くるり「魔法のじゅうたん」CDS(Victor)

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qururi.jpg ソシュールの概念としてラングとパロールというものがある。

 ラングは「言語構造」で、パロールは「言語現象」と訳すことが出来るが、簡単に説明すれば、言葉の、聴覚で聞く音列や目に見える文字列には、無数のパターニズム(ミームではなく)、様々なテクストが作ることができ、そのテクスト内には予め言い損ねたものや不完全な部分も含まれる。これらの実際の言語の表面現象をパロールと言い、その無数のパロールを生成している言語の本質としての言語能力がラングと表象出来る。ラングは或る程度、「一定した体系」を、保持して、ラングが無数の非限定的なパロールを生成する。だから、ラングというのは、概念であって、実体はない。ラングが実体として現れたものがパロールだとしたら、「くるり」と発語したとき、それは本当に「くるり」なのかそれぞれの記憶の中の何か指すのか、全くの記号を示唆するのか、分からないことになる。だから、実際にはパロールしか確認できず、そこからラングを仮定する作業しか出来ない。

 くるりというのは「バンドだが、バンドではない」のはそういう意味も含む。

 それは来し方を振り返れば、分かる。立命館大学でのサークル時代の形式からインディーズでのデビュー、「東京」での或る種、大文字の記号としての全国進出、ジム・オルークと組んでポスト・ロックを模索しながら、明らかにミレニアムの狂騒のモードをシニカルに切り取った『図鑑』、ダフト・パンク、アンダーワールドのユーフォリアに影響を受けて、急激にダンス×ロックのエクレクティズムに走った「ワンダーフォーゲル」から「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の流れ。サークルの先輩だった大村達身氏を入れて、民俗音楽や辺境の音楽にインスパイアされながらも、どうにも散漫になった『The World Is Mine』。そして、ここで、実質、くるりは「終わる」。初期メンバーのドラムの森氏が抜けたのもあるのだが、長い沈黙があり、同世代的なシーンを彩ったスーパーカーやナンバーガールといったバンドの活動を停め、バンプ・オブ・チキンやアジアン・カンフー・ジェネレーションといったバンドのブレイクにパラダイムが容赦なく変わる中、03年に出された「How To Go」というシングルはとても象徴的なヘビーなリフを持った重厚なロック・チューンになった。そのままクリストファー・マグワイアのアタック感の強いドラムを入れての『アンテナ』におけるプログレ、セッション指向は明らかに孤高でもあったし、当時観たライヴでのジャムは時に、もう「くるり」という記号体を拒否するかのような密室感と共犯性もあり、辛くなることもあったが、それでも、彼等は(ロックン・)ロールしてゆくことを辞めず、60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンの3分間ロックに魅了された05年の『Nikki』においては、まさかの「Baby I Love You」という彼等にしてはレイドバック、大文字過ぎると言えるかもしれないシングルも含みつつ、セルアウト/バーンアウトの際どい境目を潜り抜けた。

 ベスト・アルバムでの総括を経て、愈よ岸田氏と佐藤氏だけの二人に正式メンバーになったしまった折、日本のロック・バンドとしては異例にして初のウィーン録音へ飛ぶ。07年のシーンの一端を射抜いたクラシックとロックのハイブリッド性、そして、もう「くるり」という記号が音楽を結び付けるのかもしれない、という純然と「音楽」だけが前に現出した『ワルツを踊れ』で、ハイブロウなブレイクスルーに成功する。勿論、このブレイクスルーは「内破」の文脈であり、J-POP、J-ROCKの持つ大雑把な荒さを対象化した上で、内側から蹴破ろうとする野蛮さがあった。

 何より、くるりが常に興味深いのは都度、一旦、「終わる」ことであり、それはレディオヘッドが次の一歩を進むために、寧ろ過去を否定するように、昨年のブラーが自分たちを清算するのにあれだけの時間が必要だったのと同じで、次を想うあまり、昔さえ相対化してしまう律義で危うい部分があり、そこが逆説的にいつも興味深く、その都度のモードがマニフェストになってしまうというエッジを孕んでしまうのだが、『ワルツを踊れ』とその関連のライヴ後は本当に、一歩でも進めるのか、もうここで何もかも終えてしまうのではないか、という感覚はあったし、僕自身、ここまで来たから、もうくるりは十二分に役割期待を果たしたという慰労の念さえ持っていた。案の定、その後のライヴでの新曲群は裸身のラフなものが多く、反動というよりは、もうシンプルにバンド・サウンドを鳴らすしかないという所まで追い詰められていたとも言える。実際、NYで録られたものの、洗練というよりはアーシーでダウン・トゥ・アース的な風情を持った09年の『魂のゆくえ』では、全くシーンへの目配せは無く、くるりの「くるり」自体への浄化作用だけが働いており、岸田氏と佐藤氏の「関係性」がフロートするようなものになっていたのは周知だろう。但し、キャリアも10年以上も越えてきており、自らイヴェントを主催しながら、都度のモード・チェンジにより、ファンを置いていったり、連れてきたりした傷が膿んでいた気配が露骨に表れていたのは辛かった。

 そして、僕は「くるり」を確認出来なくなった。

 それはパロールとラングを合わせてランガージュに「なる」、という文脈もあり、目に見えるパロールとしての彼等ではなくその奥に隠れた見えない本質であるラングを可視化する意味が敷けなくなった。そんな中、今年のB面集とその関連ライヴに対峙したが、何故かそこには清清しさが漂っていたのが妙に不思議だった。三人でラフにバンド形式で昔の曲(しかも、B面の曲)をやりながら、そこにノスタルジアは無いものの、何故か、98年の頃に観た京都の小さいライヴハウスでの無名時代の彼等と変わっていない音がふと頭に浮かんで、胸にくるものがあった。

 そのライヴでも披露された新曲にして、次のアルバムのリード・シングルとなるのが今回の「魔法のじゅうたん」だ。非常に既視感はあるが、アルペジオが美しい清冽な8ビートの切ないラヴソングになっており、BPM的には120台でメロディーはティーンエイジ・ファンクラブやマシュー・スウィート辺りの「ポップ」を参照にしながら、何となく現在進行形のザ・ドラムスやザ・ヴァンパイア・ウィークエンド辺りの軽快さが漂っているのが「らしい」曲になっている。歌詞は「君との距離」をモティーフしている切なさを孕むが、その「君」はくるりの場合は明確に恋人であったり、家族であったり、友達であったりするだろう小文字の具象性を帯びているのがはっきりと分かる。兎に角、最近の大文字の記号論としての余白を許さない「君」への想いへの対立項とした曖昧なままに、余白を残し「君のことたくさん知ってるつもりだった」のに、「こんなにわからなくなる」と歌う。また、今回初の両A面シングルとなる片方はユーミンと組んだブギー・チューン「シャツを洗えば」をくるり版で再構築している。

 過去にないくらいのポップな輝き方を持つ二曲が並ぶシングルになったが、B面集のタイトルからして『僕の住んでいた街』だった訳だから、ここには「無邪気さ」は全くなく、どうにもくるりでしかない構造を保つ為の一定の熱量のエントロピーが働いている。構造は一定なのだが、それが無限の現象を生成するという見方をするならば、来るべき新しいアルバムは大文字の社会や文化的な個々の現象背景を掬いあげるような「何か」を示唆するものではないのだろうか、期待出来ると思う。


(松浦達)

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