フジファブリック『Music』(Sony Music)

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fujifabric.jpg ベンヤミンの複製技術に対する「哲学」は幸福の確約であると共に不幸の源泉である、と「否定弁証法」でアドルノは指摘した。つまり、文明の記録で同時に野蛮の記録でないものはないという中で、「救済」とは何なのか。現在に組み込まれた過去の人間の「苦悩の叫び」つまり「希望の声」を一瞬のうちに聴き取ることの可能性に賭けようとしたベンヤミンにはいささか商品至上社会への幻想に耽りながらも、瞬間的にそこからの覚醒を経験しようとする問題意識で今まで通りに進むこと自体が破局だというイロニーを含む。

 死ねば伝説、狂えばカリスマ、生きればただの人、なんて事は「ロック」という分野に付き纏う暗黙の呪詛のようで、オーディエンスやジャーナリズムは実質的な「音楽の死」を求めるのではなく、「音楽を形成する磁場の死」を積極的に希求して、過ぎたものへ「今の言葉」で加筆修整してゆく。としたならば、作品は「作品論」として語られず、作者論としてすり替えられてしまう危惧があるということならば、額面そのままの記号に脊髄反射出来ないクリティークとは何の意味があるのだろうか。

 初期の四季三部作、セカンドの『FAB FOX』以降、の彼等には僕自身は退行の気配しか感じ得なかったし、初期の情景描写の巧みさと片寄氏と組んだサウンド・ワークからすると、作品毎に「荒く」なっていく歌詞やアレンジメントをして、正当に評価するのが難しく、またイベントで観る度に選曲が「TAIFU」や「銀河」といった単純に揚がるものに固定されてしまっていたり、ワンマン・ライヴでもファンとの密室的な共犯性の中でふと放たれる「地平線を越えて」などのサイケデリアには魅せられる部分があったが、どうにも全体として彼等を捉えようとすると、J-の冠詞から懸命に逃げようとして、独特のエアポケットに陥落している気がしてならなかった。

 しかし、テレヴィジョンなどポスト・パンク的なものから60年代から70年代の大文字のロックやナンバーガールやくるりといったものに影響を受けているのは分かるが、どうにもその嚥下の仕方が捻じれていて、未消化な部分もあったものの、ボーカルの志村氏の奥田民生氏への敬愛含め、何よりユニコーン的な「真面目にふざけている」風情があると想えた近年で珍しい新進のバンドだっただけに、例えば、志村氏が影響を受けていたブラジル音楽やオルタナ・ミュージックを真っ当にアウトプットしても良かった気がしていた。

 セカンド以降の「サーファーキング」、ホーンを入れての「パッション・フルーツ」という茶化し系のシングルを踏まえてのストレートな「若者のすべて」は「よい曲」だったが、今更、ミスチルの桜井氏が歌ったり、藤井フミヤ氏が取り上げる意味はよく分からない、ベタな「ストレートさ」だと思う。あれは、青春期を振り返った故の青さが滲み出ている分、例えば、「赤黄色の金木犀」や「Birthday」にあったメタなリリシズムとは距離があった。

 サードでの『TEENAGER』という在り方も僕自身としては、彼等は「成熟」から始まって、よりラフになっていこうとしているとさえ感じた。そういった自家中毒状態に自覚的だったのか、彼等はストックホルムでの海外レコーディングを敢行する。そして、そこで出来あがったアルバムはどうもドラムのアタック感とデッドな音質と志村氏の「一人称の懊悩」が組み合わさった歪な様相になった。ただ、シングルとしての「Suger!!」のエレ・ポップの高揚感はタイアップ効果もあり、新たな代表曲になった。

 そんな折、昨年末にボーカルの志村氏の急逝の報が入って、フジファブリックというバンドを巡る状況が一変する。それは良くも悪くも「過剰」になった。彼等が出る予定だった昨年末の大阪のイベントでは、楽器が置かれ、ライヴ映像が流れるという処置が取られ、僕はその場所に行かなかったが、かなりの人が流れていっていた。また、くるりの岸田氏や奥田民生氏や気志團といった面々が彼(志村氏)の追悼を行なうように、曲を奏で、今年はベスト・アルバム、レア・トラック集、更には過去に志村氏が残していたトラックにメンバーが付加したニューアルバムが出ることになり、彼等主催の富士急でのイベントも錚錚たるメンツが集まった。死者を悪く言うつもりは僕は全くなく、フジファブリックというバンドはどんどん今後面白くなってゆく「兆し」は常に感じていただけに、残念な部分はあったのは事実だというのは明言しておく。

 但し、シビアに分析するに、五枚目のアルバムとしての『MUSIC』は僕はジェフ・バックリィーの『素描』のようなムードさえ感じさえしまった。「ロスト・アルバム」という気がしない、スケッチ集としては秀逸だし、残ったメンバーの懸命な気概が執念的に焼きつけられているのも感じるし、よくここまで様々なアレンジメントの幅を広げ、アイリッシュ・トラッド的なものから、シンプルなロックンロール、大胆な打ちこみ、ピアノ・バラッド、サイケデリックまでを消化したと思うし、正直、これまでのアルバムの中でも多種多様な曲が揃っているのは確かな力作だと思う。

 亡くなった志村氏の意志はもう慮ることは出来ないが、彼の遺したものに対しての誠実なオマージュと愛が捧げられているのも十二分に感得出来る。ただ、僕からすると、この作品を「正当」に評価する意味がよく分からない。ここから入るリスナーも居るだろうし、過去のファンもこれを聴くだろう。でも、ここには「終わり」がある訳でもなく、「始まり」さえもなく、作品としての傷痕が膿んでいるだけの物悲しさが浮いている郵便性がある。生き、あるいは死の中に「遺棄」する権力のもとで、もっとも剥奪された状態たる「単なる生」。しかし、それはまた、かならず非知の要素を含む、充溢する生の様態を名指すものでもあるとしたならば、その両義性を手放すことなくそこに立脚するとき、新しい何かが始まるパルスは僕は感じなかったのは寂しさもおぼえたが、よりダイレクトな彼等の想いがぶつけられたこのアルバムの生真面目さは「何か」を射抜くのかもしれない。心とか感受性とか不確定なものではなく。

(松浦達)

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