May 2010アーカイブ

2010年5月11日

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「インディー・ロック界のスターが集結したスーパー・グループ!」と、鳴り物入りでデビューして以来、着実に良質なポップ・アルバムをリリースし続けてきた彼ら。07年の4thアルバム『Challengers』以降、A.C.ニューマン、デストロイヤー(&他いろいろ)、そしてニーコ・ケイスのソロ作品など、各メンバーの課外活動を経て、満を持して5枚目のアルバムがここに届けられた。

 本作は、各自の活動の中で培われた要素がバンドに還元された一枚だと言えるだろう。例えば、随所に導入されたストリングスのアレンジはA.C.ニューマンのアルバム『Get Guilty』の流れを汲んでいるし、相変わらずパワフルで美しいニーコの歌声は昨年のソロ作『ミドル・サイクロン』を経て、切ない響きを増したように思える。ダン・ベイハーの書くメロディは、デストロイヤーやスワン・レイクで聴く時よりも仄明るく、力強く響くし、映画監督でもあるキーボーディストのブレインが監修した「Our Hands(Together)」のミュージック・ビデオも面白い。このように、メンバーそれぞれの持ち味、それぞれの表現が組み合わさる(文字通り『Together』する)ことで、作品に深みが生まれている。そして、そんな『Together』の輪はメンバーの間だけに留まらない。ベイルートのザック・コンドン、オッカヴィル・リヴァーのウィル・シェフ、セイント・ヴィンセントことアニー・クラークなど、現代のUSインディー・ロック・シーンに欠かすことのできない面々がゲスト参加。

 このように、完成度・話題性ともに高く、この作品がこれまでより多くの注目を集めることは間違いないだろう。ポップ・ミュージック・ファンで、この作品を好きにならない人はいないのでは?とさえ思えてしまう。「ストリングスやホーンが使われている」「何重にも重なったコーラス・ワークが美しい」という音楽的な側面だけではなく、あらゆるものを引き寄せ巻き込むエネルギーを持った、そんな一大ポップ・シンフォニー。

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 コートニー・ラヴという人は本当に! スキャンダラスな話題ばかりを振り撒いて、すっかりゴシップクイーンに成り下がってしまったかと思っていたら、いつのまにこんなアルバムを作っていたのか! しかも12年ぶりのホールの新作とは! 曲作りをしている、レコーディングをしているという話だけは伝わってきていたが、ホール復活どころか再び歌ってくれるのかどうかすらわからなかったこの数年、彼女の声を待ち侘びていた者としては、どんなに悪い噂が彼女を取り巻こうとも手放しで迎え入れたい気持ちだ。

 なのに、首から下のマリー・アントワネットの肖像といい、「ジェーン・グレイの処刑」の画といい、随分と不吉な暗喩を含んでいそうなジャケットには、華々しいカムバックの雰囲気は感じられない。昨年末にカートの忘れ形見フランシスの親権を再び剥奪されるという、最近で一番悪いニュースであったに違いない事件の後に『Nobody's Daughter(親なき娘)』というタイトルを冠してしまうなど、この作品には悲痛で哀しい彼女の数年が刻み込まれているのだ、ああどれほどつらい日々を送って来たのか、と私は思った。実際、前作『Celebrity Skin』を包み込んでいた、ロサンゼルスの波のようにキラキラとした希望の光は見当たらず、どこか陰欝で暗い雰囲気が漂い、コートニー独特のポップさも派手さも鳴りを潜めている。意外にもファースト・インプレッションは暗く哀しい作品というものだった。

