August 2010アーカイブ

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empire_empire.jpeg ミシガンで結成された4人組ロックバンド、エンパイア!エンパイア!(アイ・ワズ・ア・ロンリー・エステイト)のファーストアルバム。
 
 一聴してわかるのが、90年代中期から後半にかけてサニー・デイ・リアル・エステイトやミネラル周辺のバンド達によって確立された当時の「エモ」と呼ばれた音楽的エッセンスが集約されていること。00年代にメインストリームで鳴らされていた代表的なエモ・スクリーモと呼ばれたバンドたちが感情を激しいシャウトなどで表現していたとするなら、それ以前のアンダーグラウンドで鳴らされていた音楽は、私的な例え方をさせてもらうなら「負け犬の遠吠え」である。屈折した者たちが鳴らす痛々しさ、切実さが全編にわたって伝わってくる。
 
 そんな空気が彼らのアルバムにも詰め込まれている。ギターのひたすら反復するアルペジオ、タメ気味なドラム、そしてボーカルの不安定さまでいわゆる90年代エモのマナーにのっとっている。これを「焼き直し」だと思われるかどうかは人それぞれだろうが、ゲット・アップ・キッズが新作を出したとはいえリヴァイヴァル・ブームのようなものが起こる気運など感じられないこの状況で、このような音楽が生まれることは興味深い。時代を遡り当時の音楽を語るうえでの、現代における「踏絵」(このシーンを語るならばまずこれを聴くのが早い、と言う意味での...)と位置づけてもいいと思う力作。

(藤田聡)

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sunahara.jpg 例えば、石野卓球がDJではドープなデトロイト・テクノでロング・プレイするときに、そこにはホアン・アトキンス、カール・クレイグ、デリック・メイからジェフ・ミルズへのリスペクトを孕んでいるのは勿論として、アンダーグラウンド・レジスタンスへの視座をより意識している時が必ずあって、「Hi-Tech Jazz」が挟まれた時のクラウドの熱量を捉えた時に浮かぶ「ダンス」はガブリエル・アンチオープの『ニグロ、ダンス、抵抗』におけるそれを彷彿とさせる。

 捕捉しておくに、この書物は奴隷制の変遷をたどった制度史ではなく、17~19世紀という近代国家の黎明期にあって、カリブ海地域を舞台に、いかに「ダンスという行為=文化表象」を通じて人種や民族、ジェンダーが配置され構成されてきたかを分析すること、そして更に、支配と従属のなかに生きてきた奴隷=ニグロにどのような「抵抗の道程」があったのかを明らかにするものであり、S・ホールのような、奴隷制プランテーションに対してそれを生産様式の関係性だけで捉えるのではなく、イデオロギーの次元の関わりをも重視している。ヨーロッパ中心主義的な史実の「書換え」をもダンスという文脈で行なう。奴隷にとっては、ダンスは単なる娯楽ではなく、それは、政治的な意味を持ち、抑圧からの逃亡を可能にするものであり、更にはニグロの定義を更改する。彼らは完全にはマスターに従属した存在ではなかった。

 彼は、電気グルーヴというペルソナではシビアに道化を演じながら、ソロ作品でハードなものからミニマルまで跨ぐ嗅覚にはいつも「現場」を可視化している優しいシビアさがある。それは、一晩で消費されてしまうアルコールの量や求愛の数、そして、鳴り止む音楽と、汗。フロアーが空けた後に戻るそれぞれの日常の辛苦を弁えているということでもある。だから、音楽は「永遠と一瞬を止揚する」なんて甘えた認識よりもその音楽が鳴っている瞬間が永遠であればいい、というスタンスを取っているように思える。そうでないと、あれだけのハード・スケジュールで日本以外の世界も含めて小さな箱もDJで回らないと思う。

