レディオヘッド・シンドロームはどこまでつづくのか?

クッキーシーン創刊からしばらくたった00年代初頭、ぼくは強くそう感じていた。実際(誌面などで)口に出してもいた。だからこそ、ザ・ストロークスやザ・リバティーンズ、そしていわゆるポスト・パンク・リヴァイヴァルに夢中になっていた部分が、たしかにある(最後のヤツに関しては、もともと自分が「ポスト・パンク」世代だった、ということのほうが大きいけれど:笑)。

編集人であるぼくのそんな志向がはからずも(いや、はかっていたのか?:笑)反映され、クッキーシーンは97年の創刊以来一度もレディオヘッドのインタヴューを掲載してこなかった。なんとなく、彼らを揶揄したような対談記事は載せたような気がするけど...。

ただ、アジアン・カンフー・ジェネレーションのインタヴューで述べたとおり、レディオヘッドは客観的に見て尊敬すべきバンドだとずっと思っている。そこでは(『キッドA』の印象にひきずられたこともあって)ピンク・フロイドを引きあいに出したけれど、ほかにもたとえばU2(ピンク・フロイドともども、個人的に「好き」と言える)あたりと比肩すべきバンドとして...。そして「まだ、誰もあまり正面切って表明したことのないような切り口」で彼らを位置づけられるのであれば、インタヴューでも評論でも、レディオヘッドに関する記事を掲載するものやぶさかではないと思いつづけてきた。

今回は、それをおとどけしよう。かつて「レディオヘッド・シンドローム」と呼ばれていたものにどっぷりつかっていた世代である松浦氏ゆえのリアリティ(少し上の世代であるぼくがそう感じていただけで、その「タグ...レッテル」は決して的確なものではなかった、こと日本においては彼らも「ひきがね」にすぎなかったのだ! という発見もあった!)に舌を巻いた。

「Always Pop And Alternativeなどというセリフを(なんとなく)標榜するクッキーシーンが、この原稿を掲載する(ちなみに、コントリビューター小熊氏が先日ツイッターで、Always Nerd And Alternativeと叫んでいたが、それも言えてる!:笑)のは、ある種の自省?」と感じられるかもしれない部分もあって、さらに刺激的。だけど、決してそんなことはないよ、ぼくらは...ってなことは、またいつか機会があったら語ろう。このコーナーの名前は、The Kink Controversey(よじれた議論)。お便りもお待ちしております!

前置きが長くなってしまった(汗)。では本編を、どうぞ!

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「僕らは待っているアクシデントしかない」、と「There There」で「彼等」は歌った。何を待っているのかが明確に表象されないまま、「there(ほら、そこで)」という言葉を暗喩に使って。

 今の御時世を反映してか、所謂、反グローバリズム、反ブランドを標榜する動きが彼方此方で起きてきてはいるが、個人的に物心付いた時からアメリカニズムに骨の髄まで侵食され、その単純な揺り戻しとして、生真面目に大学時代に(例えば)小林よしのり的「右」に嵌ったりもした、よくあるサンプル・ケースとしての自分は兎に角、物事を単純化、図式化する方式にひどい嫌悪感を持っている。

 それは、此れまでの自分がまさに、その悪しき一例だったことも影響しているのだが、「正/負」、「加害者/被害者」、「善/悪」なんて二元論に振り切る前に、そのグレイ・ゾーンで耐えるべく知的体力を鍛え、自己誠実としてのリベラリズムを保つ事こそが、一番タフな所作じゃないのか、と最近、とみに思うところがあるからだ。寧ろ、世の中って黒白ってハッキリすることの方が有り得ないよう気がする。90年代は社会学の時代だったそうだが、00年代は政治学、とか何だか違和があるし、10年代は経済学、なんて笑い話だろう。

 生真面目にデモや運動のようなものにもちょっとばかり参加してみた事もあるし、第三世界の飢餓、貧困、そして、それに関連する形での先進国や多国籍企業のスポイル構造についても十二分に考えるところは当然にあるし、アドルノを読んでポップミュージックのスノビズムについても考えてもいたり、エリーティズムの競争に乗る気は最初からないものの、どうもこの頃はフェスやライヴに行っても首を傾げることが増えた。その音楽(歌手)が好きなのか、その音楽を好きな自分のセンスを底上げしたいのか、よく分からないときがあるから、というのと、「権力側のガス抜き装置」としての意味しか発現しないときが多いからだ。

 そんな事を考えながら、清濁併せ呑んだ上で、個人主義的磁場(半径10メートルの世界)を死守しようと我に返る時もあるし、衣食住のベースを大事に出来れば越したことはないな、とも思う。ただ、でも、色んな文献を読んだり、実際に海外に足を運んだり様々な人に会ったりすることによって、問題は思う以上に困難で、複雑に絡み合っている事に気付く。具体的に、例えば、中国などに行くと思うのが、スターバックスは勿論、マクドナルド、ケンタッキー、そして日本の吉野家といった店舗が着実に創設されてきていて、それはある種「進歩」の象徴でもあり、また経済的繁栄をシンボライズするものであるように、繁盛していて、何の疑問も持つことなく、洒脱で満たされた顔の人達(いわゆる、最大公約数的な人達)がそれらに集まっている。それをして、無邪気に僕は受容できず、複雑な感情にもなる。「グローバリゼーション」とは進歩社会の象徴なのかもしれないし、googleやyahoo!やユビキタス、WEB2.0でどんな世界も平準的に繋がってしまう中で、昔読んだラザースフェルトのオピニオンの二段階流れ説などより実証されていっているような気もするし、「その先」などは考えるだけ野暮かもしれないし、「レッセ・フェールの成れの果て」が今の世界だとすると仕方無い気もする、という諦念が覆っている磁場も分からないでもない。