 しかし、シンプルなギターのストロークと彼女の声がいつまでも耳に残る。ヘッドフォンを外しても頭の中で彼女が叫ぶのだ、「あたしは生きる、あんたはどう?」と。昔と少しも変わらない、ハスキーで投げやりにも思える歌声には随所に彼女の鼓動が息づいていて、咆哮とも叫びともつかない生への渇望に満ちたその声が、これまでのどの作品よりも生々しく、そして痛々しく私達に届く。無駄なものを一切入れずストレートに作られたサウンドは、より彼女の声を引き立たせてリアルなものにし、心の深いところに容赦なく真っ直ぐに入ってくる。美しい言葉とスラングが混在した歌詞には絶望や希望が交差し、混沌としながら愛を欲する彼女の内面がとても私的に記されている。タイトルトラックである「Nobody's Daughter」はコートニーの手を離れてしまったフランシスのことだとすぐにわかるし、「Honey」にはカートへの想いが綴られている。「Samantha」で娼婦に自身を重ねつつも、「Letter To God」では"Can you help me?"と神に救いを求める。その叫びは痛々しくこそあれ、弱さは少しも感じられない。これは哀しい作品なんかじゃない。生きようとする強い意思の表われた、まさに復帰にふさわしい作品だ。これこそが彼女の傷だらけの生き方なのだ。悲劇のヒロインなどコートニーには似合わない。

 コートニー・ラヴという人を知ってから15年近く経つ。彼女の声が好きで、ルックスが好きで、破天荒な生き方が好きで、ずっと彼女を追いかけてきた。しかしここ数年、耳に入ってくるのは心配なニュースばかり。ゴシップやトラブルにまみれ、彼女の姿は見えなくなりかけていた。私の好きなコートニーはどこかへ行ってしまったのか...と思いかけた時、この力強いアルバムとともに彼女は戻ってきた。苦しい時ほど歌えと言わんばかりに。見失いそうだった彼女は今しっかりとここで歌っている。失って失って傷つけ傷ついてきた彼女は、それでも生きるのだと再び前を向くことを選んだ。そして今の彼女にはホールという居場所がある。支えてくれるメンバーがいることで、もっともっと自由に歌えるはずだ。コートニーにはソロアーティストとしてよりも、もちろん女優やパーティーに顔を出すセレブとしてなんかよりも、バンドを率いるフロントマンとしてステージに立つのが似合っている。下着のようなドレスから白く長い手足を放り出して、ギターを掻き鳴らしがなる姿はこれからもずっと私の憧れだ。

 彼女を好きじゃない、むしろ嫌いだという人は多いかもしれない。ほとほと愛想を尽かしたという人もいると思う。けれど自分にまとわりつく数々の雑音を、ここまで力強いパワーで跳ね返せる人はそうはいない。どうか彼女の外側で起こる出来事に目を向けるのではなく、内側から生み出される力を感じてみて欲しい。私達が思っている以上に必死に、一生懸命に、純粋に生きているのがわかるはずだから。

 PLAY THIS RECORDING VERY VERY LOUD PLEASE. - 彼女がこうライナーに記した通り、ぜひ大音量で彼女の鼓動を聴いて欲しい。

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 1999年の結成以来、言葉を持たない音楽を、言葉以上のメッセージに変換して、世界各地のあちこちで魅了しつつ、インストゥルメンタル・ロックの可能性を押し広げてきたMONO。今作はそんなバンドの結成10周年を記念して、24人のオーケストラ(Wordless Music Orchestra)を従えてニュー・ヨークで演奏されたライヴを音源、映像を完全パッキングした2枚組の作品。オーケストラを従えて制作された最新作『Hymn To Immortal Wind』からの曲を中心に、「Where Am I」や「Are You There」など過去の作品からの名曲も交えた全10曲、90分のセットリスティング。最新作の曲は、オーケストラルなアルバムを完全再現して圧倒し、過去の曲はオーケストラとの協奏により新たな命が吹き込まれ、どの曲もクラシカル・ミュージックが持つ荘厳なスケールと、MONOというバンド本来の持つ静寂と激動による爆発的なダイナミズムが合わさり、とてつもないエネルギーの創造に成功している。録音には元Minus The Bearでも知られる敏腕エンジニアのマット・ベイルズが担当し、バンドとオーケストラの息遣いのみならず、会場の張り詰める空気感やオーディエンスが高揚する様を、生々しく、余すことなく収録。バンドが体現したかったであろう、シネマティックで音像的な世界観と、その場で起きた歓喜の連続を、より一層耳と目で堪能することができる作品です。

