古川日出男『MUSIC』書籍(新潮社)

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 何かに名前をつけるとそこに意味が生まれてその名前による因果が始まる。名前とはそのものを解放し呪縛する。そして名前はひとつだけではない、例えば親から付けられた名前は変わらないが(法律的には変える事は可能だがほとんどの人はしない)、その人と対する人との関係性で愛称は変わるし、呼び名も変わる。

 古川日出男著『MUSIC』の冒頭は「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。しかし、いまはまだ名前がはない」と始まる。夏目漱石著『我輩は猫である』の冒頭は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ」と始まる。

 前者は名付けられるが、小説は猫の視点だけで語られてはいない。後者は名付けられないままに、その我輩と自ら名乗る猫が語り手として小説を語る。

『我輩は猫である』は有名な「猫小説」である。ならば『MUSIC』は「猫小説」であるか否か。もちろん「猫小説」だ。

『MUSIC』の前史には三島賞受賞作品『LOVE』という作品がある。もちろんこの『LOVE』も「猫小説」であり、対となるのは直木賞候補になった「ベルカ、吠えないのか?」という著者の作品で犬たちの系譜の小説で第二次世界大戦から冷戦終了までを犬の視線でその一族史で語る「犬小説」だった。

『LOVE』は目黒川が流れ東京湾に注ぐ流域の目黒区、品川区、港区が舞台となっている。僕は以前目黒川の始まりである国道246で区切られた世田谷区と目黒区の目黒川の始りから東京湾まで歩いた事がある。天王洲アイルまで、その後そのまま東京タワーまで歩いていった。東京タワーに歩いていったのは僕の理由があったからだったが。

 僕は歩きながら小説の中に出てきた品川駅が港区にある事を確かめたり、国立自然教育園に立ち寄ったりした。歩いて僕が感じたのはここはかつて海だったんだという事。

「LOVE」=「愛」は明治維新以降に英語が入ってきてその訳として「愛=あい」という言葉が当てられ定着した言葉。だから「愛」という漢字は存在していたが「愛=あい」という意味ではなかった。

 首都・東京は海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語。だからきっと「LOVE」なんだと僕は思った。その続編にもなり、数名の同一人物のその後が描かれているのが『MUSIC』だ。

『LOVE』の文庫のあとがきに古川さん本人が『LOVE』『ゴッドスター』『MUSIC』は同じ系譜にあると書いている。『LOVE』が新潮文庫から発売されたことでこの三作は新潮社から刊行されている。

 古川日出男新潮三部作とも言えるかもしれないが、僕はこの三作の舞台がさきほど書いたようには海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語である共通から「古川湾岸三部作」と名付けたいと思う。

 ただし新作『MUSIC』は東京と京都という二都が舞台になりさらにスケールを拡げている。京都には僕が目指した東京タワーではなく京都タワーが存在している。もちろんシンボルは物語の中で重要な意味を持つ。

 作者の古川日出男氏は「朗読ギグ」やイベント等で自身の作品を朗読している。彼の作品の特徴は声に出して読むことで文体が、単語がさらに強化される「小説」である。そこには何があるのか? そうリズムがある。

 文体のリズムがあり、声を出して読むことでそれは「音楽」にもなりえる言葉の強さがある。古川さんと「朗読ギグ」をしたZAZEN BOYSの向井秀徳さんが作る音楽のように言葉とリズムがせめぎ合い新しい音楽と文学を創造する。そして作品を読んでいくと古川さんの小説と向井さんの音楽が共鳴していることに気付く。彼らは共犯者なのだと僕は読みながら感じて嬉しくなった。

『MUSIC』はスタバだけの物語ではなくスタバと邂逅する人物たちの物語でもある。彼らはもちろんスタバと邂逅するし(一人はスタバと名付ける名付け親だ)、そして物語の主軸になるスタバが「MUSIC」を鳴らし、ニャつがどしどしと蹴って歩いて横断して連鎖させて地面という譜面に音符を書きなぐる、もちろんその肉球で。

 スタバと邂逅する人物たちも彼らも彼らの行動や思惑で音符を、そして各自の物語が、音符が鳴り響いて音楽が生まれて「小説」になる。この作品はそういう小説であり音楽だ。ハーメルンの笛吹きのような猫笛で数十匹の猫を引き連れていっていても、物語の始まりにはスタバがいる。そうこれは現在進行形の僕らの時代の「猫小説」なのだ。

 物語の最後は畳み掛けるように終結していく。様々なピースが、音符がそこに集結して一気に鳴らす。文体のリズムは音楽だとも思うし、そういうことを意図的に書いているのが古川さんの小説の特徴だ。ジャンルのクロスオーバーみたいだ。

 古川さんらしいというかお得意でもある言葉遊びみたいな単語の使い方やルビ。それが物語の展開にしてもそこから起因している所が大きいし、だからやっぱり読みながら、読み終わって思うのは古川文学は、古川さんは小説を「マジメにふざけて」やっているということだ。

 そこには覚悟とか自信とか自分にしか出来ない事をやろうという明確な意志がないと無理だからだ。新しい何かを生み出そうとする明確な意志だ。それが「マジメにふざける」ことができる本質というかコアだ、そう核だ。だからこそ僕は惹き付けられる。

 あなたが今現在最高にエッジが効いてて、音楽が鳴り響き、笑っちゃうぐらいにふざけている小説が読みたいのならこの『MUSIC』がある。

 笑ってしまうぐらいにカッコいいのか、カッコいいから笑ってしまうのか、どっちなのかわからないけどそれは新しい時代を作る最先端を疾走するエッジの効いた音楽も小説も一緒だと思う。

 古川日出男作品を読むと無性に歩きたくなる。僕らの人生に「物語」が溢れていることを教えてくれる、あるいは再認識させてくれる。そこには著者が歩いて見たその景色の肌触りが小説を通して僕らに伝わってくるから。

 僕らは歩いて生き、生きて歩いていく。

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