アジアン・カンフー・ジェネレーション『マジックディスク』(Ki/oon)

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 今、アジカンは過渡期にある。

 いや、自らの置かれた状況の中に、何らかのアンチテーゼを見つけ、それらを止揚させることによって、常に新しい自分たちのスタンスを更新し、確立していっているこのバンドの場合、過渡期でない時の方がむしろ少ないのかも知れない。しかし、それでも僕はもう一度、今のアジカンは過渡期にあると言いたい。もちろん肯定的な意味で、だ。

 このアルバムの先行シングルとして、明らかに今までとは異なる実験的なアプローチの「新世紀のラブソング」、漫画・映画の同名作品とのコラボレーションであり、初めて後藤以外の人間による作詞の曲「ソラニン」、彼らのキャリア史上初のホーンセクションを大々的にフィーチャーした「迷子犬と雨のビート」の3枚がリリースされていた。

 これらのシングルで共通しているのは、言うまでも無く、どの曲も今までのアジカンとは違うスタイルを意図的に取り込んでいることだ。それらの楽曲を聴いて、僕は、ニュー・アルバムは、期待するのと同時に、少しとっつきにくいような、実験性に満ちたアルバムになるのでは、と少し不安になっていた部分も正直、あった。

 しかし、アルバムを一度聴いただけで、それはただの杞憂であることが、すぐに分かった。

 確かに、今までとは違うアプローチで鳴らされた曲も多い。しかし、例えば、陽性のアップビートで歓喜を鳴らす「迷子犬と雨のビート」も、どこか空虚なセックス・ソングを思わせるセクシャルなゆるやかさを持った「架空生物のブルース」も、タイトル通りのダンス・チューンの「ラストダンスは悲しみを乗せて」も、ブルックリンのインディ・ポップ・シーンを凝縮したようなシンセが鳴り響く軽快な「マイクロフォン」も、どの曲も全てがアジカン新機軸の斬新さを持ちながら、見事にギター・ロックあるいはパワー・ポップと言った地点に着地しているのだ。

 そう。思い返せば、アジカンはアーティストとしての表現欲を剥き出しにするあまり、リスナーを「置いてけぼり」にするような事は一度もした事などなかった。

 詞世界の面も触れておきたい。

 このアルバムの歌詞は、どれも完全に外に、社会に、今この瞬間の世界に向いている。内省はもう既に、しきった。自分が何者でもなくて、何も持ち得ないことも分かった。だからこそ、これから始めるのだ。痛みを背負ってでも、他者に、世界にコミットしていくのだ。そう言った、現実を見据えながらも陽性な、後藤正文の意志が、強く表れている。

 特筆すべきは、やはり「新世紀のラブソング」で始まり、表題曲の「マジックディスク」へと開かれていく流れだろう。「新世紀のラブソング」は、既にゼロ年代のムードに終わりを宣言する曲である。それは時代へのリセット・ボタンでは決してなく、コンティニュー・ボタンである。続く「マジックディスク」は音楽がハード・ディスクに、ダウンロード制に移行していく現代に呼応した、時代を象徴した曲である。これらの流れでこれまでの旧時代・旧体制に終わりを突きつけて、現実を恐れず見つめているのだ。

 「さよならロストジェネレーション」もまた、何も無い地平を嘆くのではなく、それを受け止めた上で、内省によって自ら築き上げた檻を出て、世界と向き合おうと歌う。これこそが後藤正文自らの世代の閉塞によるアンサー・ソングだ。「イエス」にいたっては、安直な共感も、孤独のバイブルも僕らにはいらない、とまで歌っている。

 内省の時代、自分探しの時代、ゼロ年代は長らくそうだった。それはそれで、悪い時代と言うわけではない。しかし、もうそれは終わりだ。確かに、自己を見つめることほど、大切で主体的なことはない。しかし、それによって自らを閉じ込めてしまっては、本末転倒だ。これからは痛みを背負った「個」でありながら、「個」のまま社会にコミットしていく時なのだ。そして、「そう、いつか君と出会おう」。

 アジカンはまたこのアルバムを出すことによって、過渡期を越えて、新たなアンチテーゼを自らの中に見つけ、更新されるだろう。この実験的ポップ・センスが向かう先を期待せずにいられようか。

 まだまだ10年代がどうなっていくかなんて、誰一人分からない。

 しかし、この先の見えない無秩序な社会に「個」のまま関わっていこう。『マジックディスク』を携えて。このアルバムは、それを乗り切るための、僕たちの羅針盤なのだ。

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