハワード・ハロー、プリンツ、ルマ・サキット、スリーピング・ピープル、タレンテル等のテンポラリー・レジデンス周辺や、ピンバック、スリー・マイル・パイロットと、実に多彩だ。そんなテンポラリー・レジデンスにとって不可欠な存在であるケンセス・シビデューの初ソロ名義のアルバムがリリースされた。


 レーベルもそうだが、彼の残した軌跡から、本盤もポスト・ロック、マス・ロックの系譜に属するものだろうと勝手に頭から決めてかかっていたのだが、以外にもローファイで抑揚の抑えられたインディーロックだった。フラットながらもグルーヴを感じさせるドラムの上で、ディレイで彩られたギター、サイケデリックでスペイシーなシンセ、囁き声が漂う。どことなくテンポラリー・レジデンスの音楽性を咀嚼した跡もあるが、ここにあるのは純粋培養された彼の本質だけである。


 反復というアルバム名を象徴するように、本盤は平面的な美的感覚を備えており、贅肉がなく、淡々としている。けれども決して歩みを止めないような頼もしさもある。バンドの脱退と加入とを繰り返した彼だからこそ辿り着けた境地のようにも受け取れた。

(楓屋)

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haruka_nakamura.jpg 静かな風に揺られ、小雨の冷たさを感じながら微妙に景色が移り変わる。聴いた途端、そんな心地になる奏でに心を奪われた。坂本龍一や高木正勝などに絶賛されている東京在住の日本人アーティスト、ハルカ・ナカムラ(haruka nakamura)。良質なアンビエント・サウンド、エレクトロニカをリリースしてきたレーベル、Kitchen.から約2年振りに発表したセカンド・アルバム『Twilight』、それは室内音楽的でいて、なおかつ手作り感覚の味がある。「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」と本人が言うように、ピアノを中心とした演奏が眠りに落ちるほど自然に、聴き手の気持ちを夕日が沈む儚い瞬間の中に導いていくアンビエント・サウンドだ。


 鍵盤に水滴を丁寧に落としているようなピアノの奏で。残響音にも気持ちが込められたサックス。やさしいドラムの音色がリズムとしてではなく、ぽっかり空いた心の隙間を肯定するように鳴っている。瞬間的に演奏の表情が変わることはなく、季節が移り変わるほど、気付くか気付かない程度に表情が変わっていくから聴き手も微妙な感情の揺れを体感できるから面白い。ジャジーでありながらもクラシック的な香りがする演奏からエコーがかけられた女性ヴォーカルの、妖しく魅惑的な歌声は可愛らしくもエロティック。過度な主張や激動はないが、ピアノ、サックス、ドラム、ギター、そして歌声が穏やかに絡み合い、夕方から夜までの物語を紡ぎ出す。そのストーリーを貫いているがゆえ、演奏にぶれがなく、音の世界観に包まれてしまう。だがその世界観は哀しみの色を帯びているのだ。


 人は出会い、わずかに理解し合い、多く誤解し合い、無数に邪推しあう。無垢な美しさの中にも日常における違和感が存在し、「The Light」での歌声は清涼感に満ちているのに孤独も同時に紡ぎ出す。日常の喜びと同時に哀しさも含んでいるのだ。この音楽を聴くことは現実逃避には成りえない。本作はフィクションではないのだ。ありのままの生活を切り取った本作は胸に刺さるところもある。音楽に吸い寄せられ、音の中に身を置き、清々しさを感じ、また、涙しそうになりもした。
 前作は本作より装飾されていたが、装飾を脱いだ本作は、前作以上に親密で、裸の姿を押し出したと言っていい。それはとても孤独な音、そして姿だ。しかし音楽を聴くこととは孤独を慰めるためだけにあるのではない。時と場合によっては孤独だからほっとすることもある。音楽はもともと人々が団結するために生まれたが、その本来の意味から離れ、儚さと孤独を提示する本作を聴くと、孤独というひとりの時間が、とても尊く、必要なものだと感じられる。


 「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」という、音による風景描写が心理描写に繋がった本作。それは感性豊かな者ではないと決してできない。嘘のない感受性を聴いてほしい。

(田中喬史)


*最初にアップされた原稿では、ハルカ・ナカムラを女性と誤解した部分がございましたので、訂正した原稿をあらためてアップさせていただきました。大変申し訳ありませんでした。【8月12日追記】

