UNKLE『ホエア・ディド・ザ・ナイト・フォール』(Surrender All / Traffic)

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 サリンジャーの哲学とは青さを「青」のまま定義せずに、彼岸の視点からユースフルな遣り切れなさを筆致した点に尽きると思う。かの『ライ麦畑でつかまえて』にしても、実は通底するキーワードはまがまがしさ(phony)だ。既存のヒーロー崇拝主義に対して冷水を浴びせ、アンチを唱える事で、また一種の神秘性を自分のナラティヴに持たせることに対しても懐疑的な視点を持ち、意味ありげなアフォリズムめいた独白をカットアップさせ、クールに「見せかける」所作は発表当時よりも現代社会のシステム構成論が堅固になっていくにつれ、より響くようになったが、主人公コールフィールドのヴァルネラヴィリティとは結局、何をサルベージして、何を突き放したのか、見定めないと、サリンジャーの仕掛けた単層的な罠に自意識側が飼い慣らされたままになってしまう。

 だから、勘違いされているきらいがあるが、90年代後半に風のように現れて熱狂を攫ったベル・アンド・セバスチャンはサリンジャー的なイコンでは決してなく、98年の「This is Just A Modern Rock Song」という批評的で挑戦的なタイトルの曲内で歌われる「ぼくはドストエフスキーほど悲愴でもないし マークトウェインほど賢くも無い」という真面目なシニシズムを額面通り受け止めるべきであって、そこに余計な青さを付加する必要性など無かった。つまり、R.E.M.が標榜するヴァルネラヴィリティとは、知的体力の強靭さを奪回せしめるように、参照点や教科書はそう簡単ではなく、一元的である筈がない。

 前置きが長くなったが、憂鬱の、未成熟の、多義的な、「青さ」を確保し続けてきたプロジェクトとして、時に、過剰になってしまうサウンドの振れ方をして、アンクルは常に反射鏡的な存在だったし、僕はその「浮き方」をいつもストリート・カルチャーに収斂させることなく、良質な一音楽として語れない(語らない)評論磁場にも少しだけ辟易もしていた。

 アンクルとは、つまり平易に言えば、大人が懸命にふざける、という所作であり、自分の足許を見られてはいけないというスタイリッシュな逃避意識が逆説的に「シーン」内で括られ、「名札」を付けられてしまうアイロニー的な装置化をどう軽やかに越境してゆくかを考え続けたジェームズ・ラヴェルの切実な内面と嗜好性に準拠した大人の実験工房なのだ。

 アブストラクト・ヒップホップを地表化させる為に、Mo'Waxレーベルを立ち上げ、常に話題になった客演アーティストのフックアップと、ベック以降のセンスをゴリラズ的なエクスペリメンタル性で煮込んだ音像は常に先鋭性を持ちながらも、異端であり、時に、ストイック過ぎるきらいもあったが、いつも刺激的だった。98年の『サイエンス・フィクション』でのリチャード・アシュクロフトやトム・ヨーク、マイクD等の招聘を掻き消す(寧ろ、拒絶する)ような、非・意味的な在り方は、マッシヴ・アタック『メザニーン』やレディオヘッド『OK Computer』的な深く重い音がデフォルトになっていた当時のシーンには、多大なる影響を与えた。DJシャドウとのタッグを離れての03年の『Never Never Land』はオーガニックでメロウな滋味深いものになったが、そこで客演していたクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムのモードに引っ張られたのか、07年の『War Stories』ではストーナーロックへと舵を切り、不穏でダークで分裂的な様相を極め、初期にあったストリート・カルチャーに目配せをしていたプロジェクト性は実質的に、記号化しており、ジェームズ・ラヴェルの個人的な関心に準拠した展開を見せていった。そのアンクルの展開は自然とストリートの音楽がグライムやダブ・ステップといった音楽の流れと結びつき、エッジを極めるのと比して、シーンとの接合点がぼやけていき、センスが先走る孤高のプロジェクトと化していった点は否めない。

 今回、デビューから12年目にして、通算4作目になる『Where Did The Night Fall』は清冽でサイケリデリックでクオリティの高い内容で、アンクルが築き上げてきたサウンド・ワークの集大成とも言える洗練を持つが、どうにも「90年代的な音」になった。それは、マッシヴ・アタックの佇まいと同じく、世界は別に変わらないから、スタイルを変える必要もない、という大人の諦念と寛容が彼岸的な観点から切り取られているとも換言出来る。アートワークはウォーレン・デュ・プリーズとニック・ソーントン・ジョーンズが担当しているが、これはトマト×アンダーワールド的な感じも思わせるし、10年代的なゴリラズのヴァーチャル的な凄味を持ったハイエンドなワークを越えるものではなく、サウンドもダヴィーで多国籍な音楽の上澄みを掬いあげているが、フライング・ロータス辺りのビートが提出されている今、どうにも野暮ったさが残る。そう、ウェルメイドなのだが、どうにも居心地の悪い作品になっている。3D、デーモン・アルバーン、ボビー・ギレスピー辺りの亡霊がちらつく磨き抜かれたサウンドスケイプはだがしかし、アンクルが試みてきたオリジナリティも確かに明滅するという理由を相対化はしない。

 10年代に入り、混沌としてきた今に、この作品を積極的に敢えて評価する意味は僕には正直、あるのかどうか分からないし、そんな意味など考えなければ、存分に「クール」なアルバムとして楽しめるし、今現在のロンドンの持つ多次元文化主義的な雰囲気を持っているのも含めれば、個人的には好きな音が集まっていると言えるのだが、どうにも批評し辛いのは、簡単にサイケだとかアフロだとか言うには切実な、phonyがあるからだ。

「ここは高みではなく、淵だ」ということを示す圧倒的な整合性は遂にここまで来たし、まだまだ往くだろうという確信が伝わってくる充実したものになった。その過程であり、結実では無い。

 ジェームズ・ラヴェルという人が、90年代の幸せだった(だろう)カルチャーの生き証人でもあり、00年代をどうにかサヴァイヴしてきた重みを強烈に感じさせる作品として、意義は深い。

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