June 2010アーカイブ

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 マーティン・スコセッシ監督のライヴ・ドキュメンタリー『Shine A Light』では、3人のゲストがストーンズと共演している。バディ・ガイはブルース・ナンバー「Champagne & Reefer」で貫禄を見せつけ、クリスティーナ・アギレラは楽しげに「Live With Me」をミックとデュエット。そして、ブルースを21世紀に継承するジャック・ホワイトは「Loving Cup」をいつになく緊張気味に歌う。「俺は不器用だから、ろくにギターも弾けない(I'm Stumbling And I Know I Play A Bad Guitar)」という歌詞に合わせた演出なら、すごいのに。

 『メイン・ストリートのならず者』には、その映画のタイトルにもなった「Shine A Light」とジャックの課題曲「Loving Cup」が収録されている。オリジナルは、ウォーホールがデザインしたジャケットがカッコいい『Sticky Fingers』に続くアルバムとして1972年に発売。このアルバムのジャケットにも注目しよう。ビートニクの時代からアメリカを撮り続けてきた写真家ロバート・フランクによる「追放された者たち」のポートレイトが最高にいかがわしくてぴったりだ。税金対策のために母国イギリスから「逃れた」ストーンズが、ピアニストとホーン・セクションを引き連れてメイン・ストリートに立った。ブルース、カントリー、ゴスペルそしてサイケデリックまでも飲み込んだ「流れ者たち」の音楽を鳴らすために。「ならず者」もカッコいいタイトルだけど、「放浪者」というイメージで聴くと印象が変わる。これは音楽のロード・ムービーだから。

 そして、この音楽のロード・ムービーには続編があった。リマスターされて、なんとCD1枚分11曲のボーナス・トラックを追加して登場! DISC1のオリジナル・アルバムはルーズな印象をそのままに、解像度がぐんとアップした。キースのリフに絡むミック・テイラーのスライド、そしてギター・ソロの繊細さが素晴らしい。「Sweet Virginia」のブルース・ハープは、ミックの息づかいまで聞こえそう。こもった感じを残しながらも、太さが増したビル・ワイマンのベース・ラインとチャーリー・ワッツのドラムを追っかけてるだけで18曲なんて、あっと言う間だ。

 そして、未発表曲とアウト・テイクで構成されたDISC2も聞きどころ満載。「Pass The Wine(Sophia Loren)」はラフでファンキー。壮大なバラード「Following The River」にはストリングス・アレンジでベックの親父デヴィッド・キャンベルが参加。「So Divine(Aladdin Story)」のイントロはまるで「Paint It Black」みたい。どの曲も完成度が高い。それもそのはずで、クレジットにはなんとドン・ウォズの名前がある。つまり、これは未発表曲を最新技術でアレンジし直したもの。発表するからには、歴史的価値よりもクオリティを重視する。そんなストーンズ(たぶん、ミック)の転がり続ける石ころっぷりは不変。要するに新曲じゃん!

 「ロックの名盤」だとか「ストーンズの最高傑作」だとか言われているこのアルバム。まだ聴いたことがないなら、自分の耳と心で確かめるべき。2枚組で3800円はちょっと高いけれど、その価値は充分にある。リマスタリングされた最新の音質から聴けるなんて、最高だと思う。未発表曲も新曲だと思って聴けば、余計な予備知識なんていらない。ただ楽しめばいい。

 ストーンズはこのアルバムの後、『山羊の頭のスープ』を煮込むためにジャマイカへ飛ぶ。ロバート・フランクはなぜかニュー・オーダーの「Run」のPVを監督している。放浪者たちの旅は楽しそうだ。

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「なんという上演か。世界がそこに含まれている」。

 マラルメの言葉を借りなくても、1988年から10年以上もの歳月をかけて撮った『映画史』という作品には世界が「含まれている」。たった4時間半程の中に、チャップリン、ヒトラー、ロッセリーニなどの亡影が交錯して、ゴダールの子供時代の顔がぼんやり浮かび、ストラヴィンスキー、バルトークといった交響曲が、断続的に切り入れられる。開扉と回避。相対と総体。緻密な網の目から零れ落ちる映像が沈黙する瞬間さえ、歴史が映り込んでいる。戦後、既に撮られ尽くされてきた様々な映画に対してのメタ認知を行なうべく、ヌーヴェル・ヴァーグ期の映画監督たちは紆余曲折して、実験・試行して、その後、彼等はそれぞれの道を往くようになったのは周知だろうが、ゴダールは一番の「被害者」でもあったのはあまり知られていない。

