May 2010アーカイブ

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先ほどのアントニーに関するニュースで触れたダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウルの公式リリースに関して、音楽プロデューサー竹内修氏からツイッター上で情報が入った。日本のアマゾンにはまだアップされていないものの、アメリカのアマゾンでは既に予約が開始されている

このダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウルは、ザ・シンズのジェームス・マーサーと組んでブロークン・ベルズ名義のアルバムもリリースしたばかりのデンジャー・マウスが、先頃亡くなったスパークルホースのマーク・リンカス(R.I.P.)、そして映画監督デヴィッド・リンチと3人集まって始めたユニット。

以前から音楽に造詣が深いことで知られていたデヴィッド・リンチは、アートワークを担当するのみならず、ミュージシャンとしてもプレイしている。ゲスト参加者も豪華そのもの。先述のジェームス・マーサーを筆頭に、フレーミング・リップス、イギー・ポップ、スザンヌ・ヴェガ、ピクシーズのブラック・フランシス、ザ・ストロークスのジュリアン・カサブランカス(!!!)、スーパー・ファーリー・アニマルズのグリフ、カーディガンズのニーナ、グランダディのジェイソン・ライトル、そして(R.E.M.から敬愛されていたことでも知られる南部のシンガー・ソングライター)ヴィック・チェスナット...。

最後に名前を挙げたヴィックも、マークと同じ頃に亡くなっているのだが(R.I.P.)、こういった事実を単なる感傷で片づけるわけにはいかない部分もある。

実はこのアルバム、昨年前半に完成していながら、レコード会社から突如発売中止のアナウンスがあった。詳しい事情はわからないものの、それを受けたミュージシャン側は非公式すれすれの(ネットを駆使した)音源流通を試みつつ、派手な展開はできないままになっていた(それはそうだろう。レコード会社に訴えられたら元も子もない...。このあたりの事情に関する推測は、クッキーシーン73号の記事でもふれた)。

それが、近々ようやく公式リリースされる。このジャッジに関して、ふたりの死が「商業的ポテンシャル」としてカウントされていないと、誰が断言できるだろう?

それでも、この素晴らしい作品(昨年しばらくの間、ウェブ上でストリーミング試聴が可能となっていた)が公式に世に出ることは。音楽ファンにとって喜び以外の何者でもないことはたしかだ。

せめて、ひとりでも多くの心ある音楽ファンが購入し、愛聴盤となることを願う。

2010年5月7日3時35分 (HI)

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その中性的な歌声と卓越したセンスで音楽ファンを魅了しつづけるアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズが、2009年の傑作『The Crying Light』につづく新作を、早くもこの秋にリリースするという。

ラフ・トレード・レコーズのサイトによれば、ヨーロッパでは10月5日にラフ・トレードから、USでは6日にシークレットリー・キャナディアンからリリースされる予定。

そのうえ、エイブラムス(Abrams)というアート・ブック出版社から144ページの豪華本つきスペシャル・エディションが発売されるらしい。

デヴィッド・バーンとファットボーイ・スリム新作の限定盤や、昨年リリースされるはずだったのに「空のCDRつき豪華本」のみが自費出版で流通したダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル(Dark Night Of The Soul:デンジャー・マウスと故マーク・リンカス、デヴィッド・リンチによるユニット。近々ようやく音源が公式リリースされるという話もある。詳しい情報は雑誌クッキーシーン73号P24〜27参照)など、書籍+音楽という形が今後さらに広まっていくかもしれない。

2010年5月7日1時29分 (HI)

2010年5月6日

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 宇宙? 夜空? それとも誰かの心の闇? ピンクのトゲトゲの球体が宙に浮いている。よく見ると小さな窓が開いていて、中から光がこぼれている。ザ・シンズのジェームス・マーサーとデンジャー・マウスのユニット、ブロークン・ベルズの初めてのアルバムは、そんなジャケットが象徴するように浮遊感あふれる美しい歌がたくさん詰まっている。

