YEASAYER『Odd Blood』(Secretly Canadian / Mute)

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 ブルックリン・シーンと呼ばれるものの成熟と岐路を指し示していたのが、何よりも09年のアニマル・コレクティヴの躍進と世界的な高評価だったと僕は思う。Tv On The Radio、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー然り、どうにも「始点」自体が捻じれたバンドが推し進めていった方向性の中で、結実した深みをして、ジャッジする瞬間にピークは過ぎる訳で、ダニエル・カーネマンの言説に沿うまでもなく、そもそも体験の記憶は(集合的な)「主観」によって変えられる。例えば、苦痛の大きさが10として、時間が、5分経過し、終了時の苦痛の大きさが8の場合、仮に苦痛の量を58とする。苦痛の大きさが10で、時間が10分の経過で、終了時の苦痛の大きさが3だった場合、仮に苦痛の量を103とする。苦痛の時間が長く、全体の苦痛の量が大きくても、最後が3だった場合、最後の苦痛が98だった場合より、「より、ベターな記憶」が残る。

 ならば、集合的無意識の誤作動がブルックリンを取り巻く磁場に確実にあった筈で、それは決して他の音楽シーンが退屈で面白くなかった訳では無く、昨年のアニマル・コレクティヴが「My Girls」で描いたサイケデリアの曲線が例えば、コーチェラや苗場に虹を架けるような美しさを持ってして、09年のサウンドスケイプは「本当」に描けるのだろうかという疑義に繋がる。要は、もうブルックリンは熟していた。

 ブルックリンという都市は、経済的に人口区分するならば、区内の労働者人口は44%であり、その他は区外、つまりはマンハッタン等に出る。また、移民の流入率の高い都市でもあり、混在した文化要素が流入するメルティング・ポットでもあり、音楽にも自然と雑成分が高くなるからこそ、面白いバンドが出てくる背景がある。

 そういう文脈で言えば、イェーセイヤーはブルックリン的な混沌と人種の多様性を象徴するバンドであり、ピーク・エンドを弁えたスタンスを持っている。初期構成としてはヴォーカリスト、マルチ・インストゥルメンタリスト、ソング・ライター、聖歌隊という奇妙な構成を保っていたサイケデリックなバンドだった。07年の『All Hour Cymbals』はじわじわと草の根的に世界に伝播していき、その熱量の高いパフォーマンスは多くの人を魅了したのは周知だろう。既に、昨年の時点でPV含め、局地的なバズを起こしていたリード・トラックの「Ambling Alp」では、フレンドリー・ファイアーズ「Paris」以降の感覚論で、野卑なダンス×パーカッシヴな躍動感をリプレゼントしていた。

 今回の、満を持してのセカンド・アルバム『Odd Blood』は明快に「ポップ」な振り切れを為している。ファーストの頃のミステリアスでレイジーなムードは後退したが、その分、アレンジがソフィスティケイティッドされ、3分前後から5分程の曲まで「間延びのしない」タイトな内容になっている。これは或る意味で、MGMTの話題のセカンド『Congratulations』とサウンドの洗練のされ方が似ているのもあり、参照点が違うだけの"失われた双子作"とも言えるかもしれない。MGMTがアノラックやネオアコやブライアン・イーノに目配せしつつ、ソニック・ブームを招く「旧さ」と並行して、彼等は今回、メンバーの変遷を経て、ティアーズ・フォー・フィアーズやピーター・ガブリエルの仕事で有名なジェリー・マロッタのホーム・スタジオを三ヶ月借りたなどのエピソードを踏まえるに、こちらも「旧さ」で言えば、ニュー・ウェイヴの影響が強く、バネやリズムはア・トライヴ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルの「それ」を彷彿とさせる。このサウンド・ワークの明快さが吉と出ているのは特に「O.N.E.」かもしれない。ディスコ・ビートを援用しながら、バウンシーにクラウドを鼓舞させるコンパクトなキラーチューンになっている。ブッシュ政権下でのヒッピーイズムの申し子たちが、オバマ政権下で唱えるサイケデリアはどうにも煌煌とした鮮やかさがある分だけ、資本主義を「意識」してしまったという歯切れの悪さも含んだ、非常にウェルメイドな作品になった。今年のフジロックで満を持して、彼等はパフォーマンスを行なうが、どういったものを見せるのか、個人的に興味をそそられる。00年代のUSインディー・シーンを牽引してきたLCDサウンドシステムが自発的に役割を終える中、何らかのバトンの方向は彼等の近くを廻るかもしれない。

編集部注:日本盤は5月19日(水)にBeatよりリリース予定。

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