工藤鴎芽「I Don't Belong Anywhere」EP(Self-Release)

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 キャロル・キングの『つづれおり』のような「健全」なモノローグと寂寥を聴いた後に、ふと聴きたくなるローラ・ニーロとか、ハイファイでアタック感の強い音塊に囲まれている耳に流し込むようなフアナ・モリーナとか、真夜中の酒によく合うジョニ・ミッチェル、「蘇州夜曲」をジャジーに歌い上げるアン・サリー、憂鬱な時の混沌とした頭に染入るシャルロット・ゲンスブールに近い形で、彼女のミニアルバム『I Don't Belong Anywhere』を聴いている。

 今は、工藤鴎芽としてのソロでの活動を行なっているものの、MySpaceで、SEAGULL名義でやっていた彼女のことを見つけたのはほんの数ヶ月前のことだったと思う。「Kiss And Kill」という映像でギターを弾きながら、「何処にも居場所なんか無い」という事を体現するように、歌う姿に心打たれた。そこには悲痛と言えるよりは、まだ拙さの方が先立っていたが、それでも余りある強烈な世界への違和感が溢れていた。カート・コバーンは「ジェネレーションX」の中で名前を無くしたとしたならば、彼女はロスト・ジェネレーションの中で「世代」を喪っているかのように。
 
 現在、退歩として縁取られた懐古主義的なロックやキッドナップ的な名前だけのオルタナティヴが溢れつつ、バック・カタログを漁れども彷徨してしまうのがオチで、自分の歩幅を合わせて聴くことが出来る音楽や、所謂詰まるところの「尖った音楽」が少なくなっていくばかりの趨勢で、音楽的感性をベースにした同期性から「降りる/降りない自由」は勝手にしても、年齢を重ねれば重ねるほどに聴く音楽は、その実広がっていくようで完全に狭まっていくのは仕方ないことなのかもしれない。要は、経験則、知識から自分にとって必要か/必要ではないかの取捨選択が明確になるからで、数万曲のストックから瞬間的にその時に聴きたい曲を「選べる」環境にいながらも、再生頻度を探れば、ますます自分の聴く「音楽の幅」は狭まっていくのか、そして、その狭まった音楽の幅で更にピンポイントで、何が、「音楽なのかジャンクなのか」さえも曖昧に砂上の楼閣みたく消えてもゆく。それでも、個人は無限に音源をUPし続けて、「誰か、分からない誰も」がそれをスルーする。

 彼女の音楽性はとても幅広く、ローファイな質感を持っている。ベックを始めとした90年代的なオルタナティヴ性を「ロック」にメタ解釈したもの、IDMの音とギターの音色が浮遊的に交じり合う曲、ソニック・ユース的なグランジ的な曲、内省的なバラッド。音楽ジャンルは違えど、セックスを決して売りにしないエイミー・マンが醸すような孤独と知性や空気感がこの作品群にも通っていて、でも、最終的にはとても穏やかで優しく、「曖昧な温度」だけを残してくれる。だから、安心して「真摯」に向き合う事が叶えられる作品として、緩やかに気負わずアイデンティファイ出来る。孤独なベッド・ルームを覗き視ている様な背徳感と誰でもそのベッド・ルームから音楽を奏で出しているのだろうという安心感の鬩ぎ。如何にも今の時代の音だと思う。

 彼女の歌詞世界は所謂、汎的な女性アーティストに多い「大文字のラヴソング」は少なく、観念的な要素が多いが、それでも、「ラヴソング」としか言えない部分も孕んでいる。何故なら、ラヴソングにも色々な定義があるからだ。果たしてラヴソングとは一体、「何」から「何」へと放たれるものなのか。よく考え、そして、巷間に溢れる音楽の殆どを占めるラヴソングのベクトルとは一体、何を指し示そうとしているのか、考えてみればいい。

 また、このEPを聴いていると、どうしても頭を擡げてくるテーゼであり、日々と言ってもいいレベルで量産され、食傷気味とも言える数の「I Love You(及び、その変形型)」が意味化するより記号化されてしまうような速度の中で、切実な想いと熱のこもったラヴソングでさえ排除されてしまう気がする。だからこそ、少しだけ掘り下げてみたいと思う。

 「君と僕」の関係性を煎じ詰めると、究極的な意味でラヴソングへと「昇華し、抜けていく」とかの一般的でカジュアルな原則(個人的な事を突き詰めれば、普遍性に繋がる、というもの。)はどうだってよくて、僕なんて単純に、普通に経済を語るように政治を語るように社会を思うように未来を憂う様に、このテーマについて切実で押し迫った気持ちを抱えているし、そうあるべきだとも思うからして、ロックの役割とか時代的な参照点としての意味とかは二の次に、エヴァーグリーンな気配や影を「感じ取ろう」というアンテナで音楽に向き合う事がよくある。ラディカリズムや刹那的な衝動、を飛び越す絶対的な色褪せない熱としての、音楽という意味を越えた「質感」。それは、1970年代のスティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』前後の諸作に感じるような、歴史的な文脈やカテゴリーを抜きに、触れた途端「名曲」の温度を感じとってしまう―そんな情動に近いとも言えるだろうか。