 このアルバムを入手してからすぐ、 YouTubeでライブの映像を見た。僕はデンジャー・マウスが動いている姿を初めて見て、とてもビックリした。ドラムを叩いてる! 考えてみれば当たり前のことかも知れない。いくつもの名作アルバムでトラック・メーカーを努めてきたんだもの。ドラムが叩けて当然でしょう。でも、やっぱり僕には新鮮だった。ジェームス・マーサーとデンジャー・マウスにとって、ブロークン・ベルズは「コラボ」や「ユニット」というお互いの線引きをはっきりさせた関係性ではなく、ひとつのバンドなんだという印象を持った。2人の音楽性を有機的に絡め合わせること。だから、こんなにも親密でソフトな歌がいくつも生まれたんだと思う。ナールズ・バークレイやゴリラズの『Demon Days』、ベックの『Modern Guilt』のような斬新なビートのアプローチは控えめ。ジェームス・マーサーが紡ぐ極上のメロディに寄り添うようなサウンド・アレンジが心地良い。

 ロックの歴史は数多くの優れたメロディ・メーカーによって作られてきた。その歴史はこれからも変わらずに続くだろう。そして、いつの時代も耳を傾けさえすれば、素敵な歌が聞こえてくるはずだ。数年前、ヒップ・ホップからやって来たデンジャー・マウスは、「ジャンルなんて関係ねーよ」と僕たちに教えてくれた。ロックだろうとヒップ・ホップだろうと、そこにある言葉とビートが基本。白も黒も混ぜてみろと。そこから、ほんのちょっと歴史は動いたのかもしれない。

 もうみんなが知っている。デンジャー・マウスは美しいメロディをもっとキラキラさせる魔法を持っている。ちょうど、ピンクのトゲトゲの球体からこぼれる光のように。

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 10'sを牽引する可能性を秘めているオールディ・ワールディ(沼田壮平)によるファースト・フル・アルバム。邦楽の匂いが完全に剥落しており、けれどオルタナティヴの教科書をなぞっただけのような洋楽志向もない。日本人にとっての新たなパラダイムにもなり得るアルバムかもしれない。

 中性的な声と荒々しいギターと優しいメロディの共生。転じて涼やかなポップ・ソング。そして他の日本人アーティストと比べて、とにかく一聴した時の情報量が膨大だ。重厚なコーラスもアコギのじゃりっとした音も、それらは虚飾になることなく楽曲を彩色させており、どこから切っても世界基準に準拠した質感のそれである。

 日本のロックはといえば、左右に配置された二本のギターとドラムとベースとヴォーカルだけで楽曲が構成されており、良くも悪くも余計な音がない。それは既に日本独自の方法論と化しつつある。オールディ・ワールディは、その格式から逃れようとしている数少ないアーティストの一人と言えるだろう。アレンジの卓越さにしろ、情報量にしろ、両者の間には歴然とした差があると思うのだが、シンプルさを好む日本人に必ずしも享受されるわけではないようだ。勿論、音楽が情報量の多さや派手さを基盤としたものでないことは認知しているつもりだが。

 この新作も前作と同様に、ロック、ポップ、フォーク、ヒップホップと無造作に楽曲が揃っており、彼の多様な側面を覗かせる。統一感がないといえばそれまでだが、それは溢れて止まらない個性の洪水を汲み取るには、ロックやポップという一つの器だけでは足りないからである。事実、ビルト・トゥ・スピルを彷彿させるような13曲目を聴き終わった後に得られるカタルシスは凄まじい。

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 ブログのコメントに書かれた一言で人は自殺してしまうし、悩みを口に出せずに飲み込んでしまうこともある。無防備なままでは生きていけない、なんて言われても、つい頷いてしまうことがあるかもしれない。決して、人間は、強くない。僕もそうだ。不安や怯えやわだかまりが、常に亡霊のように付きまとう。でも、前作も欧米で高い評価を得たグラスゴー出身のギター・バンド、フライトゥンド・ラビットの通算3作目となる『The Winter of Mixed Drinks』を聴いたその瞬間、僕は震えるほど嬉しくなった。本作を聴くことは、音楽性の高さと同時に、偽りの無さを、音に宿った体温を、なによりもやさしさを肌に触れ合わせるほど親密に感じることなのだから。

