カヒミ・カリィ『It's Here』(Victor)

|
kahimi_karie.jpg
 オリジナル・アルバムとしては、およそ3年半ぶりの新作。彼女にとって本作は、2つの重要な意味を持つ。1つは、キャリア20年(1990年に嶺川貴子とのユニットFancy Face Groovy Nameでレコード・デビュー)にして、初の作曲・編曲に挑戦していること。そしてもう1つは周知の通り、結婚、妊娠、出産という、女性にとって非常に特別な時期に作られたということである。

 収録曲の半分以上が彼女の作曲によるもの。「月刊サウンドデザイナー」7月号でのインタビューによれば、作業は主にGarage Band(アップル社が開発した初心者向けの音楽制作ソフトウェア)を用いて行なわれ、驚くべきことにほぼ全てのアレンジまでデモの段階で作り上げてしまったという。前作に引き続きレコーディングに深く携わった大友良英とジム・オルークは、「ちょっとしたメロディの欠片を彼女が1つでも作ってくれば、後はアレンジで幾らでも何とか出来る」というふうに考えていたが、いざスタジオに持ち込まれた彼女のデータには、ギターやピアノ、リズムの細かいフレーズまで書き込まれていたそうだ。これには流石の2人も舌を巻いたことだろう。おそらく、今まで数多くのレコーディング現場や曲作りの瞬間に立ち会ってきた彼女の中では、すでに「曲を作るための準備が整っていた」のだ。

 レコーディングにメインで参加したのは、カリィ、大友(ギター)、オルーク(ベース、キーボード)に加え、山本達久(ドラム、パーカッション)、山本精一(ギター)の5人。ほぼ固定メンバーによってレコーディングされたことにより、まるでライヴ・レコーディング・アルバムのような統一感がある。2003年の『Trapeziste』辺りから徐々に現代音楽やフリー・ジャズ的アプローチを取り入れていった彼女だが、これまでの作品は曲により菊地成孔や小山田圭吾、ヤン冨田などコラボする相手を変えた、カラフルでヴァラエティ豊かなサウンドだった。それのに比べると本作は一見地味に感じるかも知れない。しかし、聴き込めば聴き込むほど各曲に散りばめられた音響的なアイディアや、アレンジの仕掛けに驚かされる。この辺り、全てのミックスを自宅のプライヴェート・スタジオにて手がけたオルークの手腕による部分も大きいはずだ。

 それにしても、なんて伸びやかで開放的な声なのだろう。「偶然のアクシデントや、演奏のミスでさえ積極的に取り入れていく現代音楽やフリー・ジャズに触れることで、曲を作ることへの気構えがなくなっていった」カリィだが、そうした心境の変化はヴォーカル・スタイルにも如実に現れている。決めごとの多いロック〜ポップ・ミュージックの世界から解き放たれ、自由に音と戯れる彼女の声には「強さ」や「逞しさ」さえ感じるほどだ。

 本アルバムで彼女が作曲に取り組む気持ちになったのは、やはり結婚や妊娠、出産が大きく影響しているのではないか。そう安易に予想したのだが、実は今の夫と出会ったのは、曲を作り始めた後だったそうだ。「曲を作ってみようと思うようになったことが、結婚や出産という環境へ自分を導いたのかもしれない」とカヒミは言う。「生きること」と「表現活動」が密接に結びついている彼女こそ、真のアーティストと呼べる存在ではないだろうか。

retweet