「被害者」という表現に関しては、69年『東風』辺りからのジガ・ヴェルドフ集団期の何作かを想い出すと早いかもしれない。50年代末期から60年代の半ばにあった軽やかさはそこに全く無く、息苦しささえ漂う自家中毒的な状況がそのままに転がっていた。また、結局、お蔵入りした『勝利まで』という作品などはアジテート映画を創ろうとしてパレスチナまで行き、しかも、そのパレスチナでフィルムにおさめた戦士たちは全員、殺されてしまうというトラジェディーも生み出すという悲惨な結果さえも「巻き込んだ」。その戦士の一人一人の「死」と対峙する中で、1976年の『ヒア&ゼア』が現前化した。そのヒアが、何でゼアが何なのか、ここで語るまでもないが、ここで大事だったのは「&」なのは確かだ。左的なロマン主義へ純然と埋没する自分を高次でアウフヘーヴェンすべく、メディアの可能性的な溝を埋める為に「間」を置いた。その「間」を突き詰めた『映画史』はだからこそ、悲痛ではないし、その後のゴダールの完全なる復活の狼煙を立てるには余りある評価を付加した。ナチス・ドイツ-ユダヤ人、イスラエル-パレスチナ人の断線を執拗に彼は追い続け、映像に刻印して、20世紀を「なかったこと」には絶対しない。そこに鏤められる幾つものモティーフ、セルフ・パロディーはゴダール自身のスティグマをどう治癒するかどうかではなく、どう膿ませるかどうかの実験でもあったと言える。「1968年のレフト・アローン」という言葉が醸した「アローン」は結局、その字義通り、彼を一人にさせた。ただ、独りにはならなかったという訳だ。

 だから、2004年には『アワーミュージック』という傑作を上梓したのだ。「アワー」にはゴダールは含まれており、世界も含まれていた。ダンテの新曲をモティーフにしながら、「女の子」を撮りまくるというクールネス。セクシャルな映画であり、映画館で観た僕はゴダールのカタルシスのポイントがロマンティシズムとエロティシズム以外の何物でもないことを確信したという意味は大きかった。

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 クエンティン・タランティーノの一時期のプロダクションの名前は「A Band Apart」と言い、これはつまり、ゴダールの64年の「はなればなれに」(原題:Bande A Part)を英語読みした訳だが、兎に角、ゴダールを語るには映画内・内文脈の葉脈を考えると、眩暈を起こしそうになるくらい、複層的に入り乱れている。

「複層的にしてズレてゆくフィルム片」という概念で輻射してもいいと思うくらい、ゴダールほど、アフォリズムとスキゾ的なクールさと思考停止に塗れて、それでいて、しっかり評価された上で、神棚にも祀られない監督も珍しい。ゴダール節とも言えるシーン内で急に音楽が盛り上がり、突然で途切れたり、全く俳優陣と関係ない部分で船酔いのように揺れる効果音など、それはカット・アンド・ペーストが当たり前になったモダン以前に彼は行なっていて、初期の短編などは、彼は自宅のバッハやヴェートーヴェンのレコードを援用して勝手にカットアップを行なっている節がある。54年~58年の短編(『コンクリート作戦』、『コケティッシュな女』、『男の子の名前はみんなパトリッシュ』、『シャルロットのジュール』、『水の話』)に関しては音楽以外にもアイデア一発で創られており、習作の域は全く出ていないものの、何故かその後の奔放無頼な活躍を期待させる萌芽はある。その後に、すぐ例のヌーヴェル・ヴァーグの決定打と言える『勝手にしやがれ』が来る訳で、ゴダールは自分で自分を試していたのではないか、とさえ僕は邪推してしまう。つまり、ゴダールとはゴダール自身をメタ対象化するのが巧い映画監督なので、自分がどう撮るかよりも、如何に映像に自分が撮られるかを意識しているところはあり、結果的に彼のフィルムというのはいつも批評的になってしまうのはシビアな意味で言うと、他の映画監督と比して「中に入り込めない」からだとも言える。だから、1959年の『勝手にしやがれ』のあのジャン=ポール・ヴェルモンドとジーン・セバーグとの冗長なベッドでの会話シーンなどは意図ではなく、投企だろう。あれによって、ストーリー全体の間延びした感じに「退屈」というスパイスを加味する事が出来て、歴史の中でも燦然と輝く物憂い温度感を全体に焼き付けた。ジャンプカット、即興演出、瞬時の映像のアドリヴの際立ち。