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move_on_ten.jpg やはりオウテカはリスナーを愛している。だが同時にあまのじゃくだ。彼らの音楽を語る際、その複雑性ゆえに難しく捉えられること多々。僕もまた難しく捉えるひとりではあるけれど、今年発表された『Oversteps』同様、本作「Move Of Ten」EPも、リスナーを戸惑わせることなく00年代の作品より親しみやすい。つまり、よりポップなのだ。ミニマル・テクノもマントロニクスのようなリズムもカジュアルに着こなしているところがクール。迫ってくるのではなく音の全てが個別に耳に入ってくるシンプル性があり、それが一つひとつの音が持つ表情の豊かさを聴き手がはっきり感じ取れるものとして働いている。
 
 『Oversteps』に比べ、本作はビートが効いた楽曲が並ぶが、ダンス・ミュージックを意識しているオウテカなりの、人を踊らせるリズム、サウンドがある。徐々にビートの弾力を変化させるところや音の質感を変え、ファズを効かせたように歪ませるのも、聴き手を飽きさせたくない、驚きを常に与えたいというリスナーへの愛情として僕は受け取った。特にストリングスで不穏な空気を醸し出したかと思うと、次の瞬間、ぐっと絞られた電子音にスカッとし、協和音も不協和音も躍り出てくる。その瞬間的に移り変わる音色が聴き手の感情を揺さぶり、時に乱れさせ、清々しい音と危険性を感じる音を交互に、または同時に鳴らしてしまうのは彼らのひとつの特徴だ。本作でそれを押し出し、乱れ、踊ることの快楽を与えられることに興奮する。
 
 それはディファ有明で行われたライヴでも窺えた。スリリングでいて馴染みやすく、踊れる。彼らの核にあるものはダンス・ミュージックであると、ライヴを体験し、本作を聴くとより強く感じる。本作「Move Of Ten」EPは、『Oversteps』ほど音そのものの情報量が豊富だとは感じなかったが、ライヴ盤感覚で聴ける作品でもあると思う。
 
 それにしてもメロディを重視した『Oversteps』を発表した後でリズムを強調した本作を短いスパンで発表するところに「僕らはメロディ志向になったわけじゃないんだよ」というメッセージが透けて見える。メロディ、あるいはリズムといった側面だけではなく、あくまでも多面性のある音楽をやりたいしやっているんだ、というオウテカの意志があるのではないか。オウテカは『Oversteps』と「Move Of Ten」EPで、彼らが持つ多面性の中で、メロディとリズムという2面性を分かりやすく提示した。それはオウテカにとって音楽性を整理するという意味もあったのかもしれない。そうだとすれば「人間の脳を刺激したい」と言うオウテカだ。このまま終わるはずがない。むしろ創作意欲は脂ぎっている。まだまだ早いが彼らが次にどうでるのか楽しみだ。それまでの間、『Oversteps』とともに本作「Move Of Ten」EPを楽しもうじゃないか。無論、この作品そのものも格好良い。

(田中喬史)

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hanson.jpg 1曲目の「Waiting For This」から最高にご機嫌でスウィンギンなポップ・ナンバー。まさに私たちも「これを待ち望んでいた」。サウンドはモータウンを基軸としているものの(フランク・ブラザーズのベーシストが半分の曲で参加)、かつてアメリカを嬌声の渦に巻き込んだデビューの頃の溌剌とした印象はぜんぜん失われていない。渋みを増すことはせず、ひたすら音楽的な技術と、自らのバンドが持つ天性のメロディ・センスに究極まで磨きをかけた結果、誰もがハンソンのことをテイラーも参加したティンテッド・ウィンドウズ以上に優れたポップ・バンドだと認めざるを得なくなった。大人になったのではない。彼らは本質的には何も変わっていない。そもそも彼らのサウンドは「若さ」と「アイドル性」を抜きにしてもきちんと語られるべきものだったのだ。すでに日本盤も発売されているし、彼らのサウンドの素晴らしさを再確認するにはうってつけのアルバム。最初ははまるかもしれないけれど、何度も聴いたら飽きるんじゃない、って? 彼らが歩んできたキャリアはそんなに薄っぺらいもんじゃないぜ。たしかにミッキーがドラムを叩いていたって不思議はない音だろう。だが、ハンソンはそんなに簡単に醒めてしまう夢ではない。

(長畑宏明)