 その彼が電気グルーヴ内でも一時期、全幅の信頼を置き、今でも時折繋がりを持ち、奇妙な事に捩れながらも、シリアスなスタンスが似てきているというのが、砂原良徳だった。無論、饒舌でスタイリッシュな石野氏と比して、彼はどちらかというと、テーマ設定の中で「音」を作る職人的なタイプだったので、ツアーやDJといったものより、リミックス作業やプロデューサー業に傾いでいたし、石野氏よりは寡黙に居場所を確認している所があった。その一理として、01年の『LOVEBEAT』が、隙間の沈黙さえも音にしてしまった部分があり、越えられない壁を自ら作ってしまったからとも言えるかもしれない。モンド・ラウンジ、クラフトワーク、飛行機といったテーマから逸れて「一」から構築した音の強度は容赦がないくらいに、クリアーでハイファイであり、また雑多な音を拒むストイシズムを帯びていた。踊るには少し緩やかなエレクトロニック・ファンク、リズムと最小限の音を纏った清冽な意志に貫かれた音の粒子。また、エイフェックス・ツイン、オウテカ、ボーズ・オブ・カナダなどのポスト・エレクトロニカ勢との完全なる共振が行なわれた実験室での未必の悪意は、「LOVE BEAT(ビートを愛する)」ではなく、「LOVEBEAT(愛のビート)」というイロニーを提示した。

 その後、ほんの僅かなリミックス・ワークを除き、以降、沈黙をする。沈黙の間、エレクトロ・クラッシュ、乙女系ハウス、ニューレイヴ、ドラムンベース、フレンチ・エレクトロなど幾つもの音が壁一枚隔てたクラブで分化され、鳴りながら、トライヴは決して噛み合うことなく、散逸され、その中、リバイバルでアシッド・ハウスからジャーマン・テクノ、勿論、デトロイト・テクノまでが巡り巡っていた。猥雑な喧騒を傍目にスタジオで彼は音を研ぐように、次の作品への模索を繰り返していた。

 09年にはサウンド・トラックとしてあくまで試作品的なモードを示してみせていたが、今年に入って彼の漸く「次の視点」が現れていると言えるEPがこの「Subliminal」になる。来るべきアルバムへのパイロットになるのか、彼の事だからまだ分からないが、十二分に密度が詰まった4曲が詰まっている。ここには明確な逃げ場がなく、かといって、誰もが参入できる入口もない。途中参加が赦されるような生ぬるい音像でもない。『LOVEBEAT』時より鋭角的に切り詰められながらも、ふくよかさも増した音は聴き手の安心や予定調和を拒む。ファンタジーというのはデ・ジャヴを何度もインストールし直すだけの非創造者側の怠慢だと定義付けるとしたならば、この作品のファンタジー性は、マッドなリアリズムを切り取り、曝す。YMOが野外で緩やかなパフォーマンスをする今、チルドレンの彼はまだ日和らない。「音の政治性」を認識したとても辛辣な作品だと思う。

 「Subliminal」は具体的に、ダンスを想起させる音像ではないかもしれないし、踊れる音楽ではないかもしれない。しかし、「ダンスが催される空間」の意味は再定義せしめる。その場では身分が可視化され、その差異を画定し続ける政治・社会的な戦略の場でもあり、一方、再創造として仮構された起源としてのダンス文化をヨーロッパにもアフリカにも回収できないようにせしめる。そして、「ダンス」が娯楽や祝祭に関わった振舞いであった以上に、政治的・社会的・文化的なマイノリティの主体化を賭した行為だということをリプレゼントする。

(松浦達)

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DARWIN DEEZ

荒さがあるからこそリアルな質感が生まれる

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「NME期待の新人」に選ばれ、NME Rader Tourへの参加が決定し、サマーソニック2010にも出演したダーウィン・ディーズ。



