ミルキーミー『トゥ・オール・ザ・レディース・イン・ザ・プレイス・ウィズ・スタイル・アンド・グレイス』(T-Addiction / Flakes Sounds)

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milkymee.jpg 制約に束縛されることは、時と場合によっては快楽である。ジェフ・ベック、ウェス・モンゴメリーなど挙げればきりがないのだが、彼らは「ギターという楽器の束縛」の中で自分は一体なにが、どこまで出来るのか、というギターによる表現力をぎりぎりまで追求し、挑戦した。その追求した結果がテクニックであることも時としてあった。そしてテクニックの向上とは、楽器という束縛の中でもがき苦しむことと同時に、人間が持つ「挑戦する・したい」という欲求・快楽から生まれた。人間の欲求に際限は無いのだから、これからも、使われる楽器の束縛の中で人間の挑戦は続いていくのだろう。
 
 だが、もともと、なぜ楽器が生まれたのかというと、人間の頭の中で鳴っている音を実際に鳴らすためであった。「鳴らしたい音を鳴らす為に作られた楽器」が、今では「楽器でどんな音が鳴らせるのか」というふうに、逆になってしまっているわけである。それ自体は悪いことではないが、超絶的なテクニックを誇るアーティストを聴くたびに、楽器の誕生の意味をあらためて考えさせられる。
 
 スウェーデンを拠点に活動し、現在は日本在住のフランスの女性シンガーソングライター、ミルキーミーのセカンド・アルバムは見事なまでにギターという楽器の束縛をかわしている。ファースト・アルバムも同様で、楽器が誕生した意味の根源を提示する。
 
 アフロ・アメリカン音楽の要素と技巧を取り除いたアーニー・ディフランコと例えるのは安易だが、ミルキーミーが奏でるアコースティック・ギターの音色は実にシンプルで、ぱっと頭に浮かんだものをためらわず音にしている潔さがあるから演奏に嘘がない。大げさな様も微塵もない。これぞ演奏者の楽器との一体化と言いたくなる。彼女にとってギターとは純粋に頭の中で鳴っている音を具現化するものなのだ。そして最も聴き手の感情に響いてくる歌声が素晴らしい。繊細でいて大胆。哀感も楽しみの心地も含むその歌声は、そっと背中を撫でてくれるかのように響く。かと思えばパティ・スミスみたいな歌声も発するから良い。中にはPJハーヴェイ? なんて思う楽曲も含まれている。しかしそのどれもがやさしいのだ。自分の音楽スタイルを彼女自身が「雪とミルク」と表するように、雪のようにひんやりとしているが、部屋でホット・ミルクを飲んでいるような、ゆったりとした時間が再生すると溢れ出す。まるで時計の針の音のように生活に溶け込んでしまう音楽だ。
 
 本作をファースト・アルバムと比べてみるに、最も異なる点は使われている楽器の種類の多さと、様々な音楽要素を足しているところだろう。トランペットやヴィブラホンなどが使われているが、それもまた、楽器による束縛とは無関係に、ひょうひょうと鳴らされる。エレクトリック・ギターの音色だってとてもシンプル。だからこそ、どのような楽曲であれ歌声を邪魔せず嫌味にならない。然るにボサノヴァのようなジャケットそのままボサノヴァっぽい土臭さも感じさせる。上品なのではなく華がある。なにより彼女はあくまでもテクニックの限界に挑むのではなくギターをひとつのツールとしてしか見立てていない。それゆえ逆説的に限界が存在しない。挑戦を意識していないところに無垢がある。

(田中喬史)

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