 聴いていると音が寄り添ってくるようだ。前作同様、ザ・ナショナルや、シガー・ロスのヴォーカリスト、ヨンシーなどのプロデューサーでもあるピーター・ケイティスがプロデュースを務めたことで、地に足が付いた落ち着きの、その一息つけるような音の余白が奏功している。余白を埋めるシューゲイザー風味のギター・サウンドや弦楽器によるストリングスの優雅なオーケストラ・アレンジの中で、スコット・ハチスンの、ほんの少しひねくれていて、でも程良く苦みが効いた声で歌われるうたの全ては丁寧に言葉を選びながら和やかに発せられ、絡まった気持ちの糸をほどいてくれる。それが嬉しくて清々しくて気持ちが良くて、感情の不安定な揺れはするすると抜け落ちて消えてしまう。

 特に「The Wrestle」や「Skip The Youth」においては、ポップにして哀感を含んだグラスゴーらしい胸の深くに染み込むメロディ、それとともに歌声やコーラス、ストリングス、アコースティック・ギター、新メンバーとして加わったゴードン・スキーンのマンドリンやキーボードなど、数々の音が幾重にも重なり、ちいさく渦を巻き始め、それは次第に大きくなり、やがて高くへ解き放たれたその刹那、希望と言っても差し支えのない光に満ちたサウンドに包まれて、放心、昏睡、あるいは心酔。甘美な音と心地が溢れ出す。

 攻撃的な音の一切がない本作は、打ちつけられるようなビートを奏でても、フィード・バック・ノイズを奏でても、どれを取っても無防備だ。触れれば壊れそうなほどに無防備なのだ。しかし、いや、だからこそなのか、僕は、そしておそらく誰しもが、この音楽が鳴っている間は警戒心など丸めて窓から投げ捨てて、あけすけになることを許される、そんな音の中に身を置いてしまう。

 そうして気付く。無防備でいることは強さなのだと。全てを抱擁してしまうやさしさなのだと。僕はその強さに、涙をこらえた。『The Winter of Mixed Drinks』は僕らの弱さを肯定する。武装しても、敵を作るだけなんだ。

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 本作『Port Entropy』はトクマルシューゴの最新作にして、これまでのキャリアの一つの集大成であり、現時点での紛れもない最高傑作である。正直、感動した。圧倒された。

 たとえば。彼と同時代を生きるバンドであるダーティ・プロジェクターズもキャリアの初期をひとりぼっちの、ややコミュニーケーション不全的なローファイ・ポップからスタートさせたが、『Rise Above』にて女性シンガーと強靭なバンド・メンバーを従えるスタイルに転向、絶妙な配置をすることでストレンジなソウル・ミュージック像を提示し、そのスタイルを次作の『Bitte Orca』で完成させた。

 しかし、トクマルはライブにおいては(もちろん、私生活などにおいてもそうだろうが)多くの仲間に支えられつつも、ことアルバム制作においては「ひとりぼっち」に拘り貫いたまま、以前からの彼のスタイルである箱庭型トイ・ポップを洗練に洗練を重ね、理想的な形で提示している。ある種絵本的な、純度の高い音の妄想空間がここでは広がっている。

 これまでどおりのプライベートな音像でありながら実にリスナー・フレンドリーな肌触りであり(こちらの慣れもあるのかもしれないが)、Ele-Kingのサイトに掲載されている岩崎一敬氏の本作へのレビューにおける「初期の作品で描かれていた風景は、どちらかと言えばトクマルの脳内を覗いているような感覚があった。新作は彼がCDの中に箱庭をつくった、そんな感じだ」という一節は実にこの作品についてよく言い表している。手招きにつられて部屋に入って、そのまま居座っても笑って許してくれそうな居心地のよさというか。

