イエス・ジャイアンティス『サイレン』(Neon Gold / KSR)

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yes_giantess.jpg 30年周期で巡ってくるタームというのはあるのだろうか、思えば、90年代には60年代のロウな音をディグするのがクールな要素因はあったし、00年代は70年代のラフさを好む傾向にあった。前者はベックにしろ、コーネリアスにしろ、サウンド・レファレンスの引き出しを多く持つ人間こそが、ブルーズやフォークへの目配せをしたのもあり、ポップ・システムのサイクルが構築されてから以後のスタイルや音には殆ど興味を向けなくなったというのもある。それを対象化する形で、後者側においてザ・ストロークスやザ・リバティーズは≪反≫ではなく、≪非≫を望んだら、ニューヨークの「なにもなさ」にサウンドがドロップインして、グラウンド・ゼロの荒野を鑑みた。見渡した時に、アート・ロック的なファクトリー的な無為なステーションが浮かび上がることになった。まるで、いつかのデヴィッド・ボウイのように。

 事実、ボウイの70年代で近年、最も再評価されたアルバムはベルリン三部作の『ロウ』だったりもするから不思議なもので、00年代後半から犇めくニューエキセントリックやブルックリン勢がまだまだ漸進的に80年代の「手前」で停まっていたと想えば、10年代に入ってのザ・ヴァンパイア・ウィークエンド、MGMT、イェーセイヤー(YEASAYER)、フォールズなどは見事に「80年代」的だった。サウンド・レイヤーの薄さは、今のソリッドなリスナーには目新しく響き渡ることになり、スクリッティ・ポリッティ、ソフト・セル的なハネは野暮ったくなくなり、ポリシックスは日本武道館を埋める代わりに、ニューウェーヴという言葉を使うにはリスキーな響きも存分に孕むようになった。

 反面、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手だったゴダールは新作をカンヌで発表しながら、「新しい波」という概念はどちらかというと、「Sleepyhead(眠れる頭)」のままで、「This Momentry(この刹那)」として回収されるようなナーディズムが輪郭線を結んだのは皮肉だが、周知の通りだろう。

 その輪郭線は今年一旦は、ボストンからの四人組のバンドYES GIANTESSの無邪気なポップネスに切り取られることになる。00年代の瀬戸際で現れた「逃走という闘争」を演じる青きシンセ・バンドのパッション・ピットのアダムの他に、エコー・アンド・ザ・バニーメンなどを手掛けたリアム・ホウ、ケイティ・ペリーのシンセ・ポップの軸を支えたスタースミスがプロデュースで参加したこともあってか、ビッグ・アレンジが揃った煌びやかさを、マイケル・ジャクソン亡き地平に、80年代の何処までも世界が繋がれた感覚をビートに乗せて、リプレゼントする。アーバン・ソウル、R&Bのリズムが軽快に撥ねながら、オプティミスティックなムードで麗しき「you」への愛、希求を綴る。

 シビアな見方をすれば、これが如何様にオンになる10年代の最初というのは僕自身は相当にキツいものを求められていると思うのだが、逆に解釈すると、ポップ・ミュージックにロマンティシズムを求めないでいる厄介な人種はまだまだ死滅しない、し得ないという証左でもあるというのは頼もしい。09年の「Tuff 'n Stuff」のシングルの時点で、大々的で古めかしいバンドの音だな、とまさか現在進行形の彼等のものとは思わなかったが、この度のファースト・フルの『SIREN』にて全体像を見渡すと、見事なまでに、80年代のマイケル、プリンス、ワム!、ニューオーダー、ペット・ショップ・ボーイズなどのバウンシーなユーフォリアが展開されていて、隙がないが、ストロークは広い。

 ユースはこれを「新しい」と言うのか、「ロマンティックで、最高だ(レトロフューチャーだ)」と言うのか、僕には分りかねる部分が多大にあるし、アレンジメントの80年代センスと比して、メロディーの冴えが気になる甘さもあるが故に、どうにもパースペクティヴの中でクラウドが手を上げている絵が明快に想起しにくいのは否めない。

 無邪気の裏には、権謀術数が張り巡らされているのは当たり前としても、彼等のこのメタな無邪気さはベタな周回遅れを意図しないだろうか。ホメオスタシスがどう機能するのか、アルバムの矛先に広がる景色を考えている間に、40分程の時間は蒸発する。そういう意味では成功作で、僕も「してやられた」のかもしれないが、どうだろう。

(松浦達)

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