 「ラヴソング」とは、①♂→♀のミニマルなもの(または、その逆。)。②♀→♂→?という♂を仮想対象として設定し、普遍的なもの、汎的なものにアプローチしようとするもの(♂→♀→?という構造性が成り立ちにくい理由はここでは詳述する必要もないだろう。♂は「現象」で♀が「存在」だという免疫学的な観点を援用するまでもなく。)。③性別性を越えた記号的羅列としてのもの。に大雑把には括れると思うが、③の商業主義として芯の強さ、"形式主義故の「深さ」"とかはもはや論じる必要も無いだろうし、"浅さ/深さ"をメタ・レベルで「敢えて」述べる必然性も無いからここでは割愛するが、①に関してミニマリズムを極めたが故の反転としての、時代を捉える瞬間というのは今でも音楽の持つ偉大なカタルシスの一つであり、感動的なものだと思う。その登場人物やディティールは絞られ限定されている筈なのに、聴いた人がそれぞれのコンテクストを敷き、感情的同化をする、という-そこには様々芸術や娯楽が栄えようとも、音楽が放つ稀有なマジックがあるからだ。

どんな汚い世界でも愛しているんだから
(ワンダーウォール)

の矢印の先に、「君」は居ないかもしれないが、彼女は自分と対峙するほどに零れる感情に名前を付けようとする時に零れるジャンルに意味を付けるなら、「ラヴソング」にしか思えないのだ。彼女は「殆どラヴソングはない」と言うが、独りを意識するほど、「大文字の他者」が明滅する訳だから。

 工藤鴎芽の今回のEP『I Don't Belong Anywhere』は精緻なエクリチュールの差異はあれども、徹頭徹尾、自分への藻掻き、観念的懊悩に照準が定められているが故に、標的の見えないラヴソング集とも言える。危うく繊細な線を行き来する「大文字の言葉」が均衡さえ無視した歪な「枠外」へとブレイクスルーされてゆくような生々しい感情の表出を感じさせるものでもあり、僕はこのあまりに"本能的な揺らぎ"に関して一部のフィメール・アーティストにだけ感じる女性性ならではの凄みや過剰さと、♂の自分として「はじめから越えられない」何かを握っている確信を感応した

いつまで経っても消えない
切離された街灯の星と星
忘れることなんて容易い筈なのに
何もないこの庭で夢をみる
(無所属に尽き)

 ラヴソングという括りにおいては、お気軽でコンビニエントな内容で完結してしまうものばかりだけではなく、最終的には殆どが、愛の過程における絶望の鈍みもニヒリスリックな視界もありふれた退屈も「込み」で描かれるものも含まれざるを得ない、として、「孤独も含まれる」。ポジティヴで、オプティミスティックな指向性で、ずっとこのままの状態が続いていって、「煌びやかな未来」が待っていて、なんて視野狭窄的なヴィジョンは、どんな歌でも関係なく、荒唐無稽でしかないし、幻想に盲目的な希望を上塗りして、それぞれの傷を隠し合っても自分の内層を見て見ぬ振りしても現実は残酷に追い越していく。良いところ取りだけで成立し得るものなんか「なく」、ハッピー・エンドというのは「基本的に」有り得ない訳で、ずっと続いていく/続いていかざるを得ないライフタイムの中で、都度に打たれる楔をどのように意味付けして、自分なりの脈絡を見出していくのか、そこにこそ、リアリズムが純粋濾過した故のロマンティシズムの原型と呼べるものが顕現することがあるのではないかな、と個人的に思う。

 その中で、彼女の言葉や音楽への切実な対峙の仕方は、サーフィシャルな言葉群に埋もれて空虚に踊ってみるのもいいという処世術の一つかもしれないと言える。でも、切実な構えで本質的な深さと重さに目を向けてみるっていうのも存外、悪くないし、そこらに転がる態の良いキャッチコピーより自分を「癒して」くれるのかもしれない、と僕は考えもする。

 ありふれた日常に溢れる、ありふれた数多のシニシズムやニヒリズム、ペシミズムと生温い諦め、悪意が通奏低音になって、ユージュアルに生きている空気の中にも当たり前に混在してきているのを察しながら、自分は戦時下でサイレンに耳の鼓膜を破られるような気分を先取る感性で、ラヴ・ソングばかりを選りすぐって聴くときがある。それは、例えば、過去、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンの一連の曲が、「政治的な意味ではなくラヴソングだと思っている」、なんてザックの言説に沿う場合もおおいにあったりする訳で、チェット・ベイカー、サラ・ヴォ-ン、Madeleine Peyrouxを聴くような耳で、工藤鴎芽を聴いてみると面白い。

 このアルバムは語弊を承知で言うならば、ベックの『メロウ・ゴールド』の気配を忍ばせつつ、初期スピッツの無為さが混ざっている。都会の影にひっそりと咲く「一輪の花」みたく可憐に逞しく響き渡る「都会(的生活)人の為の孤独な音楽」だと思う。そんな、「引き裂かれた」中で咲く花の美しさ。花は枯れるのを孕むから美しいのだ。その美しさはとても儚い。

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