 先にリリースされたEPにて既に発表されていた「Rum Hee」は、彼が前作アルバム収録の冒頭曲「Parachute」以上に「真っ当な」ポップ・ソングを書けるようになったことを証明した、印象的なフレーズのリフレインとリズム・パートのダイナミズムが心地いいナンバー。「River Low」や「Drive-Thru」といった曲では手癖ともいえる小慣れたメロディとともに彼の十八番的なトイ・ポップが展開されている。以前の作品ではやや線の細さも目立ったが、本作は「Straw」のような音圧の太さの目立つ楽曲も収録されていている。

 にしても、多種多様の音が鳴っている。先日、彼が特集され話題になったNHK「トップランナー」番組中でも披露された、観客も交えた非楽器による即興演奏には観ていて圧倒されたが、あのとき見せた鮮やかな手つきでもって膨大な数の楽器・非楽器が演奏、録音された様子が目に浮かぶようだ。

 カラフルな音色の有機的な配合とその整頓具合、近年のブルックリン勢にも通じるひねくれた感覚・曲進行、そして自身の夢から着想を得ることが多いという風変わりな歌詞、爽やかな歌声。アルバムは一寸の隙もなく、37分弱という収録時間も繰り返し聴き返すのにちょうどいい。彼の音楽が既に広く世界中の賞賛と支持を集めているのは周知の通りだが、それらがまったく過大評価ではないことはこの作品に耳を傾ければ簡単に理解できる。

 ただ、贅沢をいえば。この作品は傑作であるが、想定外の作品かというとそうでもない。

 先日、本人がパーソナリティーを務めたUstreamでのプロモーション番組において、(何ともミスマッチで愉快なゲストであった)ロマンポルシェ。の掟ポルシェ氏が彼の音楽性について「Charaみたいな」と、ポロっとこぼしていたのが僕にはとても印象的であった。

「Charaみたいな音楽」の良し悪しも、実際にトクマルシューゴの音楽がそういう音楽なのかどうかもここで論ずるするつもりはもちろんないが(僕はそこまでとは思いませんよ!)、彼の幼馴染にしてライブにおけるバンド・メンバーでもある盟友、シャンソンシゲル氏のデザインした本作のジャケットにせよ、過去の作品と比べてもやや安全な「オシャレ」に迎合しすぎている気がしないでもない。

 もしそうだとして、音楽が広く聞かれるための選択としてそれももちろん間違いではない。しかし、iTunes Store上で既に公開されている彼の選曲したプレイリストや、本人が日頃から言及している、敬愛する音楽家やバンドの名前を眺めてから本作を聞き返すと、どうも本人の資質や志向性とは別の安全すぎる方向に進み、リスナーからもやや無難な消費のされ方をしているように映る。

 もっと露骨に書けば「たまには毒も吐いてよ、トクマルさん!」というか。前にも"草食系男子コンピ"『Sweet Voices - Gentle Boyfriends』に楽曲が収録されたりもしていたが、なんかそういうのだけじゃなくて! スマートな姿勢だけでなく、もっと感情や皮肉も露わにしたシンガー・ソング・ライターとしてのトクマルシューゴだって見たい。そういう性格ではないのかもしれないけど、結構似合うだろうし面白いと思うんですが。

 それに比べると最近活動を再開した、彼と彼の幼馴染によるバンド、ゲラーズの風通しのよさとメンバー間の緩いノリのほうに僕はどうしてもシンパシーを抱く。先日観たライブにおいても、楽器の弦はすぐに切れ、MCもグダグダで、演奏も勢い任せであったが、そのぶん「何が起こるかわからない」空気がフロアに満ちていた。その危なっかしい刺激こそが、音楽のもたらす感動と直結しているようにも思う。

 それこそ、彼のようなコントロール・フリークの箱庭型ポップ職人であれば(だいぶ例えは古くてすいませんが)、過去にはトッド・ラングレン『魔法使いは真実のスーパースター』(敢えて邦題で)や、XTCの『Big Express』のような、過剰にアイディアを詰め込みすぎてリスナーを突き放すような歪すぎる怪作も世に放たれている。本来は優れたメロディ・メイカーでもある彼らが放った、ああいった狂気の沙汰のようなスリリングなポップ・ミュージックも、彼なら涼しげな表情のまま平然と作り上げてしまいそうで、才能が図抜けているだけにどうしてもそういう方向にも期待してしまう。

