M.I.A.『マヤ』(N.E.E.T. / XL / Interscope / Hostess)

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mia.jpg 新技術が登場すると世界の見え方が変わるのだろうか。メディアはメッセージで本当に成り得たのか、シャノン=ウィーバー・モデルを敷いて、所謂マクルーハン的な「メッセージ」の通俗的な解釈をしてみるに、メッセージには、既にある意味「運用」するだけではなく、新たに意味を創出する機能があり、メッセージは「線的」なものではないと言える。
少なからず「メディアはメッセージ」と考えると、宛先不明のメッセージが定式化できないという「分の悪さ」があり、ここには批判もなされてきたが、「受信者の状態変化」の在り方を
 
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 このように式化した際に、見えてくるのはメディアが変える「受信者」はおそらく「個」の集合体=社会であって、社会がメッセージを「受信」して変化せしめるということだ。もはや、今は「個」がメッセージをメディアにバイアスをかけることが出来る時代だからして、4月26日に彼女の「Born Free」のPVが突然、ドロップされたときに、コントロール制御出来ない世界の反応のカオスはマクルーハンが言う所の電子メディアは集団形式であり、文字文化以降の人間が利用する電子メディアは世界を収縮させることで、一つのムラを形成させる。そこには、あらゆることがあらゆる人に同時に起こる場所であり、あらゆることは起こった瞬間にそれを知り、参加することになるという文脈で言えば、LAの民兵グループが子供たちを集め、砂漠においてなぶり殺すという光景の一視聴者/参加者になることは造作もないことだった。僕個人としては、「Born Free」には意味はあったが、メッセージが無かった為に、有機的に機能しなかったのだろうと思うし、今更ながら肥大していたM.I.A.のイメージ戦略としても決して功を奏していたとは思えなかった。

 簡単に振り返ってみるに、M.I.A.とは「反逆者」とイメージに囚われ続けてきたきらいがある。マヤ・アルプラガサムの故郷のスリランカの内戦におけるシンハラ人とタミル人との衝突。タミルの血を引く彼女は父親が活動に身を投じる中で政府から追われ、また闘争の中で大勢の友人や親戚を亡くし、自らも転々と地を移り、11歳の頃、スリランカを出て、ロンドン南部の低所得者用公営住宅に住み、そこで、ヒップホップやダンスホールを学び、そこからアートスクールへ行き...と、バイオグラフィーには彼女の過酷な遍歴が詰め込まれている。多くの人もよく知っていることだろう。

 ただ、その来し方も勿論、大事なのだが、00年代の半ばのロンドンのクラブに行った事がある人なら周知だろうが、その時はダンスホール、レゲエ、グライム、バイレ・ファンキが重なり合うように流れており、それはグラウンド・ゼロの世界の中で新しい敵が仮想ではなく、明確に浮かびあがってきた狼煙かもしれなかったと言えた。対象はアメリカの新保守主義だったかもしれないし、グローバリゼーションという名の怪物だったかもしれないし、既にプレ状態でおかしくなりかけていた金融経済システムだったかもしれない。そのフロアーでM.I.A.は「地球市民」といった言葉を用いながら、いささか手荒い言葉を吐き、ファットなビート、それに反した凛としたルックスが合わさって、急速的に、「イコン」化していった。

 しかし、今の耳で05年の『ARULAR』を聴くと、如何せん雑だ。それは「猥雑」でもあるということなのだが、想ったより「こじんまり」としているという印象さえ受けた。ディプロ(Diplo)の「Bucky Done Gun」のイメージが強かっただけにケイヴメン辺りのものは少しソフィスティケイティッドされ過ぎている。ポップ・カルチャーの中で反戦を、平和を唱えることの意味はジョン・レノンの時代から延々と続けられている議題でもあり、宿命だが、彼女の場合は少しファスト過ぎた。

 このファーストから、PCを抱え、全世界を彷徨し、インドでは30人程のドラム奏者を集め、「Birdflu」を作り上げ、発表し、とスキゾに「行きあたりばったり」の中での砂金を探すようなレコーディングを続け、比例して、音楽シーンの中で彼女の存在はどんどん大きくなっていき、カバーを飾る事も増え、例えば、いつぞやのビョークの『Volta』、「チベット発言」的ヒップさよりも彼女のネクスト・アクションを待つ層が今回の新譜をどうジャッジするのか、僕には興味があった。07年の『Kala』の評価軸はある意味、ブレが無く、ファーストのローファイさを好んでいた人たちからはポップに鮮やかになった、とか、商業主義的な気配がより先立つようになった、とか、ボルチモア・ブレイクス、バイレ・ファンキといったゲットーミュージックの咀嚼の仕方が鮮やかになった、とか、ブレは無いからこそ、世界的な評価を得た。加え、このアルバムで名だたるプロデューサーを招聘し、グウェン・ステファニーとUSツアーを行ない、ティンバランド、ミッシー・エリオットと共演を行なうなどもあり、「セレブ」的な目配せを強烈に持つようにもなってきたからこそ、彼女の存在価値は「闘争」にあるのではなく、「逃走に近い何か」とアイロニカルに捉える事も出来た。

 さて、最新作『MAYA』に関しては僕は残念ながら、今までのように彼女に対する何らかの魅力を感得出来なくなった内容になった。ここにはダブ・ステップ以降の低音がきいた重さが通底しており、いつものスウィッチもディプロなども参加しており、エスニックなワールド・ミュージックが「展開」されているのだが、そこには強度がなく、いささか表層的だ。ラガ・マフィン、ディスコ、R&Bの消化の仕方も正直、僕には巧く手綱を握れているようなクオリティとは思えない。全体的にとっ散らかった印象なのはこれまで通りなのだが、どうにも、「整然と構築されたカオティックな渦」があり、その渦の目に立って、彼女自身が茫漠と虚空を眺めているかのような雰囲気さえある。何だか、エネルギーには充ち満ちているが、方向性が見えない寂しさがここにはあり、その寂しさはマクルーハンを使って説明できるかもしれない。

 ムラの条件が整えば整うほど、断絶や分裂、相違点が増す。地球ムラではあらゆる点において最大限の不調を確実にもたらす。統一感や安定感が地球ムラの特性では決してない。悪意やエンヴィーが増え、人たちの間から空間と時間が抜き取られてしまうとき、深いところで出会う世界は部族的でどんなナショナリズムよりも分裂的である。ムラの本質とは分裂(fission)であって、融合(fusion)ではない。とすると、彼女が掲げた理想や反抗は引き裂かれたまま、宙空に浮いてしまったのだろうか。

(松浦達)

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