彼は超が付くほどの気分屋ポップ・シンガーだった。



跳ねるようなポップ・ソング・アルバム『ダーウィン・ディーズ』について、そして彼の素顔に迫った。



というより素顔そのままであった。

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LOCAL NATIVES

フリート・フォクシーズが出てくる前から
レコードに収められている曲は書きあげていたよ


野性的で熱のこもったサウンドと美しく息の合ったヴォーカル・ハーモニー、圧巻のステージングでロサンゼルスから頭角を現し、主要メディアから多くの音楽ファンまで絶賛を集め、早くも独特の地位を築いた新鋭バンド、ローカル・ネイティヴス(Local Natives)。インタヴューでは昨今のUSインディー勢に通じる知的さ/真面目さを印象づけられた一方、ファニーで初々しい一面もときおり垣間見せてくれた。大興奮のパフォーマンスが繰り広げられたフジロックの前日、キーボード/パーカッションを担当しステージでは中央を陣取る最年少のケルシー、インタヴュー中にずっと自分の手に落書きをしていたお茶目なベースのアンディ、愛くるしい童顔とパワフルな叩きっぷりのギャップが痛快なドラムのマットの三人に話を聞いた。

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best_coast.jpg 『あなたに夢中』―これほど臆面もなくストレートなタイトルは久しぶりに見た気がする。数々のEPやシングルを発表し2009年より注目を集めてきたLAのベスト・コーストのデビュー・アルバムはそのタイトルに違わず、飾らない言葉とストレートで甘いメロディが詰まった作品だった。

 シンガー/ソングライターのベサニー・コセンティノとマルチ・インストゥルメンタリストのボブ・ブルーノによるデュオの特徴は、ジャングリーなギターとスウィートなメロディにある...なんていうと、ヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズといった最近のガールズ・バンドが頭に浮かぶかもしれない。だが、ベスト・コーストの魅力はシンプルさにある。

 まず、リリックは驚くほど単純明快。基本的には、「あなたと私がいて幸せ」、という笑ってしまうほどピュアなテーマを、中学生英語並みにシンプルな言葉で綴っている。だが、スペクター風のもやがかかったようなプロダクションと、ドゥー・ワップのポップなコーラス、そして初期パンクを思わせる直線的なメロディの組み合わせが簡素な愛の言葉にロマンを与えた。電話を待つ甘酸っぱく切ない気持ちを込めた「Boyfriend」や、ギター・ノイズとロールするドラムで胸の高鳴りを表現した「Crazy For You」にはきっと10代の青春を思い出すだろうし、一緒にいられる幸せを歌った「Happy」でのラモーンズ風の疾走では力強いビートが心臓の鼓動とリンクするようだ。「60年代のポップを多く聴いてきた」というベサニーのペンによる楽曲は多くの人に共感を呼び起こす。

 海や夏といったフレーズがキーワードとなり、リアル・エステイトにサーファー・ブラッドといったサーフ・ロックや、ウォッシュト・アウト、ワイルド・ナッシングといったチルウェイヴ系アーティストが活躍する現在のUS。このシーンにおいて、ザ・ドラムスと並んで大衆にアピールする存在といえる。今回もアンセム化必至のコンバースのキャンペーン・ソング「All Summer」でも、キッド・カディとヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムというユニークな2人に囲まれながらメインをとっているし、今年の夏女はベサニーで決まりだろう。

 それにしても、スウィートな楽曲とアルバム・タイトルは彼氏であるウェイヴスのネイサンに向けたものなのか、それとも溺愛する猫に向けたものなのか、そこが個人的には気になってしょうがない。

(角田仁志)

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chilly_gonzales.jpg これはかなり面白い。洒落ているが気取っていない。ダンサブルだが、ただのダンス・ミュージックというわけでもない。彼の作品を聴くのが初めてだった僕でも興味深く聴けたし、本作で初めて彼の作品を聴く方も十分楽しめると思う。ボーイズ・ノイズをプロデューサーに迎えた本作『Ivory Tower』、それは単にひとつのジャンルとして片づけることの出来ないサウンドだとアルバムを通して聴くと分かる。