 繰り返すが、本作は彼の現時点での最高傑作であり、一寸の隙もない充実した音楽作品である。彼の現行のスタイルは完成間近で、円熟期すら迎えつつある。トクマルシューゴはそのルックスもあって、小沢健二以来の、日本の音楽シーンにおける待望の「王子様」だと言い出す人も出てくるだろう。王子様なら多少のご乱心を見せてもファンは笑って支持してくれるのではないか。ひとまず足場が固まったなら、次はポップ・ジーニアスの壊れた姿も一ファンとして見てみたい。

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 ブルックリン・シーンと呼ばれるものの成熟と岐路を指し示していたのが、何よりも09年のアニマル・コレクティヴの躍進と世界的な高評価だったと僕は思う。Tv On The Radio、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー然り、どうにも「始点」自体が捻じれたバンドが推し進めていった方向性の中で、結実した深みをして、ジャッジする瞬間にピークは過ぎる訳で、ダニエル・カーネマンの言説に沿うまでもなく、そもそも体験の記憶は(集合的な)「主観」によって変えられる。例えば、苦痛の大きさが10として、時間が、5分経過し、終了時の苦痛の大きさが8の場合、仮に苦痛の量を58とする。苦痛の大きさが10で、時間が10分の経過で、終了時の苦痛の大きさが3だった場合、仮に苦痛の量を103とする。苦痛の時間が長く、全体の苦痛の量が大きくても、最後が3だった場合、最後の苦痛が98だった場合より、「より、ベターな記憶」が残る。

 ならば、集合的無意識の誤作動がブルックリンを取り巻く磁場に確実にあった筈で、それは決して他の音楽シーンが退屈で面白くなかった訳では無く、昨年のアニマル・コレクティヴが「My Girls」で描いたサイケデリアの曲線が例えば、コーチェラや苗場に虹を架けるような美しさを持ってして、09年のサウンドスケイプは「本当」に描けるのだろうかという疑義に繋がる。要は、もうブルックリンは熟していた。

 ブルックリンという都市は、経済的に人口区分するならば、区内の労働者人口は44%であり、その他は区外、つまりはマンハッタン等に出る。また、移民の流入率の高い都市でもあり、混在した文化要素が流入するメルティング・ポットでもあり、音楽にも自然と雑成分が高くなるからこそ、面白いバンドが出てくる背景がある。

 そういう文脈で言えば、イェーセイヤーはブルックリン的な混沌と人種の多様性を象徴するバンドであり、ピーク・エンドを弁えたスタンスを持っている。初期構成としてはヴォーカリスト、マルチ・インストゥルメンタリスト、ソング・ライター、聖歌隊という奇妙な構成を保っていたサイケデリックなバンドだった。07年の『All Hour Cymbals』はじわじわと草の根的に世界に伝播していき、その熱量の高いパフォーマンスは多くの人を魅了したのは周知だろう。既に、昨年の時点でPV含め、局地的なバズを起こしていたリード・トラックの「Ambling Alp」では、フレンドリー・ファイアーズ「Paris」以降の感覚論で、野卑なダンス×パーカッシヴな躍動感をリプレゼントしていた。