『小さな兵隊』以後のアンナ・カレーナ期の作品はただ、女として彼女を押し出そうという明確な意味があったが故に、作品のレベルとしては傑出してはこないが、ミシェル・ルグランと組んだ1961年の『女は女である』はカオティックな美と破綻したストーリー、自棄気味な音楽の絡み合い方が高度に結晶化されており、大きなハーヴェストだった。1965年の『気狂いピエロ』は別格としても、そこから自家中毒の捻じれをもたらしていく方向性を進まざるを得なかったのは先に書いた通りだろう。モダンをブレイクスルーする為にはポストを置けなかった。だから、彼はモダンを遡及した。遡及していった結果、『新ドイツ零年』、『映画史』、『アワーミュージック』という作品をものにして、2010年の新作がなんと『ソシアリスム』というタイトルだ。

 この『ソシアリスム』は果たして、老境に差しかかったゴダールにとってどのような意味を持つのか、考えて身構えると、それに応じた充実した重みを与えてくれる訳では無く、ゴダールの被害者性が表象される内容になっていると察せられる。今のゴダールに対峙することは、モダンをどう越えるか、モダンの前で立ち止まるか、ポストモダン側からモダンを見返すか、なんていった、幾つかの事項を脱化してくるストレートな映画へのパッションと今のヨーロッパを巡る懐疑の想いが幾重にも重ねられたものになっているに違いない。ゴダールはおそらく、全部忘れないのだ。そして、観る側はいつもゴダールを忘失してしまう。その「間」の点で、ゴダールはまだ生き続けるのだと思う。ForeverとはFor everと分けられる。ゴダールもいつも「瞬間という永遠」でフィルムを廻し続けているのだ。この作品をして、ゴダールは漸く大衆的な映画監督としての椅子に座る事が出来るのではないだろうか。彼の前に神棚なんて元々無かったのを皆が気付きだしているタイドと呼応した上での、老境の彼のアンコール的に見えた本編としての本当の意味を想い知らしめるだろう。

2010年6月3日

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2010年6月3日更新分レヴューです。

NADA SURF『If I Had A Hi-Fi』
2010年6月3日 更新
22-20s『Shake / Shiver / Moan』
2010年6月3日 更新
デフトーンズ『ダイアモンド・アイズ』
2010年6月3日 更新
クリスタル・キャッスルズ『クリスタル・キャッスルズ』
2010年6月3日 更新
トレイシー・ソーン『ラヴ・アンド・イッツ・オポジット』
2010年6月3日 更新
コーカス「ゴーイング・フォー・ア・ロンサム・ドリーム」EP
2010年6月3日 更新
ザ・ナショナル『ハイ・ヴァイオレット』
2010年6月3日 更新
メイル・ボンディング『ナッシング・ハーツ』
2010年6月3日 更新
ジ・アップルズ・イン・ステレオ『トラヴェラーズ・イン・スペース・アンド・タイム』
2010年6月3日 更新
セレモニー『ロケット・ファイル』
2010年6月3日 更新
ノーザン・ポートレイト『クリミナル・アート・ラヴァーズ』
2010年6月3日 更新
ダミアン・ジュラード『セイント・バートレット』
2010年6月3日 更新
グロウイング『パンプス』
2010年6月3日 更新
ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズ「ディス・デザート」EP
2010年6月3日 更新
死んだ僕の彼女『Ixtab』
2010年6月3日 更新
MATT POND PA『The Dark Leaves』
2010年6月3日 更新
DISAPPEARS『Lux』
2010年6月3日 更新
くるり『僕の住んでいた街』
2010年6月3日 更新
DINOSAUR FEATHERS『Fantasy Memorial』
2010年6月3日 更新
上海万博
2010年6月3日 更新

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photo by Kazumichi Kokei

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すでにクッキーシーンのレヴューで紹介済のアッパラッチク(Apparatjik)。これはJonas A(ミューのヨーナス・ビエーレ)、Martin A(マーティン・テレフェ)、Magne A(アーハのマグネ・フルホルマン)、Guy A(コールドプレイのガイ・ベリーマン)ら4人による覆面バンドだ。

