バッファロー・ドーター『ザ・ウェポンズ・オブ・マス・ディストラクション』(Awdr /lr2)

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buffalo_daughter.jpg やめときなよ、それに手を出しちゃいけないよ、というものが、バッファロー・ドーターにはない。ヒップホップをやろうがマスロック的なアプローチを見せようが、それらの音楽性を取り込み、まさにこれだよと言わされてしまう説得力が宿った楽曲に、やっぱこれだよねと言うしかないのだった。とにもかくにも、93年に結成したシュガー吉永、大野由美子、山本ムーグの3人から成るバッファロー・ドーターの、ドラムにザゼン・ボーイズの松下敦、6曲目のヴォーカルに羽鳥美保を迎えた4年ぶり、通算6枚目の本作『The Weapons Of Math Destruction』も、ニュー・ウェイヴへの愛情たっぷりに、そして愛情を、壁をぶちやぶる力に変換して突き進む姿勢を貫く。
 
 いやむしろバッファロー・ドーターそのものが、音楽という漠然とした観念としての壁への解答であり否定であったのかもしれない。ポリシックス、あるいはコーネリアスよろしく、メロディ、リズム、音の質感、音の配置、その全てを依存の音楽プロットに当てはめず、定型化させることなく新鮮性に溢れたサウンドを常に表現してきた。そんなバッファロー・ドーターの『The Weapons Of Math Destruction』、タイトルは数学破壊兵器の意。そして物理がテーマ。物理とはありとあらゆる現象にひとつの集約点を設けることでもあるのだが、同時にどうすることもできない現象に伸るか反るか、という判断を行なうことでもある。バッファロー・ドーターは、のった。しかし反ってすらいる。
 
 前進していても力学はマイナスに働き、殻を破ろうにも痛みがともなう。つまりは過去を見つめなければならず、自分たちの過去の音楽を見つめながらも自らの音楽を破壊するかのように様々な要素を取り入れ、楽曲をばらばらに解体させた上で自分たちの解釈で音楽を創作し成り立たせる。その音楽はあまりにも素晴らしく、いわば、ばらばらに砕かれた音というものを強い重力によって一体化させているような印象すら受け、その様にカッコいいじゃないかとシャウトのひとつもしたくなるのだ。要は、否応なしに興奮が腹の底から湧きあがりガツンとくるのだ。
 
 そうして次々と踊り出てくるオルタナティヴな音の数々が野生的に飛び跳ね、一体となったときの重量感に溢れた圧迫の迫力に打ちのめされる。メロディを聴くというよりは音そのものが吐き出す声を聴く作品だと思えるが、歌が入った楽曲のメロディは抑制の美を静かに聴き手に与え、トリップ寸前の昏睡の色が濃くもある。いや、それは全曲に言えることだ。抑制された美的サウンドを解放すれば、音は力みなぎり、エコーを聴かせた音も、コーラスも、エレクトロニック・サウンドも生楽器も、水を得た魚というやつくらいに活き活きと音響空間を泳ぎ回る。すなわち公式からの解放。アルバム・タイトルにあるように数学破壊的。それらを生意気なほどチャーミングに、しなやかにやってしまう。
 
 破壊、構築、解放によって成り立つ本作は、それまで漠然と信じていた音楽というものが通用せず、そしてバッファロー・ドーターにとって本作は、この音楽性には強く、この音楽性には弱く、あるものに対してどれだけの耐久性があり、ある方向へどれだけ傾くかというような、種々の細かい特質が明らかになったのではないだろうか。ギャング・オブ・フォーを思わせるギター・サウンドに関しては絶対的な強度を持ち、ヒップホップに関してはアメリカ黒人的でなくとも、バッファロー・ドーターなりの尺度のものが構築できるのだと。そしてそれは、新たなオルタナティヴの方向へ傾くのだと。そうして分かるのは、もう決してこのバンドはどんな空虚にも安息にも耐えられないということだ。もう後戻りはできない。そもそもメンバーは後戻りする気などないのかもしれない。空虚に浸ることのナルシシズムなんてものも、さらさら興味がないかもしれない。それは過去の作品を聴けば明らかなのだ。
 
 オルタナティヴであることとは、本来の正当な秩序から外れ、別の方向の高みへ昇ることなのではないかと、本作を聴いていると思えてくる。いや、もはや「本来の正当な秩序」というものがなくなった今、逆説的にバッファロー・ドーターがオルタナティヴのレファンスに成りうる傑作が本作なのではないか。そう思えるほどに最高なのだ。さりげなく、しかし激しく胸に火をつける。ほんとうに、素晴らしい。ただ聴いているだけじゃ物足りない。もっと音が欲しくなる。ライヴを観なきゃと思う。観なきゃいけないんだと思わされる。チケットを買いに自転車のペダルを深く踏んだ。

(田中喬史)

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