 今回の、満を持してのセカンド・アルバム『Odd Blood』は明快に「ポップ」な振り切れを為している。ファーストの頃のミステリアスでレイジーなムードは後退したが、その分、アレンジがソフィスティケイティッドされ、3分前後から5分程の曲まで「間延びのしない」タイトな内容になっている。これは或る意味で、MGMTの話題のセカンド『Congratulations』とサウンドの洗練のされ方が似ているのもあり、参照点が違うだけの"失われた双子作"とも言えるかもしれない。MGMTがアノラックやネオアコやブライアン・イーノに目配せしつつ、ソニック・ブームを招く「旧さ」と並行して、彼等は今回、メンバーの変遷を経て、ティアーズ・フォー・フィアーズやピーター・ガブリエルの仕事で有名なジェリー・マロッタのホーム・スタジオを三ヶ月借りたなどのエピソードを踏まえるに、こちらも「旧さ」で言えば、ニュー・ウェイヴの影響が強く、バネやリズムはア・トライヴ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルの「それ」を彷彿とさせる。このサウンド・ワークの明快さが吉と出ているのは特に「O.N.E.」かもしれない。ディスコ・ビートを援用しながら、バウンシーにクラウドを鼓舞させるコンパクトなキラーチューンになっている。ブッシュ政権下でのヒッピーイズムの申し子たちが、オバマ政権下で唱えるサイケデリアはどうにも煌煌とした鮮やかさがある分だけ、資本主義を「意識」してしまったという歯切れの悪さも含んだ、非常にウェルメイドな作品になった。今年のフジロックで満を持して、彼等はパフォーマンスを行なうが、どういったものを見せるのか、個人的に興味をそそられる。00年代のUSインディー・シーンを牽引してきたLCDサウンドシステムが自発的に役割を終える中、何らかのバトンの方向は彼等の近くを廻るかもしれない。

編集部注:日本盤は5月19日(水)にBeatよりリリース予定。

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 何かに名前をつけるとそこに意味が生まれてその名前による因果が始まる。名前とはそのものを解放し呪縛する。そして名前はひとつだけではない、例えば親から付けられた名前は変わらないが(法律的には変える事は可能だがほとんどの人はしない)、その人と対する人との関係性で愛称は変わるし、呼び名も変わる。

 古川日出男著『MUSIC』の冒頭は「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。しかし、いまはまだ名前がはない」と始まる。夏目漱石著『我輩は猫である』の冒頭は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ」と始まる。

 前者は名付けられるが、小説は猫の視点だけで語られてはいない。後者は名付けられないままに、その我輩と自ら名乗る猫が語り手として小説を語る。

『我輩は猫である』は有名な「猫小説」である。ならば『MUSIC』は「猫小説」であるか否か。もちろん「猫小説」だ。

『MUSIC』の前史には三島賞受賞作品『LOVE』という作品がある。もちろんこの『LOVE』も「猫小説」であり、対となるのは直木賞候補になった「ベルカ、吠えないのか?」という著者の作品で犬たちの系譜の小説で第二次世界大戦から冷戦終了までを犬の視線でその一族史で語る「犬小説」だった。

『LOVE』は目黒川が流れ東京湾に注ぐ流域の目黒区、品川区、港区が舞台となっている。僕は以前目黒川の始まりである国道246で区切られた世田谷区と目黒区の目黒川の始りから東京湾まで歩いた事がある。天王洲アイルまで、その後そのまま東京タワーまで歩いていった。東京タワーに歩いていったのは僕の理由があったからだったが。

 僕は歩きながら小説の中に出てきた品川駅が港区にある事を確かめたり、国立自然教育園に立ち寄ったりした。歩いて僕が感じたのはここはかつて海だったんだという事。

「LOVE」=「愛」は明治維新以降に英語が入ってきてその訳として「愛=あい」という言葉が当てられ定着した言葉。だから「愛」という漢字は存在していたが「愛=あい」という意味ではなかった。

 首都・東京は海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語。だからきっと「LOVE」なんだと僕は思った。その続編にもなり、数名の同一人物のその後が描かれているのが『MUSIC』だ。

『LOVE』の文庫のあとがきに古川さん本人が『LOVE』『ゴッドスター』『MUSIC』は同じ系譜にあると書いている。『LOVE』が新潮文庫から発売されたことでこの三作は新潮社から刊行されている。

 古川日出男新潮三部作とも言えるかもしれないが、僕はこの三作の舞台がさきほど書いたようには海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語である共通から「古川湾岸三部作」と名付けたいと思う。