数ヶ月前にMP3による配信が始まった彼らのアルバム(それゆえ、クッキーシーンでもレヴューを掲載できた)のCDリリース予定日が近づき、EPのフリー・ダウンロードがここから可能となっている。

注:日本時間の昨夜、フリー・ダウンロードEPの情報がネット上で解禁となり、そのインパクトがあまりに大きかったゆえか、ダウンロード・リンク先も彼らの公式サイトも、現在アクセス不能となっている。しばらく時間をおいて、可能となっていることが発見されたら、その旨続報としてお伝えしますー(汗)。

2010年5月26日 9時12分 (HI)

*5月26日9時31分追記:公式サイトも、ダウンロード先もようやくアクセス可能となりました! メール・アドレス登録制で、ダウンロードできるのは一応デンマーク、ノルウェイ、スウェーデン、そしてUKに住んでる人だけみたいな感じですが...。これ以上は「自己責任で」行動してみてくださーい!

*5月26日11時55分追記:すみません、記者の操作ミスでした! 「あなたが母国と思う場所」のところにマウスを置いてスクロールすれば「Japan」も出てきます。日本からも「公式に」EPフリー・ダウンロード可能です! ツイッター上でご指摘いただいたDaisuke Horitaさん、ありがとうございます!

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 大感動の初来日からもうすぐ一年、サマーソニックでの再来日(東京のみ)も決定しているナダ・サーフから届けられた新作はカヴァー集。これまでもザ・ディービーズ(The dB's)やピクシーズなどの楽曲を取り上げてきた彼らだが、本作も音楽オタクを唸らせる通好みな選曲となっている。彼らが影響を受けてきたであろう大御所アーティストから、スプーンのような同世代バンド、ソフト・パックのような若いバンドの楽曲まで、音楽への愛がひしひしと感じられる選曲になっている。

 原曲のメロディの良さを活かしながら、しっかりとナダ・サーフらしさの感じられる演奏になっている曲が多いが、ムーディー・ブルースの「Question」のカヴァーのように、大胆にパワーポップ風にアレンジされている曲もあり、聴き手を飽きさせない。かつてスピンアートから作品をリリースしていたビル・フォックスなど、地味ながらも素晴らしいアーティストの楽曲が選ばれており、興味を持った方はこの機会に是非オリジナルと聴き比べてみてほしい。

 日本盤ではボーナス・トラックとして、昨年のナノ-ムゲン・フェスティヴァルでのライヴ音源と、アジアン・カンフー・ジェネレーション「ムスタング」、少年ナイフ「Bear up Bison」、スピッツ「空も飛べるはず」などのカヴァーが追加収録されている。

編集部より:近日中にインタヴューをおこなう予定です。この素敵なアルバム・タイトル(『If I Had A Hi-Fi』つまり「もしぼくがステレオを持っていたら...」)についても尋ねる予定ですし、それがアップされる際に、より詳細なカヴァー曲のラインアップも紹介します。

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 決して「にーにーにーぜろず」とか、言わないように。「トゥエンティートゥー・トゥエンティーズ」だからね。声に出して言ってみると、とってもカッコいい!そして僕は純粋に「トゥエンティートゥー・トゥエンティーズが帰って来た!」と声を大にして言えることが、とても嬉しい。スキップ・ジェームスというブルース・マンの「22-20 Blues」という曲から名付けられたバンド名であることは、みんなが知ってる通り。そんなブルースの世界に魅せられたキッズたちが、たった1枚の(最高の!)アルバムを残して僕たちの前から姿を消して6年になる。それは活動休止ではなく、解散という2文字で伝えられた事実。若くしてブルースの虜になった彼らは、21世紀のクロス・ロードの真ん中で「悪魔に魂を売る」こともなく、別々の道を歩むことを選んだ。そこに伝説はなかった。現実として、憔悴しきっているその姿がとても痛々しかった。

 6年前には想像もできなかったこと。それはクロス・ロードの先が、ひとつにつながっていたということ。たどり着いた先には、悪魔も神様もいない。もう一度、22-20sと名乗るために自分たちだけがいた。そして、この『Shake/Shiver/Moan』が最高だってこと。オリジナル・メンバーのマーティン・トリンプル(Vo/G)、グレン・バータップ(B)、ジェームス・アーヴィング(Dr)の3人にギターのダン・ヘアが新たに加入して、22-20sが本当に帰って来た。

