ルーファス・ウェインライト『オール・デイズ・アー・ナイツ:ソング・フォー・ルル』(Decca / Polydor / Universal)

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 近代においての歴史的な視線は声を常に、「声」の方へと、イデオロギーの方へと、呼び寄せてしまう。声は「物質としての声」であることを剥奪される事になり、一個の根源からの「声」へと還流してしまう。音楽という分野は、抽象的な何かを孕むからこそ、その経験を幻惑的で個的な体験へと転化する。いわば無媒介な根源の到来の場を提示する。例えば、それはジェフ・バックリィーやエリオット・スミス、アントニーの「声」にふと出会ってしまった感覚を想起すれば早いように、声には総てが宿り、またある種、何もかもが無い。

 しかし、「声としての音楽」を考察する際には、政治という領域を辿る懊悩が付き纏うのは周知だろう。ルソーは「言語起源論」の中で、声について語る際、それは政治という言説を形成するものに他ならないと言った。「声」の、また、音楽の体験はそれが個的なものであるにも関わらず、根源への参入の場でもあるが故に、共感の構造の内に共同体を形成させる。近代では、声の共有化の内に、換言すれば音楽の権能の内に機能する。芸術の非政治主義が政治主義そのものに転化する近代のパラドキシカルな構造を此処に可視出来る。

 98年という「近代」に、コール・ポーター、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフ、ランディー・ニューマンなどのポップ・ミュージックのレジェンドからモーツァルト、ヴェルディ、ワーグナーといったオペラの影響を折衷させる力技を試みた時から、ルーファス・ウェインライトは「声の政治性」に自覚的であり、また、ゲイであることの意味を包み隠さない真摯な表現を挑み、その後、必然的に『Want』二部作で豪奢なサウンド・ワークを極め、オペラとロックのダイナミズムを折衷させたパフォーマンスを行なうようになったのは周知だろう。ただ、僕はその過剰になってゆく彼の佇まいとオーバープロデュースとも言えなくもないクラシカルな重みにしんどさをおぼえてきてしまっていたのも事実だ。例えば、セカンドの『Poses』のようなささやかな小品のようなアルバムをまた作ってくれないか、という気になることも多くなっていた。

 6枚目となる今回のアルバム『All Days Are Nights:Songs For Lulu』は全編ピアノの弾き語りで大袈裟なアレンジもなく、全体的に悲痛なトーンで貫かれており、モティーフになったのはシェイクスピアの詩集『ソネット集』であり、昨年のベルリンで上演したロバー・ウィルソン監督の演劇『ソネット』の為に書いた曲の中からも選ばれている。そして、歌詞の内容は闘病の結果、この世を去った彼の母親への想い、妹でアーティストでもあるマーサ・ウェインライトへの呼びかけ、プライベートなものに終始しており、彼の美しい声も伸びやかというよりは、抑え込むように切々とした翳りがある。また、アルバムのタイトルに入っている「ルル」とはドイツ映画『パンドラの箱』でのルイーズ・ブルックスが演じた踊り子の名前であり、彼独特の美意識は徹頭徹尾、ここでも敷かれている。

 これは彼のモノローグにして自己浄化の為のアルバムだと思うが、ニック・ドレイクの諸作をふと想わせる儚さと剥き身の優しい悲しみが充溢していて、ふと涙腺が緩みそうになる瞬間が多々訪れる。ルーファス・ウェインライトという人は完璧主義者というイメージを個人的に持っており、それが故に、入り込めない壁も感じられたのだが、このアルバムから彼の「声」がしっかりと聞こえてくる。

 現代の音楽の地平で、あえて唯物論的に闘うとするならば、そこで発せられる声は、声である訳にはいかない。声は根源であれ、何であれの指示物たることを辞め、「声自体」としてあらねばならないとしたら、「全ての声は既に発せられてしまった」という事実に対峙しないといけなくなる。それは即ち、「新たな声の発見の禁忌」であると言い換えられるが、新たな声はそこに「新しさ」という属性が付与されているが故に、声を放逐してしまう。つまり、新しい声の探求とは、声という象徴性のもとに再び観念化し、寧ろのこと、声の統括能力を補正する機能を担うものになってくる。このアルバムでの彼の孤独で純粋で無垢な声は、まさに政治的でもある。

 このアルバムの閉ざされ方への否定が滞留する内においてのみ、客体は主体の軛(くびき)を逃れ、声は自らを開示するとしたならば、初めてルーファス・ウェインライトは重い観念の鎧を脱ぎ捨て、裸身になれたのかもしれない。

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