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 いきなりだけど、アーチー・ブロンソン・アウトフィット(Archie Bronson Outfit)の2006年にリリースされた彼らにとってのセカンド・アルバム『Derdang Derdang』は本当に素晴らしい作品だった。クリーム以来のハード・ロック/ガレージ・ロックの伝統である重たいギター・リフと煙ったい空気。髭ヅラ野郎ども(見た目もわかってる)のスリーピース演奏は重々しくも一体感が生む躍動感に満ち溢れていた。楽曲のツブが高いレベルで揃っていることもあり、個人的にも当時のお気に入りの一つだった。こんな格好いいバンドをバーで発見したというドミノの社長、ローレンス・ベルはさすが、大した彗眼の持ち主だ。

 彼らにとって不幸だったのは、リリースされた時期がちょうど00年代におけるガレージ・リバイバルのピーク・タイムだったことで、だからこそ注目は浴びたが、悲しいかな作品の良さに見合った評価はそれほど得られなかったように思う。日本でも残念ながらそれほど彼らの名前を聞く機会はなかった。そのシーンで突出した成功を見せた、レーベルの同僚でもあるアークティック・モンキーズの『Humbug』が好きな人たちには、ぜひあのアルバムも聴いてみてほしい。どちらが上とかは言わないけど、結構気に入ってもらえると思う。

 そんなこともあってかどうかはわからないが、次の作品を産み出すのに彼らは4年近くかかってしまった。そして、彼らの音は変わった。

 どう変わったかはPVを見比べるとイメージしやすい。まずは先に挙げた『Derdang Derdang』からの一曲「Dart For My Sweetheart」のPVを見てみよう。モノクロの映像。ずいぶん密接したバンドの演奏。それに合わせて踊り狂うグルーピー。チープなアニメーションも実に60年代的でわかりやすい。

 では次に、最新作『Coconuts』からシングル・カットされた「Shark's Tooth」を。宇宙船に乗りこみ、バイキング風の妙な衣裳を身に纏う3人。惑星に着陸してなぜか演奏を開始。大地は裂けて未来都市が突然聳え立つ。ベースからビーム! 両手からもビーム!(ホット・チップ「I Feel Better」のPVもアホすぎて素敵だったが、今年はビームがPV業界のトレンドなのかもしれない) 今様な映像はエフェクトも凝りまくってる。にしても、変なPVすぎだろ。

『Coconuts』ではプロデュースをティム・ゴールドワージー(Tim Goldsworthy)が担当。DFAレコーズの共同オーナー、U.N.K.L.E.の元ドラマーにして、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアや、カット・コピー『In Ghost Colours』、ラプチャー『Echoes』など、エポック・メイキングな作品の数々を手掛けてきた一方、過去には学校を中退して英国中でマイブラの追っかけをしていたという愛すべき人物である。

 バンドの音は彼の経歴と実に忠実に、とてもわかりやすく変化した。ニュー・ウェーブ的で金属質なエフェクトとけたたましいノイズが幾重にも張り巡らされ、ヴォーカルにも全編エコーがよく効きまくっている。楽曲はグっとダンサブルになった。ただ正直にいえば、特にアルバム中盤の数曲においては試みの全てが成功しているとも言い難く、過度期の作品と見なすべきかもしれない。(昔からのファンからは特に)賛否両論となりそうな作品だが、個人的には彼らの大胆な人選と遊び心をぜひとも支持したい。

 音像がブルージーな路線からディスコ・パンク気味に変化しても、リフ主体の獰猛でトライバルなサイケデリック・ロックの本質は変わっておらず、もっとも重要な魅力である「単純にかっこいい」部分はそのまま貫き通されている。冒頭の数曲の熱気は生半可な気分で流行に乗ったバンドには出せない迫力があるし、ジャケットの青くて丸い何かがコロコロ転がっていく画が浮かびそうな「Chunk」はほのぼのとしていて可愛らしい。暴走するノイズに乗せてひたすら叫びまくるだけの「Wild Strawberries」にしても、ヴェルヴェッツ・マナーに則ったキック・ドラムの連打に合わせて朗らかに歌われる「Run Gospel Singer」にしても、本当にかっこいい。かっこいいというその事実以上にあと何か必要だろうか。来日公演は必要だ。ぜひ生でライブ見てみたいです。凄そう。