 とてもカラフルなアルバム。ロックという音楽そのものがブルースを基礎として様々なスタイルを飲み込んでいくように、22-20sもそれぞれの6年の間に進化していた。揺らぐことのないブルースこそが核になっていることは間違いないけれど、より豊潤になった表現方法がどの曲にも色彩を与えている。2本になったギターの絡み合いが耳を奪う。前作よりもメロディアスになった歌が心に届く。
 シンプルなカッティングと不穏なサイド・ギターの響きが印象的な「Heart On A String」から、22-20sの第2章は始まる。全速力で突っ走るドライブ感がたまらない「Latest Heartbreak」、グルーヴするブルースのタイトル・トラック「Shake, Shiver, And Moan」、バーズを思わせるギター&メロディの「Ocean」と「Let It Go」、そして「4th Floor」や「96 to 4」のようにポップな曲もある。ラストの「Morning Train」は、アコースティックなアレンジが秀逸。どの曲も最高にカッコいい!「ぶっちゃけ、1st聞いてません」「ブルースって苦手かも」という方も「Ocean」だけでいいから聞いてみて!名曲だから。

 6年前には想像もできなかったこと。それは、こんなにも最高なアルバムで、もう一度出会えるという奇跡。1stとこのアルバムの曲を織り交ぜたライブは、どんなことになるんだろう?ひとつにつながったクロス・ロードの先には、フジロックの2日目もある。そして、その先もずっと続くはずの道が見える。22-20sの帰還を心から祝福したい。

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「エロい」と「セクシー」は違うらしい。チノの歌声を評して「エロい」と言う表現を使う側の意図としては、上品であろうが下品であろうがそんな品位などには余り意味を置かずに使っている筈である。時にピュアな怒り、時にナスティな下心を曝け出したりと自身の内面を抉り取ったようなボーカリゼイションであるが故に、受動する側の感情の襞を振動させる。そこには下品や上品などの隔てなど無い、解放された感性に満ちる妖しさが充満するのだ...。

 何よりその歌声を引立たせているのは彼らの音楽性であるのは言うまでもなく、オルタナ/メタル・シーンとは本当の意味で一線を画している事をこの凡そ4年ぶりのアルバムで証明してみせたのだ。そもそもチーム・スリープでピンバックのロブ・クロウらと共演したりとインディー音楽通の間でもその特異性は知れ渡っていたのだが。

 タイトで鋼鉄的なギター・リフは一聴すれば完全にUSラウド/メタルなのだが、キャッチーになり過ぎないダウナーなコーラスや、やや捻りを加えたリズム・パターンはそこらのキッズには勿体ないアダルトな内容。

 特に8曲目に収録されている「Sextape」ではドリーム・ポップや初期シューゲイザーなどの影響を公言するかの如く、浮遊感漂うメロディに歪んだギター・サウンドが揺らめいていて...もうこれは確信犯。更にはシングル曲「Rocket Skates」をフランスのシューゲイザー・ユニットのM−83がリミックスを手掛けた経緯もあることからも間違いない(アルバム未収録)。

 とは言えチノ本人よれば『ホワイト・ポニー』からの3作品の実験的なアプローチではなく、セカンド・アルバムの『アラウンド・ザ・ファー』に近い仕上がりとの談だが、確かに6曲目の「Prince」のイントロの質感は上記作品の「Mascara」を彷彿とさせるし、3曲目の「CMND/CTRL」では、ここ最近聴かれなかったあの頃のヒップな感覚が戻ったかのように心身をバウンスさせる。

 ベーシストのチ・チェンが回復しないままサポートに元クイックサンドのセルジオ氏が加わり制作されたが、これで万全の状態でチの帰還を迎え入れる体勢も整った。そして余談だがチノも痩せた!