 ただし新作『MUSIC』は東京と京都という二都が舞台になりさらにスケールを拡げている。京都には僕が目指した東京タワーではなく京都タワーが存在している。もちろんシンボルは物語の中で重要な意味を持つ。

 作者の古川日出男氏は「朗読ギグ」やイベント等で自身の作品を朗読している。彼の作品の特徴は声に出して読むことで文体が、単語がさらに強化される「小説」である。そこには何があるのか? そうリズムがある。

 文体のリズムがあり、声を出して読むことでそれは「音楽」にもなりえる言葉の強さがある。古川さんと「朗読ギグ」をしたZAZEN BOYSの向井秀徳さんが作る音楽のように言葉とリズムがせめぎ合い新しい音楽と文学を創造する。そして作品を読んでいくと古川さんの小説と向井さんの音楽が共鳴していることに気付く。彼らは共犯者なのだと僕は読みながら感じて嬉しくなった。

『MUSIC』はスタバだけの物語ではなくスタバと邂逅する人物たちの物語でもある。彼らはもちろんスタバと邂逅するし(一人はスタバと名付ける名付け親だ)、そして物語の主軸になるスタバが「MUSIC」を鳴らし、ニャつがどしどしと蹴って歩いて横断して連鎖させて地面という譜面に音符を書きなぐる、もちろんその肉球で。

 スタバと邂逅する人物たちも彼らも彼らの行動や思惑で音符を、そして各自の物語が、音符が鳴り響いて音楽が生まれて「小説」になる。この作品はそういう小説であり音楽だ。ハーメルンの笛吹きのような猫笛で数十匹の猫を引き連れていっていても、物語の始まりにはスタバがいる。そうこれは現在進行形の僕らの時代の「猫小説」なのだ。

 物語の最後は畳み掛けるように終結していく。様々なピースが、音符がそこに集結して一気に鳴らす。文体のリズムは音楽だとも思うし、そういうことを意図的に書いているのが古川さんの小説の特徴だ。ジャンルのクロスオーバーみたいだ。

 古川さんらしいというかお得意でもある言葉遊びみたいな単語の使い方やルビ。それが物語の展開にしてもそこから起因している所が大きいし、だからやっぱり読みながら、読み終わって思うのは古川文学は、古川さんは小説を「マジメにふざけて」やっているということだ。

 そこには覚悟とか自信とか自分にしか出来ない事をやろうという明確な意志がないと無理だからだ。新しい何かを生み出そうとする明確な意志だ。それが「マジメにふざける」ことができる本質というかコアだ、そう核だ。だからこそ僕は惹き付けられる。

 あなたが今現在最高にエッジが効いてて、音楽が鳴り響き、笑っちゃうぐらいにふざけている小説が読みたいのならこの『MUSIC』がある。

 笑ってしまうぐらいにカッコいいのか、カッコいいから笑ってしまうのか、どっちなのかわからないけどそれは新しい時代を作る最先端を疾走するエッジの効いた音楽も小説も一緒だと思う。

 古川日出男作品を読むと無性に歩きたくなる。僕らの人生に「物語」が溢れていることを教えてくれる、あるいは再認識させてくれる。そこには著者が歩いて見たその景色の肌触りが小説を通して僕らに伝わってくるから。

 僕らは歩いて生き、生きて歩いていく。

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 冬だった。僕はコートの襟を立て、首をすくめ、西荻窪駅の改札口を出た。駅前は会社帰りのサラリーマンや女子高生、買い物帰りの主婦で溢れている。彼らや彼女達のしゃべり声、電車の音が嫌に耳についた僕はCDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうとバッグに手を入れた。その瞬間、かすかではあるが、バイオリンの音色が聞こえてきた。

 どこかの店がラジオでも流しているのかなと思ったが、駅の路地を出るとバイオリンを持ったひとりの白人男性が立っていた。年は三十代半ばに見える。すらりと背が高く、高級そうな黒い紳士服を着用し、顔は端正だ。彼の仕草、振舞いは、まるでクラシックのコンサート会場から飛び出てきたようだった。演奏を一通り終えると彼は丁寧にお辞儀をし、周りに集まった人々に文字が書かれている青い紙を手渡していた。集まっていた人々と言ってもわずか5人程度だが。