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liveing_sisters.jpg 好きとか、思い入れとか、それ以上の好意を示す言葉あるとすれば、それは愛という漠然とした言葉になるのかもしれないなと思う。ザ・リヴィング・シスターズのファースト・アルバムは、古きアメリカン・ミュージックへの愛情に満ちている。まったくこの柔らかさといったらなんであろうか。綿毛に包まれているような心地の良さ。フォーク、カントリー、ジャズを愛しているといわんばかりの音楽性は懐古的と言えばそうなのだけど、ふわふわしたサウンドにすっとオルタナティヴな響きが入ってきて品の良いスパイスみたいに香る。

 ザ・バード&ザ・ビーのイナラ・ジョージ、ラヴェンダー・ダイアモンドのベッキー・スターク、そしてシンガー・ソングライターのエレニ・マンデルの女性3人によるグループ。彼女たちの『Love To Live』、それはシェルダン・ゴムバーグとの共同プロデュース。再生した途端、体に暖かい明かりを灯してくれるウィスパー・ヴォイスやコーラスには甘い解放感があり、サックスもギターもさりげなく朗らかで眠りの昏睡に似た感覚がある。ベッシー・スミスとナンシー・ウィルソンのカヴァー2曲を含む全10曲。気付けばディスクが回るのをやめている。

 彼女たちにはこの作品を作らなければならない理由があったと思える。アメリカン・ミュージックをルーツとする3人それぞれのリヴィング・シスターズ以外での音楽活動を、自分で肯定できることを目指し、つまりは過去を肯定できなければ現在を肯定することはできないわけで、どの楽曲も肯定という名の愛情に満ち溢れているものだから、ああ、ほんとうに、彼女たちはアメリカン・ミュージックをリスペクトしているのだなという気持ちが音を通して伝わってくる。それが心地いいのだ。

 セクシャル・ハラスメントのつもりはないけれど、歌声にどこか処女性を感じさせるところがあり、清楚というかイノセントな響きが感じられる。なおかつロマンティックで瑞々しい美しさに意識が埃を払うくらい簡単にさらわれてしまうよ。それは甘美なトリップ感。歌声だけでも素晴らしいのである。伴奏も素晴らしく、職人的な巧さがある。遠近感を意識したミックスや間の取り方も絶妙だ。いわば自らのルーツ・ミュージックへのオマージュ的作品として位置づけできるのだけど、茶目っ気あふれるサウンド・エフェクト。重なっていく音の層。凝ったアレンジ。そのどれもが新鮮性に満ちている。より高みへ登ろうとする意識があって現在の音楽シーンから外れてはいるものの、それがなによ、という気質も窺えて聴いていて嬉しくなる。ぜひこのメンツでセカンド・アルバムも発表してほしい。やっぱり音楽に愛って大切なんだなあ...。

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gutevolk.jpg 押しても引いてもびくともしない。小鳥である。光である。無垢である。あくまで西山豊乃なのであって、彼女のソロ・ユニット、グーテフォルク(Gutevolk)は、約3年振り、レーベル移籍第一弾の3作目となる『太陽のシャンデリア』においても小鳥のようであり、光のようであり、押そうが引こうがびくともしない個性が確立されていることを示す。やはり無垢なのだった。
 
 ウィスパー・ヴォイスとともに強すぎず弱すぎずの電子音が静かに跳ねて、ストリングスが気持ち良さそうに伸びていく。そこに鐘の音色やヴォイス・パフォーマンス、水の中で弾ける泡の音色をサンプリングし、刺のないメロディとともにゆったりと流れていく。もしクリスティンがいた頃のムームが2010年に作品を発表していたら、本作のような音楽になるのではと一瞬思った。
 
 細野晴臣や高木正勝、矢野顕子などから絶賛されている彼女の音楽はいわゆるフォークトロニカと言えるが、室内音楽的なファースト・アルバム、大胆なまでに電子音を強調したセカンド・アルバムに続き、『太陽のシャンデリア』では過去2作の良い部分を取り出し、余計な音を削ぎ落とし、必要な音だけ鳴らしているから耳にひっかかるものがない。次から次へと顔を出してくる音が西山豊乃の歌声に寄り添い無個性だった景色にひとつの集約点が生まれていくようだ。美しい記憶の断片を拾い集め、音にし、それは谷川俊太郎の詩のように美しい。さながらジャケットに描かれている木に小鳥が集まって音を奏でているみたいでもある。
 