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 実際のムーヴメントとして意味があったと思うが、06年程から起きたニュー・レイヴに個人的に積極的には乗ることが出来なかった。それは、「ファッショナブル過ぎる」という文脈ではなく、健康的なパトスが当時のクラヴに溢れていて、原色、蛍光色系の服で身を纏った若人がクラクソンズやCSS、ホット・チップ、等のクールなサウンドに合わせてスイングする様は気分的に悪くなかったし、ふと混じるマンチェスター・サウンド、アシッド・ハウスへのレファレンスを示した音にも懐かしさを感じたのも事実だ。ただ単純に、元々、レイヴとはもっといかがわしさを帯びており、歪みが少ない点が気にもなって、実際、表層的なカルチャーのうねりに還っていく中で、実効性を喪っていったのを傍目で見ている分に辛さを感じたというのが大きい。

 デリダがバイザー効果という概念を提示したが、そこでは「見る/見られる」の関係を分析していた。そもそも「亡霊」とは、魂と肉体の二項対立を考えたときに「精神は魂でも身体でもないと同時にその双方でもあるといった"モノ"となる」と命名しがたいモノとなる精神のことを差した。要は、彼は二項対立の図式で考えた時にそのどちらでもなく、どちらでもないという差異を発見する作業を行った。また、「人が知という名のもとに了解していると信じているものの管轄には属していない。それが生きているのか、死んでいるのかは知られていないのである」と言ったが、これこそが「共時性を解体し、錯時性にわれわれを引きもどす」という、バイザー効果の理由付けとするならば、僕は明確にニュー・レイヴをして「亡霊」を視るような錯時性を持っていた。だから、「喪に服すように、躍っていた」自分は常に時間に、引き裂かれていたと言える。

 また、プロディジーがニュー・レイヴに否を唱えていた理由も分からないでもない。元々のレイヴが持つ一夜限りの「絶望的ではない、饗宴」は希望を示唆しなかった代わりに、閉塞した「今日」の順延をせしめたと言えるものの、ニュー・レイヴには「明日」はあったが、「今日」が無かった気がする。<非・日常>がレイヴではなく、実のところ、クラウドが日常に虚飾を巻いて、その瞬間に自己の忘失を描こうという背景があるとして、記号に何らかの名称を付けるべきではなかった。

 僕はもう少し記号的なダンスをしたかったと言えば、少しメタ的になるかもしれない。その意味で、ニュー・レイヴ的な渦の中で、どうにも気分が滅入るのも確かに現前していた。

 そこでの異端の異端にして救いがクリスタル・キャッスルズだったところはある。カナダはトロントのアンダーグラウンド・シーンから出てきた安っぽいエレ・ポップを鳴らすユニット。ノイズ・バンド出身のボーカルのアリスとガレージ・メタル・バンド出身のイーサンのトラッシュでニート(Neat)な音は何もかもから浮いていたし、ニュー・レイヴ勢にも、デジタリズム、シミアン・モバイル・ディスコ、ジャスティス辺りのニュー・エレクトロ勢にも、「含まれる」ことがありながらも、全くの違和の塊としてはみ出していた。そもそも、彼等のフェイヴァリットはヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、ジョイ・ディヴィジョン、ソニック・ユースな故に、自然とはみ出すのは当たり前なのだが、「Crime Wave」辺りの耳触りの良さが誤配を生んでしまったのかもしれないし、かなり振り切ったライヴをするのと比して、音がコンパクトで小綺麗だったのも問題があったのだろうか。

 その後、必然的に、ニュー・レイヴ勢は停滞し、代表格のクラクソンズの次の一手を打ちだせないという状況下、シーンは明らかにシフト・チェンジした。アンダーグラウンド・シーンの充実と相反するように、表層的なレイヴの狂騒は疎外されていき、ロック×ダンスといったタームも衰微していった。そこで、届いた彼等のセカンドが実に美しい出来になっているのには、或る程度、想像は出来たといえ、嬉しかった。ローファイな質感と、シンセのたおやかさは磨きがかかり、咆哮系の曲よりも、ニューオーダーや初期のデペッシュ・モードを想わせる耽美なニューウェーヴ的な意匠の曲が断然、良い。「Celestica」などまさか彼等の曲とは思えないほどポップで、リトル・ブーツやラ・ルー辺りのサウンドさえも彷彿させる。しかし、打ち消すような変則ビートの曲やゴシックなムードも随所に挟み込まれ、異質感を耳に残す。アイスランドの教会、デトロイトのコンビニ裏のガレージ等を渡って録音されたというのも含めて、散漫さを否めないながらも、ロマンティックなまでに頽廃的な意志を前景化させた深化作と言える。

 個人的に、もっと傍若無人にフリーキーに振り切って欲しかったとも思う部分もある。だが、おそらく彼等の事だから、またそれさえも裏切るような展開を見せてくれる事を確信させてくれる透いたREBELに溢れているという点は評価したい。

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"See? Hamster on my mouse mat. (Sounds like a morrissey title...)"