 紙には「ヤレック・ポヴィフロフスキ」と書かれている。名前のようだ。僕は全く知らない。経歴も書かれていて、首席で有名な音楽大学を卒業し、権威ある賞も取って、かなりのエリートなのだが、「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」という持論から様々な国を転々とし、路上で演奏をしているとのことだ。笑顔を忘れず、聴き入っている人々に愛想良く振舞う彼の紳士的な佇まいに好感を持った僕は足を止め、しばらく演奏に耳を傾けた。

 新宿駅を出た辺りでロック・バンドやどこかの国の民族音楽を演奏する人たちを目にするが、たったひとりでバイオリンを弾く人は見たことがなかった。外で演奏するということは、当然騒音も入ってくる。車の音。電車の音。人のしゃべり声。決して音が大きいとは言えないバイオリンを外で弾くことは、周りの雑音によって音がかき消される可能性が高いわけで、ある種、自殺行為のように思えた。それゆえ、ジョン・ケイジのように雑音をも音楽として捉え、自分の音楽に取り込むような演奏をするのか、もしくは即興演奏をするのかな、と思ったのだが、全くそのような素振りは無く、有名なクラシックの楽曲を楽譜どおりに演奏していた。三分か二分に一度の割合で、ガタンゴトンと電車の音が不器用に聞こえて来る。その度、バイオリンの音はかき消される。全くと言っていいほど聴こえない。僕は外でバイオリンを弾く意味を解せなかった。

 そこで一通り演奏が終わったとき、僕は片言の英語で尋ねてみたのだ。「なぜ外で演奏するんですか?」と。きっと皮肉に聞こえたのだろう。彼の表情は一変した。文字通り全身のジェスチャーを交え、「何を言っているんだ! どこで演奏したっていいじゃないか。僕はただ、みんなに聴かせたいだけなんだ!」。そう説明してくれた。いや、訴えたと書いた方がベターかもしれない。僕は英語が苦手であるから意訳ではある。ただ、彼の表情は真剣だった。

 そうなのだ。元々音楽は生活に密着したカタチで存在し、鼻歌や口笛や、それこそ人がなんとなくリズムに乗って膝を叩く音が音楽であったりした。音楽評論家の小泉文夫氏は代表的な例として「わらべうた」を挙げている。どこで演奏したって、どんな音を奏でていたっていいのである。つまり、「音楽=CD」「音楽=コンサート会場で聴くもの」という概念は音楽を商業または芸術として捉えて初めて出てきたものなのだ。音楽はCDやライヴだけではない。小波の音を音楽として聴く人がいるし、東南アジアにはにわとりの声を音楽として聴く人が存在する。僕らは、いや、もしかしたら僕だけかもしれないが、音楽はCDに収録されているもの。ライヴ会場で演奏されるもの。そんなふうに音楽を物凄く限定された世界に押し込めてはいないだろうか。

 もちろん音楽が芸術、そして商業として捉えられたことで発展してきた部分は大きい。CDもレコードもラジオもなかったら、僕らはここまで音楽に夢中になることはなかったかもしれない。だが、発展したがゆえに、芸術や商業として捉えられるようになったがゆえに、リスナーに優劣を付ける風潮があるのも事実だ。なんだか、それが、哀しいのだ。

 ヤレック・ポヴィフロフスキ。彼が西荻窪駅前で奏でたバイオリンの音色は人々の心に届かなかったかもしれない。無視して通り過ぎた人も多くいただろう。それでも彼は今も世界のどこかでバイオリンを弾いている。「音楽をコンサート会場に閉じ込めてはいけない」「音楽とは自由だ」という意思を込めて。

 だが、その演奏に聴き入っていた僕の右手には、見事にパッケージングされたCDという名の商業音楽が、「NO MUSIC NO LIFE」と書かれた黄色く眩しい袋とともにあった。
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