 そんな音に包まれれば邪気なんてものは消えてしまうし、特に彼女のロリータ・ヴォイスと言っても差し支えのない歌声を聴いていると、その歌声の破綻の無さも手伝って、ゆっくりと風船がしぼんでいくように体の力が抜けていく。まるで全てを肯定されているような心地。それこそが彼女の真骨頂ではあるけれど、イージー・リスニング的にだけ聴けるものではなく、ほら、踊りましょうよ、という具合にややダンサブルなビートを交えている曲や、ビートをずらしているところ、ひねたアコースティック・ギターの音色すらあり、ちょっとした刺激を与えてくれる。それが面白くて楽しくて興味深くて耳をそばだててしまう。お釣りで一万円札が返ってきたときのような驚きを忍ばせているから何度も聴ける強度を持っている。
 
 そこにグーテフォルクの成長が窺えるから嬉しい。音楽に遊びを入れられる余裕が今の彼女にはあるのだ。チルアウト的な音楽だと捉えられそうだけど、そう捉えるリスナーに、ふふふとちいさく笑う彼女が音の奥にいるのが見えてきそう。「実はね」と。「実はけっこう複雑なことしてるのよ」と。そんな余裕もまた無垢だ。西山豊乃自身が「現時点の最高傑作」と呼ぶ本作。これはチルアウト的ミュージックの極点、あるいはカウンターになりうるかもしれない。この作品を聴いて受け身で癒されるだけじゃ何も起きないなと思いもした。面白いことやらなきゃ何かが起こる以前に何も響かないのだと。


(田中喬史)

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no_one_knows_about_persian_cats.jpg ポップミュージックの規制厳しいイラン。首都テヘランを舞台に若者たちの音楽への情熱と自由への希求を描く。実在の事件、場所、人物に基づいて、名作『亀も空を飛ぶ』のバフマン・ゴバディ監督が当局に無許可でゲリラ撮影を敢行した作品。

 ストーリー・ネガルと、そのボーイフレンドのアシュカンはともにミュージシャン。インディ・ロックを愛する彼らは、自由な音楽活動ができないテヘランを離れてロンドンで公演することを夢見る。そのために2人は危険をかえりみず、偽造パスポートを取得しようとする。2人は音楽のためなら何でもござれの便利屋ナデルを頼るのだが...。

 出演者のほとんどは実在のミュージシャンたち。主役の2人は、撮影が終了したわずか4時間後にイランを離れた。この物語は彼らの実際の経験に基づいている。コンサートもCD発売も許されていないミュージシャンを撮影するために、ゴバディ監督は、当局に無許可でゲリラ撮影を敢行。テヘランの市井の人々の逞しきユーモアと若者たちの音楽への情念...そして自由への溢れんばかりの痛切な想いを映画に込めて。ゴバディ監督も本作を最後にイランを離れた。と、以上公式サイトから参照。

 セルフドキュメンタリーのようなモキュメンタリーのような作品の印象を受けるのは実際のミュージシャンたちが簡単なプロットを元に即興で演技をしているのだけど、それは彼ら自身でもあり、彼らの言葉や思想となんら変わらないからだろう。 庵野秀明監督『式日』という作品で「監督」役を実際の映像作家である岩井俊二氏がそれを演じたようなことに似ている。小説のことは小説家にしかわからないと言うような、映画監督の事は映画監督に、ミュージシャンのことはミュージシャンにしかわからないのかもしれない。

 「ここではない何処かへ」行きたいという希望、ここでは息をするのも苦しい、音楽が好きで自由にやっていたい、だけどもそれを政府は許してはくれないという苦悩とすべての35ミリの機材は当局に帰属しそれらを使うには当局の許可が必要な映画監督の気持ちが重なっている。

 バフマン・ゴバディ監督がスタジオでアンダーグランドのミュージシャンと知り合う。しかし政府は彼らがまるで悪魔崇拝する危険な人間だと中傷して彼らのことが国民に知られないようにしている。
 
 監督はイランにいる本当の若者を撮ろうとした。実際にネガルとアシュカンは拘留されて釈放されたばかりで18日後にはイランを離れる予定だった。その短い間に撮影されたイラン映画史で初めて反体制的な若者に対する政府の厳しい対応を公然と批判した作品になっている、検閲されていないテヘラン、許可を得ていない撮影がそれを可能にし世界にイランにいる若者の姿を伝える事ができている。

 ミュージシャンたちの音楽と共に流されるテヘランの映像が、今まで見た事のない街の風景が色鮮やかに映し出されてくる。少しばかりPVを何本も見ているような感じにはなるのだが、ロック、フォーク・ロック、リズム&ブルース、ヘヴィメタル、ラップと多様な音楽が鳴り響く。

