ディド『クマー・ソラリウム』(Halidon / Mediane / Flake Sounds)

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 エピステーメーは、ミシェル・フーコーの概念の一つだが、ある時代の社会や人々の生産する知識の在り方を特定付け、影響を与える、知の「枠組」のようなものであり、『言葉と物』での「エピステーメー」における、人の思考はそれが持つ思考体系、メタ的な知識構造に従順になるという構造主義的な見解を示しつつ、ある時代の社会を支配するエピステーメーから開放されるには「エピステーメー」の破壊でしか解決しないという描写があるが、そういう意味で言うと、ポスト・パンクに影響を受けたバンドが犇めいていたニュー・エキセントリックと呼ばれるムーヴメントに属していたバンドがセカンド・フェイズにあたってニュー・ウェーヴ的な意匠へよりギアを変える中、そのニュー・エキセントリック勢が放っていた無邪気な破壊衝動を更に知的に分析する巧妙なテクニックと熱を帯びたバンドにイタリアのディドが居る。

 既に早耳のリスナーの中では、ニュー・エキセントリック勢からの影響以外にも、そのビート感をしてザ・ラプチャーやレディオ4、LCDサウンドシステム、初期クラクソンズの影も見受ける事が出来ると言われているし、実際、サウンドの構築の仕方は70年代のオリジナルのポスト・パンクの香りと攻撃的な脱力性があるクールな格好の悪さは新しく何かを感じさせるし、歌詞の中では「世界が灰色に見える」、「僕らのジャンルって何なのか考えさせて」、「パーティーのためだったら雨だって止められる」といったナイーヴで繊細なものが散りばめられるのにも、今の温度がある。パフォーマンスに関しても如何にもな、アート的な佇まいでセンスが切れたものを見せてくれる。例えば、最初の頃の7インチのシングルにもジーズ・ニュー・ピューリタンズのリミックスを入れるなどぬかりが無い部分があり、確実に射抜くべき対象にブレはなく、その「ポスト-」性は同世代者への安易なコミュニティー意識や共振さえも厭うように、だからこそ、時代遅れとも言えるDFA以降の生音×ディスコ・ビートのスタイルを積極的に援用するのだ。

 デヴィッド・ボウイの「チャイナ・ガール」を想わせるようなチープさとザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」的なフロアー対応までいかない「藻掻き」が彼等の若さと誠実さと経験値の少なさだが、まだ今の段階では命取りになるようなものではなく、チャーミングささえも感じさせる。何にしても、「今」のバンドという気配が充溢しており、後ろも前も見ていないところは頼もしい。

 作品としては、真面目なバンドが現在進行形で影響を受けてきたものをそのまま嚥下して、適切な閾値でアウトプットしたというもので、バリエーションも豊かで鋭角的な曲からバウンシーな曲、ヴァンパイア・ウィークエンドのような玩具箱を引っ繰り返したような可愛らしさを持った曲など、現時点での引き出しの多さも言う事は無く、僕自身としては、ホット・ホット・ヒートやブロック・パーティー辺りに並べたい独特のギクシャクしたムードと、実験を優先している部分には好感を持っている。世界的にどれだけ波及していく音かどうかは正直なところ未知数だが、ディドがやろうとしているトライアルは決して無謀なものではなく、また時代への批評装置として有機的に機能するだろう可能性を秘めている。

 ジグムント・バウマンの言葉でいえば、今、生きている近代社会の特徴を「リキッド・モダニティ(液状化する社会)」と称することができる。その中で、ヴィジョンは、ソリッド(固体)ではなくリキッド(流体)になってしまう。それは「私たちが生きる近代は、全ての流体がそうであるように」、あらゆる想念は長い時間、同じ形にとどまらないからだと言える。バウマンの文脈で、あらゆる要求は、その要求に応えようとする提供者に犠牲を求め、提供者は犠牲の見返りとして幸福を感じることが出来る。しかし、幸福の追求が消費社会と結びついた現代では、マネーが仕掛ける構造の犠牲の意味になってしまい、表現も回収されてしまう事になったのは周知だろう。

 だから、ディドは明確なヴィジョンなど持たずにリキッドなサウンドスタイルを選ぶように「なってしまった」とも解析出来る。ハイパーグローバリズムが名付けたシステムの中での「最良の被害者」としての側面もダイレクトに見られるのにはいささか悲しくもあるが、必ず内破の導線を敷いてくれることを期待出来る、始めの一歩として基点はぶれていないところは応援したい。

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