 カナダ出身、フランスはパリを拠点に活動しているゴンザレス。ビョークやダフトパンクからも絶賛されている彼はピアニストでもありラッパーでもあり、プロデューサーでもありと、多くの顔を持つ。ジェーン・バーキンやファイストをプロデュースし、ジェイミー・リデルの新作にゲスト参加した彼の、良い意味でわずかにねばり気のあるピアノは同じフレーズを繰り返すことが多い。しかし、瞬間的にさらっとした音色やフレーズを奏で、ベースやコーラス、電子音が曲の中で動いていようと何だろうと、ピアノが常に中核にある。歌があればラップもあり、歪んだ電子音も強調されているが、やはりというべきか、ピアノの音色が移り変わるごとに楽曲の雰囲気は瞬時に変わり、その瞬間は心拍数が上がるスリルに似たものがあって面白い。とはいえ見惚れてしまうような美しい「Final Fantasy」という曲もあるから良い。

 以前(今もあるのかもしれないが)、渋谷にはパラパラという動作を共有することで連帯感を高めるダンス・ミュージックがあった。そして、それに対するカタチでムーディーな、大人が楽しめるようなハウスがDJカワサキを筆頭に登場した。しかし本作『Ivory Tower』は、踊るためだけのものや大人っぽさといった、何かに特化した、あるいは何か別の音楽へのカウンター的な作品ではないと感じる。

 もし本作をダンス・ミュージックと位置付けるならば、かつて一部(あくまでも一部だが)のレイヴ・カルチャーがただ騒げればいい、といったものとして働いていた、それに対してのアンチである鑑賞を目的としたIDM。それらを内包しつつも、より実験性を高めた実験音楽的な側面を持つ大衆音楽としてリスナーの耳を楽しませるものとして息をしている。このアルバムの楽曲をライヴで披露するときは音源以上にダンス・ビートを強調するのだろうけど(ちなみに、9月にはピアニストとしての来日公演が決定している)、作品においては滑らかで聴きやすく、かつ、耳をそばだてれば興味深いサウンドに満ちている。

 しかし過剰に快楽を与えないところが面白い。快楽によって踊り、または真摯に音楽を聴く行為はある種の救いとして働くが、本作を聴く限り、リスナーを救おうという意志があまり見られない。「ただ楽しめばいいじゃないか!」という声が音楽から聞こえてこないのである。もしかしたら、楽しむこととは、「楽しもう!」と、あらかじめ意気込むものではなく、聴いている最中に、そして結果として、楽しみの心地とは湧いてくるのだということをゴンザレスは知っているのかもしれない。また、彼がダンス・ミュージックを行事的なパーティーで披露する姿が目に浮かばなくもある。爆発的な快楽を与えず、いつ、どこで聴いても興味深く感じられる本作は、計算的化された、とでもいうべきか、パーティーの行事性へのアンチとなりうる音楽なのではないか。そうだとすれば、本作は音楽そのものが持つ、どのような場面でも耳を楽しませてくれるという現在の聴衆の聴取欲求を肯定する。そんな快作でありパーティー的快楽への焦点をずらした異色作でもあると思う。本作は感情の発露のみではなく、ポジティヴな感情の発生として働く。 

(田中喬史)

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 もう駄目だ。もう死にたい。というところが、ない。とどのつまり、ネガティヴな印象を打ち消してしまう音なのだ。歌の強さである。歌の存在感の広さである。決して過剰にポジティヴなわけではないが、歌声はトム・ウェイツやボブ・ディランなど大御所アーティストを彷彿させる。元リバティーンズのピート・ドハーティにも絶賛されているジョン・ブラムウェルの声が苦みを帯びて淡々とうたわれる。その様に悲しさがあり、暗さもあるのだが、歌はもちろんのこと、ギターもドラムも己の感情を抑制した音の全てが胸を静かに、しかし強く打つ。