 現在イランで最も広く聴かれているラップミュージシャンのヒッチキャスと便利屋のナデルのやりとりを観ていてラッパーってのはどこにいても同じような事を言うんだなって思ったりした。社会問題を歌うラッパーって世界のどこにいてもなんだか意識的には似てるし、それがラップの根本なのかもしれないなあって思った。僕のイメージだとTHA BLUE HERBのMCのBOSS THE MCみたいな人だなって。

 ネガルとアシュカンがコンサートをするためにいろんなバンドに会ってメンバーを集めていく。その中の一人はストロークスのTシャツ着てるし、アシュカンは夢を語る時にアイスランドに行ってシガーロスを観るんだと言う。どれだけ政府や当局が何かを押さえつけようとしても彼らはネット等で国外の事を知っているしそれ故に自分たちの国の不自由さにムカつき抵抗しようとする。

 しかし、国内で音楽活動ができないのなら国外に出て行く彼らは音楽という翼で世界に羽ばたこうとする。映画を撮り終えて彼らは国外に出て行った。監督も現在はイランを離れている。

 しかし彼は去年の東京フィルメックスで来日予定だったがヴィザの発給が間に合わない理由で中止されている。そして本作が公開されるプロモーションのために来日しようとしたがパスポートの更新ないし査証欄増補が認められずに来日を拒まれた。現状においては彼はイラン国民として来日されている事自体を拒絶されている、それはイラン政府の意志でありそれに消極的ながら加担してしまっている日本政府の意志であるとのこと。イランの政治が現状のまま続く限りもはや国帰ることはできない。帰国すれば即逮捕され不当な扱いを受けることが明白に予測できるからだ。

 閉塞された国から飛び出していく事でしか伝えられないものがこの映画にはあり、現時点では戻る事ができない彼らが世界に伝えるのは自分たちと同じような若者がイランにはたくさんいて閉塞した中でも音楽活動し音楽を楽しんでいる人達がいる。それを阻もうとする政府があり、その現状が世界に伝えられていないということを彼らの音楽とテヘランの街の風景と疾走感がヴィヴィッドに映し出されている。

 だがネガルとアシュカンは中流階級というか裕福な家の出だと思うし、彼らはこの国から出て行くことができる。テヘランの若者を描いているが彼らのように自由に自らの意志でこの国を出て行くことができない若者達の方がたくさんいる。「ここではない何処かへ」行きたくても行けない若者はそこに留まり現状の政府に対して行動し政治を変えていくこと以外に方法はないのだろう。

 いつだって、そこから羽ばたいていく者とそこに留まる者がいる。選べる者と選べない者がいる。僕が気になるのは羽ばたいていった彼らではなくそこに留まりこれからもそこで生きていく多数の彼らの物語だったりするのだけど。それが観れるのは現時点では無理だろう。だからこそ今は出て行った人達が語ることで少しでも現状が変わるきっかけになるのならばこの作品が世界で観られる事に非常に意味がある。

(碇本学)

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gold_panda.jpg  『Companion』リリースに伴ってのインタヴューで名前の由来を聞かれたゴールド・パンダは「好きな物を2つくっつけたら、って彼女が言ったから」と、"インダストリアル・メタルバンドみたいだからやめた〈ピンク・ワーム〉"に次いで出てきた〈ゴールド〉と〈パンダ〉をそのまま採用したのだと返していた。ゴールドも動物名も現代のシーンにおいては頻出単語であるとの追撃に対しては「彼らとは音楽性が似てないから」と断って、「別にいいや」とあっけらかんと応える彼のことがわたしは、気になってしょうがない。



  「ドラムマシンのビートにオリエンタルなサウンドをミックスした音楽を今後も作り続けて行きたいね」(CINRA/ 16 Apl,10)

彼の住んでいたイースト・ロンドンはタワー・ハムレッツという場所は、インド、パキスタン、バングラディシュ系の人間が犇めくコミュニティのある、曰く子供は「モスクから流れる音楽を聴きながら育つ」ようなところで、インド人であった彼の祖母の影響で「サンライズ・ラジオ」というインドのラジオ・ステーションから流れてくる音楽によく耳を傾けていたという。そうなると彼が「Quitters  Raga」、或いはアルバム・リリース後にドロップされた「You」 EPに於いてエスニック対する傾倒が見られるのもさもありなん、である。