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 絵本の表紙のような、物語の始まりを感じさせるハンドメイドなジャケットがまず眼を引く。ノスタルジアが湧き上がるこの作品につけられたタイトルは『風向計』。収録曲からは『かいじゅうたちのいるところ』を思わせるようなノスタルジアが広がり、南風がそよいでくるようだった。

 このフリーランス・ホエールズ(Freelance Whales)は、2008年に結成した、NY・クイーンズを拠点とするニュー・カマー。NYの路上や駅でのバスキングを繰り返して実力をつけてきた5人組だ。ネットにアップされた楽曲がブロガーに注目され、ピッチフォークやNMEなどで取り上げられて話題を集めてきた。そんな彼らがリリースしたデビュー・アルバムがこの『Weathervanes』だ。

 アルバムを貫くのは、オーガニックで土着的なサウンドと人肌の温もりあるエレクトロの融合。言いかえれば、スフィアン・スティーヴンス+ポスタル・サーヴイスといったところだ。バンジョーにグロッケンシュピール、ハーモニウム、ギター、チェロ、ドラムなどによる素朴なサウンドに、シンセサイザーやテルミンによる電子音を加えている。シンプルなメロディと豊かなコーラスで構成されたシングル曲「Generator 1st Floor」でアルバムは幕を開ける。その後、パッション・ピットの「Sleepyhead」を思わせる「Starring」や、スフィアン・スティーヴンスのアルバムに収録されていてもおかしくないような「Broken Horse」など、ヴァラエティ豊かな楽曲が並んでいるが、そのどれもがトウィーなセンスとセピア色の郷愁をたたえている。リード・ヴォーカルのユダ・デイドン(Judah Dadone)はファルセットの優しい歌声を聴かせてくれるし、男女混声のコーラスはとても和やかだ。だからきっと、13曲45分を聴き終えるころには、あなたの表情も優しくなっていることだろう。

 そういえば、彼らが所属しているのはレ・サヴィ・ファヴのメンバーが運営するレーベル=フレンチキス・レコーズ。パッション・ピットやドードースといった、ポップネスとダンサブルな要素を兼ね備え、インディ・リスナーの注目となったバンドがいるところだ。このフリーランス・ホエールズも続くことができるか? アルバムを聴きながら見守ろうじゃないか。

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「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴を持っている。情熱の根源には、たいてい、汚れた、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外から刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。」(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)

 旧くはブライアン・ウィルソンが表象していたようなパラノイアじみたポップへの意識の深さ、または、70年代のトッド・ラングレンの見せていた無菌室的なポップ、CTI界隈のスムースな音像、日本で言うならば、はっぴぃえんど、大瀧詠一、山下達郎、高野寛、青山陽一など各諸氏、初期のキリンジ辺りが体現するロマンティックながらも、どうにも聴き手側の勝手な同一化を拒む透徹とした佇まい、「YOU&I」を描きながら、それをメタ認知で筆致しつつ、緩やかに完璧に固められたサウンド・ワークの背景に潜む創り手の凄まじい情念に触れてしまった様な人は多い事と察する。僕自身、高度に構築された「ポップ」というのに或る種、畏敬と畏怖を同時に感じてしまうのは、スッと耳を流れていくように思えて、良いステレオ・システムやライヴで聴くと、その楽器のバランス、アレンジの緻密さにアーティスト側の過激なラジカリズム(急進性)を垣間見えるからだ。下手な大文字の「ロック」よりも業の深さが滲み出ているとでも言えるだろうか。そういえば、かのエリック・クラプトンがジョアン・ジルベルトのコンサートを観に行った際、彼の「正確で複雑なリズム感覚」にインスパイアされた、という逸話などもそこには付加出来るかもしれない。クラプトンのあのリズムのジャスト感というのも時に凄いものがある。

 今や結果的に、田中拡邦氏のソロ・プロジェクトとなってしまったが、彼がファースト・アルバム『Mamalaid Rag』時のインタビューで、ボサ・ノヴァと言えば、アストラッド・ジルベルトを挙げていて、サンタナのAOR方面への傾斜期の『Festival』というアルバムの「Give Me Love」への愛を語り、アレンジメントの例として、ギル・エヴァンスの名を挙げていたのも非常に面白かった。それは、とても、「旧き良き、アメリカ」へのオマージュと共に、一本筋の通った美意識が貫かれている頼もしさを明確に受け止める事が出来たからなのもあるし、その純然たる覚悟に感銘を受けたというのもある。