 また、「アンチ・」テーゼを唱えることそのものが「テーゼそのもの」を強化してしまう、というアイロニカルかつどうしようもない構造は分かるからして、黙殺を決め込むように、でも、どうにも煮え切らない気持ちで、それらの「画一的で幸せなイメージ操作の罠(Fitter,Happier)」、その背景に潜む恐ろしさに震撼しながらも、確たる言葉も持たず、グローバリゼーションの未来へ向けての進展絵図とその裏腹としての崩壊されてゆく価値基盤について考えていたりすると、「同じである必要はないからこそ、差異と強調をどう見極めるか」、という思考態度を自然と取りたくなる。

 ナオミ・クラインやエリック・シュローサー、ノーム・チョムスキー、エドワード・サイードなど一連の著者の本、ネグリ、ハートとか読んだりしながら、今自分が置かれている状況、立場などを再インストールしてみて、世界を見渡してみれば、そこにはただ、利害関係と凄まじいまでの搾取と一部強権者達が牛耳る構造が広がっていること、そして、それらがひどくシリアスで複雑な形で絡み合っている事実を痛感させられ、脆弱な一個人としての自分は、どのようなオピニオン、アティチュ―ドを持てるのか、つくづく考え込んでしまう。そんな政治的、社会的側面で煮詰まった時、僕はレディオヘッドを聴くことが多かった。『キッドA』が醸す高度テクノロジー化における人間性の消失、『OKコンピューター』の持つ機械化と移動社会での実存の蒸発、は特に心に染み入る。でも、だから、何が「解決」するのか、問題だけが投げっ放しのまま、宙空を浮く。

 個人的にだが正直な話をすると、レディオヘッドは一応のところ「役割」的なものはもう終えたと思っている。そもそも、役割期待が過剰なバンドだっただけに、『イン・レインボウズ』からATOMS FOR PEACEや他のメンバーの動きがある中において、もうフラットに視ればいいのではないだろうか、という気もするし、「神棚」に祀っている余裕よりも他を吸い上げた方が良いような感じがするのだ。もはや、トム・ヨークに過剰な期待もエッジを求めるのもお門違いだと思うし、彼もそういった期待を避わすような緩やかなヴァイヴを放つようになってきたのは周知だろう。そもそも、『イン・レインボウズ』には「エッジ」というよりこの不穏な時代の通奏低音を宥めすかすようなヴァイヴがあって、寧ろこれまでの彼等にあった意図的な無機的な印象は薄くソウルフルでハートフルな冷ややかさがあったのには気付いていた人も多いと察するだけに。

 確かに、彼等のこれまで与えたサウンドスタイルや歌詞内容そのものは如何にも、風刺的とも言えるし、影響力も大きかったし、現在進行形でも評価をすべきだろうが、今、一バンドとしての円熟とも言える緩やかなスロウ・ダウンが見られる中、今まで通りの言論は有効なのか、疑念が残る。

『OKコンピューター』パートⅡでなければ何でも良かった、『キッドA』、『アムニージアック』といった、超メジャー・ロック・バンドとしては異端以外の何物でもない、二作品をシーンにドロップし、莫大な賛否両論を巻き起こした後、「その先」なんていうのは、実際「無かった」のだろうし、『へイル・トゥ・ザ・シーフ』はiPod時代の到来を先取りするようなヴァラエティ・アルバムを政治的マニフェストでアイロニカルにコーティングしたようなものだった。『イン・レインボウズ』は、純粋にポップ・アルバムとしては高精度だと思うが、そこに多大な意味付けや熱量を見出す必要は全く無い、と個人的に感応して、その印象は今も変わらない。

 "或る"集団的無意識を束ねるようなサウンドスケイプを創造し、ロック・ミュージックの一理想形として、時代の反射鏡で在ると共に、一挙手一投足がシーンに凄まじい影響を与えてきたバンドとして、また、イコンとしてトム・ヨークが一時期から、ファンや評論家、そして、時代そのものの「雰囲気」を察知するように、深刻の度合いを深めていったのは周知のことで、イギリスのミドル・クラス特有の政治意識や原罪意識の強さがここまでグローバルで抽象的な拡がりを持つとはデビュー当時からすると想像もしなかった(同じミドルという意味で言えば、コールドプレイのクリス・マーティンあたりと比較すると面白い)。

「オルタナティヴで在りさえすればいい」

 そんな90年代以降の捻くれた時勢の中をあくまでレディオヘッドはメインストリームに身を置きながら、00年代での「内破」を試みるようにして、サヴァイヴしてきて、毀誉褒貶も受けてきたが、その姿に多くのファンは感銘を受けてきたし、同業者のミュージシャンそのものからも大きなリスペクトを得てきた。そして、数多のフォロワーらしきものを量産しながらも、その唯一無比な存在感を受け継ぐことの出来るようなバンドやアーティストは結局のところ、現れていないとも言える。

 レディオヘッドほど真摯で政治的で批評的で、またジェントリ―で暴力的で知的で、と言った優秀なロックの要件を揃えたバンドは居ないだろうし、優しい暗さを持った佇まいはレアだと思う。加え、エレクトロニカとの共振など含め、良くも悪くも頑迷なロック・リスナーの「耳」を拡張してきた功績ももっと称えられるべきだろうし(実際、レディオヘッド経由でオウテカやエイフェックス・ツイン、そして、マシュー・ハーバートあたりを聴いた人も多い)、まだ彼等はきっと「続いて」いく。

 但し、既にバトンは「渡されている」ようにも思えるからして、そのバトンは今、何処辺りを漂流しているのだろうか。僕はその漂流先を識りたい。

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