シーヴス・ライク・アス『アゲイン&アゲイン』(DeBonton / Shelflife / Flake Sounds)

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thieves_like_us.jpg 例えば色香、あるいはエロス、もしくは狂気、そしてエレガンス。その全てが、スウェーデン人とアメリカ人によるトリオ、シーヴス・ライク・アス(情報があまり見付からず、どこを拠点にしているのかイマイチ分からない...)のセカンド・アルバムに存在する。このバンドの多面性は不思議なことに思えるが、同時に必然だとも思える。耳元でささやかれる歌声、柔らかい電子音、気持ち良さそうに浮遊するその全てのサウンドが巧妙に溶け合って、聴き手をここではないどこかへ、それはきっと本作の世界へと眠りに落ちるように導き浸らせる。セックスに乙女のようなロマンチシズムを抱くティーンが、ドクロが漂うディズニーランドで無邪気に遊ぶ。そんな世界観を持つこのエレクトロ・ポップスは、優美とほんの少しの狂気を合わせ持つ。
 
 エレクトロニカを通過した視点で作られたエレクトロ・サウンドは時にニュー・オーダーやチャプターハウスを彷彿させる。だがきちんと「いま」の音になっている。エレガントであることを貫き、ギターも歌声もリズム・セクションも、暗闇にわずかな明かりを灯す程度に暖かく、すっと意識の糸を抜かれてしまう心地に満ちるトリップ感。それはひとつの色香の狂気。夢遊病者と化すであろう幻想的なエコーやノイジーなギター・サウンドをタイミングよく鳴らすセンス、熱気の一切を排除した音の全てはエロスという言葉がふさわしい。さながら村上春樹が表現する救いとしての性行為のように。
 
 音楽を聴く行為とは聴き手と音との同一化に似ている。同一化とは「同一ではないこと」を肯定して初めて生まれるのだ。本作『Again & Again』は人と音楽は別ものであることを肯定し、決して簡単に分かち合えないことを肯定する。そうして親密性の高い、色めいた音色を奏で、音と一体になりたいという欲求を聴き手に生じさせてしまう魅惑がある。性行為と同じように。
 
 エレクトロニカに近い本作をエレクトロニカと比べてみるに、アンビエント的なエレクトロニカには演奏者との会話は生じることがほとんどなく、聴き手に他者、または演奏者の妄想を強いる場合が時としてある。だがそれは、聴き手の自意識によって作られた偶像で、妄想によって他者を作り上げ、対比のかたちで自分という主体を守っていると言える。自意識に害の無いものを求める現代にあって、一部のアンビエント色を押し出すエレクトロニカは他者(音楽)との会話を排除したひとつの功罪という現代性を端的に表している。
 
 だがシーヴス・ライク・アスは会話を迫る。聴き手と音楽は別個の存在ということを前提として『Again & Again』を目の前に差し出し、聴き手と対面させ、同一化を欲する。それは場合によって、他者の介入を許さないアンビエント系のエレクトロニカを好むリスナーの視点で見れば、あまりにも美しい他者(本作)との対面であり、ある種の狂気だ。いや、もしかしたら優美である本作そのものが、優美なものが薄い現実世界の中にあって、狂気なのかもしれない。そうしてやがて訪れる音との同一化。本作はエレクトロニカではないが、一部のエレクトロニカのアキレス腱、そこへの問題提起に成り得ている。美しさとともに。
 
 美というその曖昧な観念への解答は、僕はまだ示せていない。おそらく答えなどないのだろう。だが雨が止むから晴れるのだ。涙が枯れるから笑顔になるのだ。この音楽が、僕には泣いているように思える。静かに、しとしとと雨が降るように。しかし、それでいい。笑顔より、静かな哀しみの方が美しく感じられるときがある。

(田中喬史) 

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