アクセル・クリヒエール『ペゼブレ』(Los Anos Luz Discos / Beans)

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axel_ krygier.jpg アルゼンチン音響派としての日本でのブレイクはやはり、01年のフアナ・モリーナの『Segundo』になるだろう。大文字の「タンゴ」のイメージしかまだなかった国に流麗でスマートなエレクトロニカを鳴らすアーティストが次々現れている、ということで、ワールド・ミュージック・コーナーには山本精一氏やバッファロードーター辺りのアーティストの後押しと共にフェルナンド・カブサッキ、ガビー・ケルベル、モノ・フォンタナなどが犇めいていた。

 所謂、IDM的な流れが00年代に配信ツールの台頭と共に生成されてゆく磁場とそれはリンクしていたのかもしれないし、アルゼンチンという移民の国で生活してきたアーティストたちのレファレンスする音楽がクラシック、プログレ、ポスト・ロックというのも功を奏したのかもしれない。イタリア系、スペイン系を始めにして、ヨーロッパ系の移民が多くを占め、白人が人口の90%以上いるというのも大きいのだろう。そして、そこから自然と日本のとの親和性が生まれ、フアナ・モリーナはすっかり人気のアーティストになり、ROVOのメンバーとフェルナンド・カブサッキなどたちとのセッションが行なわれるなど、と「クール」な音楽の胎動があった。何より、南米タンゴやフォルクローレなどのトラディショナルな響きが後景化されており、そこが電子音と混ざって得も言われぬ郷愁(サウダージ)を醸し出すというのが日本のリスナーの体質にも合っていたのかもしれない。

 06年には、音楽評論家の土佐有明氏の編集の下に『トロピカリズモ・アルヘンティーノ(Tropicalismo Argentino)』という編集盤が出され、その推薦を青柳拓次氏、クラムボンのミト氏が寄せるといった具合に着実にその音楽は伝播していった。しかし、どうにも狭い中でのアーティストの青田刈りの様相も伺えるようになり、90年代初頭のワールド・ミュージックのブームの際の「兎に角、飛距離のあるものを紹介出来ればいい」という投げ槍さも出てきたのは否めなかったが、その中で、一足先にマドリードのHI-TOPより紹介されたアクセル・クリヒエールのアヴァンギャルドさは痛快だった。

 初日本盤化された05年のサード・アルバム『つぐみ(Zorzal)』の段階で、既にストレンジ・ポップにラウンジから伝承音楽までを跨ぐストロークの広さを見せたが、どうにもまだそこまでのバズは起きなかったが、今回、4年振りとなる新しいアルバムである『Pesebre』では才気が愈よ爆発している。ギター、ベース、アコーディオン、シンセ、クラリネット、ムーグ、ピアノなど数多の楽器を駆使しながら、ダブからエンニオ・モリコーネ的なラウンジ風の曲からタラフ・ドゥー・ハイドゥークスやファンファーレ・チォカリーア辺りのジプシー・ブラス的な曲、ふと挟み込まれる美しいポップ・ソングなど音楽的語彙の多さとその咀嚼する強靭な感性には唸らされる。そもそも、彼はルイス・ブニュエル、ジャン・コクトー、フランク・ザッパ、トーキング・ヘッズ、ボリス・ヴィアン、セルジュ・ゲンスブール、エルメート・パスコアールから坂本龍一、コーネリアスまでの影響を公言しているからして、こういったハイブリッドな内容になるのは自明の理だが、それにしても、原要素をデ・コンストラクトの所作が鮮やかで、今隆盛のデジタル・クンビアへの目配せもされており、グローバル・スタンダードのストレンジ・ポップが展開されている。もしかしたら、このまとまりのなさに気が散るかもしれないが、このまとまりのなさこそ、統一的な概念があるわけで、それは「余白(marge)」は「辺境(marche)」と同じ語であるということにも依拠する。ニーチェの「ハンマーを持って哲学する」という言葉を孫引くまでもなく、音楽とは「その鼓膜を破裂させるほどに鳴り響かせること」というメタファーも使ってもいいかもしれない。無論、その「鼓膜」は現代音楽の行き詰まり、閉塞の例示になる訳だが。

 要するに、これまで依存してきた音楽の文体をもう一度バラバラにして、もう一度新しく再構成しなければ、「出口」を探すことさえ、どうにもならないとしたら、アクセル・クリヒエールは「出口」などもはや信用していない「余白(marge)」を生きている。それは頼もしい。

(松浦達)

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