 彼のオフィシャルな肩書きは「UKはイースト・ロンドンのダブステップのプロデューサー/リミキサー」で、クリエイション・レコーズのスタッフでもあったマーク・ボーウェル、ディック・グリーンが00年に設立し、現在はハー・スペース・ホリデイ、エスパーズ、ビート・コーストらを従えるUKの名門インディ・レーベル、ウィチタ(Wichita)がマネジメントをとっている。レーベル・メイトであるシミアン・モバイル・ディスコやブロック・パーティー、またはリトル・ブーツのリミックス・ワークで先に、プロデューサーとしての彼の名前を耳にした方も多いかもしれない。ただし「ダブステップのプロデューサー」という括りは彼の目は懐疑的に映るようだ。確かに、彼の持ち合わせるジャジー・ヒップホップ、オピエイト(Opiate)然としたアブストラクトなビート、メロディックにシンコペイトしたリズムとそれに合わさる東洋的なエキゾチズムは、その「複雑」性からして、既存の「ダブステップ」なる概念とは素朴に重ねることが出来ない。例えば新気鋭のダブステップ勢として同列に語られることの多いパンクス・サウンドチェック、ヘッドマン、ラスコ、デッド・フェーダー等を見ていると一目瞭然だが、カラーの全く違う彼らの場合、「ダブステップ」は異なるジャンルをミックスしていくためのプラットフォームに過ぎないのかもしれない。

 ダブステップのセカンド・フェイズに位置付くポップなトラック・メイキング、メロディックでシンコペーションの強調された変則的なリズム、ミニマルで、センチメンタルなアプローチに、フォー・テット、サーレム(salem)的インディー・エレクトロ、クリス・クラーク、リチャード・D・ジェイムズの繊細なテクスチャ、或いは美しいアンビエント。ノー・フューチャー(NO FUTURE)一派としてテクノ・ユニットであるサブヘッド(subhead)の一人でもあった彼は、相方フィル・ウェルズの死をきっかけに、「自信はなかったけど、もう少し音楽をやってみようと思った」という。「音楽は僕の憂鬱な気分を揚げてくれるから、だから音楽を作ってるんだ(Hard To Explain/ 28 Feb,10)」。

 「チルアウト」や「センチメンタル」といったアティチュードを通底して持ちつつ09年後半以降、US,UKインディー界を湧かせている彼らについては、既に水面下での遣り取りはあったものの、それは言わば噴火寸前の活火山のようなもので、明らかな熱量を帯びておきながらも広く伝搬されることはなく、一部のインディ・ファンの間で沸騰していただけだった。それが『Companion』を始め10年代にリリースされたアルバム群によって愈よ、顕現化されてきたように思う。

 そもそもわたしは「ニュー・レイヴ」、「ニュー・エキセントリック」といった一連のムーヴメントには全く「乗れ」なかった。アフロ(ビート)への傾倒やら、シンセサイザーをフィーチャーしたハイトーンで無機質な音楽はどうも「祭り」の「喧噪」のようで、カラフルな衣装を身に纏って無邪気に踊(っていたと思われ)るキッズ達を傍観していたら、多文化主義の孕む強烈なリジェクトといえばイスラム系の女性が信仰を「露」にすることを「マス」に認可されなかったことが記憶に新しいが、アフロビート、若しくはハイライフを語るにつけ、その独特の「昏さ」ばかりが見えてきてしまって、過剰なセンチメンタリズムに浸ることの方が多かったからだ。宗教的・歴史的側面を引用するまでもなく例えば、「愛する人が欲しかったら、クラブに行けば良いかもね。でも君は踊ることが出来なくて倦んでしまうだろう。そして家に帰って、泣きたくなるんだよ」と歌ったモリッシー宜しく、「祭り」は楽しいばかりのものでは本質的にはない。

 先に挙げたムーヴメントを「パーティーの喧噪」と記述したが、だから「パーティー」の後に「チルアウト」というタームが来たのも当然の流れであるように感じるし、踊り疲れて捌けていく客の波を縫ってDJブースのセンターに付くわたしは俄然、元気になる。「音楽体験は本来、個人的なもの」なのだ。因みに、先に引用したスミスの「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」ではこう続く-「今っていつだい?いつになったら僕は、人から愛されるっていうんだい?」。

 「そんな瞬間」は多分訪れないからして、「個人的な動機」を胸に「不可能」性に着いて踊るのは、私は悪くないと思っている。


(黒田千尋)

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