 マンチェスター出身の3人組、アイ・アム・クルートが発表した5作目となる『Sky At Night』。プロデューサーにはUKで権威ある音楽賞「マーキュリー・プライズ」を受賞したエルボーのガイ・ガーヴェイ(彼はマッシヴ・アタックの新作にも参加)とクレイグ・ポッターを迎えた。メロディもまた素晴らしく、奥行きを十分作ったミックスも手伝い、神聖な森の中でどこからともなく聴こえてくるようで耳を傾けてしまうのだった。そして訪れる胸がすく気持ち。聖域を見付けてあぶり出してくれるようで何度も聴いてしまえる。ソロの、純粋なギター一本のみの弾き語りも聴いてみたくなった。声がアコースティックな感触にはまりにはまっている。

 演奏スタイルは弾き語りに近い。が、しかし、バンド・サウンドとして重心が座っている。幻想的でもドリーミーでもない。その目の前に立って音を奏でているような親密性がより自然に耳を音に傾けさせる。丁寧に選ばれたアコースティック・ギターの音色。残響音までしなやかに伸びていくストリングス。ドラムはあくまで丁寧だ。時にドラマチックに盛り上がる楽曲の構成が暗闇を思わせる音の空間にぽっと明かりをつける。ジャケットにあるような光が感じられ、ジョン・ブラムウェルもまたジャケットに映る木のように、か細くとも堂々と立っている姿が目に浮かぶ。

 木とは本来曲がりくねり、奇形であるが、アイ・アム・クルートは垂直な木なのである。それはひたすら天に向かっている垂直の木のように、偽りの弱さがないゆえ、とても強い。僕らは何気なく死にたいと、口にしてしまうことがあるが、その死にたいという言葉を太宰治と同じレベルで言える人間は少なく、ほんとうならば、弱さを口にできるのは、強く生きた者のみなのである。弱さを見せられる強さ、というものもあるが、アイ・アム・クルートは弱さを発露するのみではなく、弱さを抱えながらもジャケットに映る木のように強く立っている。彼らならビル・エヴァンスが鍵盤の上で亡くなったように、死の直前まで音を奏で続けるだろう。それは音楽が全てである音楽家としての強さなのだ。このバンドには、生きていること自体が強さを、または弱さを醸し出す姿勢がある。そんな本作に、妙に反省させられる。

(田中喬史)

*日本盤は9月8日リリース予定です。【編集部追記】

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sslyby.jpg 「ボリス・エリツィン(初代ロシア連邦大統領)、誰かがまだあなたを愛している」、USインディー・ロックの熱心なリスナーなら、この長くて変な名前をどこかで目にしたことがあるだろう。本作『レット・イット・スウェイ』は、彼らの三作目となるニュー・アルバムだ。 

 人気ドラマ『The O.C.』の劇中曲として使用され、ブレイクのきっかけとなった「Oregon Girl」をはじめ、キャッチーなメロディーとチープなサウンドでローファイ~インディー・ポップ好きのハートを鷲掴みにしてきた彼らだが、本作では一回り成長した、より完成度の高い楽曲を聴かせてくれている。それは、彼らのバンドとしての成長に加え、プロデュースを担当したデス・キャブ・フォー・キューティーのクリス・ウォラの功績によるところも大きいだろう。(良い意味での)青臭さや勢いを残したまま、よりクリアにメロディーの良さが伝わるサウンド・メイキング。同じくクリスが手がけたシアトルのバンド、テレキネシスの昨年のデビュー作にも通じるものを感じる。

 もちろん、一度聴いたら忘れられないグッド・メロディーは健在で、初期ウィーザーやティーンエイジ・ファンクラブ、ナダ・サーフなどを引き合いに出すまでもなく、ポップなロック・バンドが好きな人ならきっと一発で彼らのことを気に入るだろう。2010年、最新のギター・ポップ名盤がここに誕生した。

(山本徹)