 これはトレイシー・ソーン本人による5月30日のツイート。きちんとTwitpicで写真も添えられている(マウスマットのうえ、PCのマウスの隣で餌を齧っているハムスターちゃん)。たしかに"Hamster on my mouse mat "はモリッシーのアルバムのソングリストに並んでいても収まりがよさそう(イヤーな感じの歌詞が目に浮かぶ......)。大好物のドーナッツやハムスターの話題を彼女はたびたび挙げている。

 一方で、少し遡って5月14日には、グリーン・ガートサイド(スクリッティ・ポリッティ)から作品を賞賛するメールが届いて冷静さを失っている様子もツイートされている。英ガーディアン紙に掲載されたインタビュー上においても、彼女のドライな筆致で記されるユーモラスな一面は" one of the most entertaining musicians on Twitter "と評されているが、それにしてもモリッシーにグリーンにトレイシー。なんと素晴らしい2010年っぷりだろう。ポストパンク・ジェネレーション万歳!

 そんな彼女のソロ名義としては2007年リリース『Out Of The Woods』以来三作目となる本作は、先述のチャーミングな姿が一見ウソみたいな、渋みと苦みに溢れたアダルト・オリエンテッドな内容に仕上がっている。そのタイトルからして重い。『愛とその裏側』。ことプライベートにおいては、かの偉大なるエヴリシング・バット・ザ・ガール結成以降、長年パートナーとして歩みを共にしてきた(2009年、ついに結婚!)ベン・ワットと、彼の病気など七難八苦こそあれど愛に溢れた生活を過ごしてきたイメージのある彼女の今作における作風は意外といえるし、実に興味深い。

 冒頭の「Oh! The Divorces」は離婚について歌い("次は誰? 次は誰の番かしら?")、次の「Long White Dress」ではマリッジ・ブルーを("それって私の勝手な思い込み?")、さらに三曲目の「Hormones」では母子の在り方の難しさを歌っている("あなたの場合は思春期の、私の場合は更年期のホルモン・バランス。あなたはトンネルに入ったばかりで、私はそこから抜けるところ")。独り者の集うバーで失った若さを嘆きながら手入れの行き届いた爪を見つめ、見通しの立たない救いを求める「Singles Bar」のような曲も収められている。トレイシー本人曰く「40歳を過ぎてからの人生についての作品」とのことだが、不安定な大人の現実がここではことさら厳しく率直に描かれている。

 プロデュースは前作に引き続きイワン・ピアソンが担当。デルフィックやM83『Saturdays = Youth』といった作品のプロデュースや多彩なリミックス・ワークでも知られる、本来はエレクトロニック畑の人物だが、本作では過度の装飾は控えられ、シンプルなSSW作品としての方向性が徹底されている。ホット・チップのアル・ドイル(ナード軍団のなかでは比較的マシなルックスの、ギター担当な人)をはじめとしたゲストも素朴なアレンジに華を添えている。メジャーを離れ、ベン・ワットのレーベル<Strange Feeling>からリリースされたのも功を奏しているのかもしれない(ちなみにアメリカではインディーの一大勢力として盛り返しつつある<マージ>から)。

 歌詞の世界観が過酷だからといえ、本作は心の傷口をライターの火で炙る類の作品では決してない。トレイシーの低く通った歌声は昔より丸みを帯びて慈愛の響きに満ちつつも、28年前の『遠い渚』から変わらず優しく寄り添ってくれる(国内盤でボーナス・ディスクとして収録された5曲入りのデモ音源は、彼女の表現がブレてないことの証明という意味でも聴き応えがある)。同じポストパンク世代であるフォールの新作における変わらぬ破天荒さも爽快だったが、年齢にふさわしい彼女の成熟も愛おしすぎるほどに愛おしい。そして本作にはきちんと救いも用意されている。最終曲の「Swimming」は厳しい世の中に生きる人々の心の闇をほんの少し照らしてくれるような内容になっている。

"Right now we are just keeping afloat
 But soon we'll be swimming,swimming"
("今はただ流れに身を任せ、漂っていればいい。
だけどもう少し、もう少しすれば泳ぐようになるから")

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