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patrick_pulsinger.jpg パトリック・パルシンガーが新しいアルバムを出すと知って、前作『Easy To Assemble.Hard To Take Apart』のようなアルバムでなければ良いなあと思っていたのだが、それは杞憂に終わった。もちろん内容を悪いと思っているわけでは決してなく、傑作とさえ思っているのだが、彼のそれまでの輝かしいキャリアを振り返ると、やはり数々のシングルで見せたテクノ、アシッド・ハウスや、スラッツン・ストリングス&909(Sluts'n'Strings & 909)名義で出した名作『Carrera』の様なサウンドを個人的には望んでいたのだ。

 一聴してダンサブルでありつつも整理されてない感じがFour Tetの『There Is Love in You』に似てるようにも思えたが、Four Tetの音楽が雑踏のような温度があるのに対して、パルシンガーのそれは地下室のようなひんやりとした質感がある。アルバム中「A To Z」は歌メロがクラフトワークの「The Robots」を思わせるし、「ライズ・アンド・フォール」の2:16のディレイの使い方、「グレイ・ガーデンズ」の盛り上げ方など、古典的な手法が多いと思うのだが、この雑然としつつもひんやりとした質感こそが彼の個性だと思う。

 アルバム中、6組のアーティストがフィーチャーされているが、正直言ってフェネス以外はほとんど知らなかったので調べてみた。残念ながら音源を含んだ詳細がわからなかったアーティストもいるので一部になるが参考まで。

 「グレイ・ガーデンズ」でフィーチュアされている、フランツ・ホウツィンガー(Franz Hautzinger)はデレク・ベイリーや AMMの面々とも共演しているトランぺッター。音源をyoutubeで探してみたのだが、これを聴くとエレクトリック期のマイルス的。プロフィールを読んでもっとインプロしてるかなと思っていたのだけど。

 「ライズ・アンド・フォール」のジー・リッツォ(G Rizo)はエレクトロ系の女性ボーカリスト。本人のMySpaceにYouTubeのライヴ映像がリンクされている。かなりパワフル。

 エレクトロ・グッツィ(Elektro Guzzi)はオーストリアの3ピース・インスト・バンド。ステファン・ゴールドマンのMACROからアルバムが出ている。ギター、ドラム、ベース、という構成ながら、サウンドはテクノ。そのアルバムにもパルシンガーは関わっているようだ。これもmyspaceがある。

 このアルバムを入手してからもう何度も繰り返し聴いている。このクオリティのリスニングにも耐え得るダンス・ミュージックというのもありそうでなかなかないものだ。コンスタントな活動を期待したい。

(田中智紀)

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nsukugawa.jpg 増子真二(ボアダムス、DMBQ)をプロデューサーに迎え、やっとこさ完成したセカンド・アルバム。まずはN'夙川ボーイズの説明から始めよう。彼らはその名の通り、神戸の夙川を拠点に活動する3人組ロック・バンド。誰が何を弾くかは特に決まっていない。演奏は私がいままで観てきたバンドのなかで1番下手。そもそも私が彼らに注目したきっかけは「Candy people」という超がつくキラー・チューンを聴いたから。そう、彼らは誰でも一生懸命練習すれば身につく演奏力をかなぐり捨てた代わりに、誰もがうらやむ「ジザメリがJ-Popを演奏しているような」刹那的に美しいバンド・サウンドを手にしていたのだ。ほとんどの日本のバンドが特筆すべき個性を必死になって探し回っているのに、彼らにはそれがとっくに備わっていた。今作からは「アダムとイヴがそっと」が新たな「Candy people」になるだろう。

 かつて私はペイヴメントのファーストを聴いたときにまったく意味が分からなかった。「金もないのにこんなもん買っちまった」とまで思った。しかし、当時の若者がリアルタイムで彼らの登場を目の当たりにした衝撃とは、まさに私がいまN'夙川BOYsを聴いて感じたものと同じだったのだと思う。それと最後に「MA.DA.KA.NA」、名曲!

(長畑宏明)

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