 思えば、初期の彼等のライヴを観た際に、たまたま同席した40代の女性が「彼等を聴くと、もう死語かもしれないけど、シティー・ミュージックって言葉を想い出すのよね。」と言っていたが、僕は少し違う角度から、彼等の音楽には「仮想化された都市へのアーバン・ブルーズの捧げ方の麗しさ」と「"白い"ブルーズへ向けたノスタルジアの現代的な再現」を忖度していた。特に、インスト曲内で、ジャム的になだれ込む演奏は、CCRの影さえちらついた。

 しかし、周知かもしれないが、ママレイド・ラグの道程とは、とても困難を極め続けた。02年のメジャー・デビュー当時からの老成した佇まいの音と、その音楽性の純度の高さ、プロフェッショナリズムと比して、セールス的な評価とのアンバランスさと、田中氏の凄まじい職人気質と音質への拘り、コントロール・フリーク振りが時に、玄人、好事家筋の審美眼内で回収されてしまうきらいもあり、どうにも凡庸なイージー・リスニング的な括りの中で語られてしまう事も多い存在であったとも言える。03年の5曲入りの「きみの瞳の中に」(ここに収録された「泣きたい気持ち」は今でも、"60年代の3分間ポップ"の躍動感を閉じ込めた、屈指の名曲だと思う)、タイアップもついた04年のシングル「そばにいたい」辺りでは一瞬、シーンで地表化する気配も見えたが、「完全なる手触りの音」を求める為にマイクの立て方、8トラックのアナログ・レコーダーを取り入れ、レコーディングの模索を試みる中で頓挫した結果(その一瞬の成果は05年のシングルの「街灯/ふたりで目覚めたら」で味わえる)、スタジオ・ワークに戻り、作った06年のセカンド・アルバム『Mamalaid Rag2』は決して、悪くないものの、既発曲の多さに埋もれてしまった感もあり、不完全燃焼的なムードと、今後の展開を予期せしめるような物悲しさも備えていた。そして、バンド形式から田中氏のソロ・プロジェクトとなり、稀なライヴと客演等がありながらも、本体の音信が途絶えつつある中で、08年にレコーディングに入り、シングルとして、「Ophelia」、「空に飛ぶ想い」、「すてきなダンス」という完成度の高い音源を次々と発表した。

 そんな中、今年に入って、満を持しての4年振りの『Spring Mist』が届けられた。良い意味で本当に変わっていない、田中氏のポップ・マエストロ振りが発揮されながら、今までで一番、軽やかで爽快感に溢れた内容になっている。02年のメジャーでの最初のミニ・アルバムが「春雨道中」という象徴的なタイトルだったからして、また紆余曲折を経て、「春(Spring)」に戻ってきたというのも手応えも感じる事が出来るし、自らの過去を既にある種、対象化して、新しい道を進もうという多種多様なサウンドへの試みも詰まっていて、言うことが無い。ジェームス・テイラーやジャクソン・ブラウン辺りを彷彿させるフォーキーでトラッドなウォームな肌触りの曲から、これまでの流れを継承したジョン・メイオール&ザ・ブルーズブレイカーズ、レオン・ラッセル、エリック・クラプトン辺りを現代的な解釈にした曲、ナイアガラ・サウンド的な曲、宅録的な様相を持った曲、ストリングスが絡んだ流麗なバラッド、ザ・ホリーズ、初期のザ・ビートルズ、ポール・マッカートニー&ウイングス辺りを参照にしたビート感溢れた曲など、これまで以上にバリエーションに富んだ内容ながら、全体を通した一貫性はムラが無く、通気性が良い。このアルバムには、潔癖症的なまでに音楽への確かな情熱に裏付けられた美学が充溢している。

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 様々なイメージの断片が交錯しつつ、どうしようもなくポップ。京都出身だが現在は東京で活動している小野暁のサード・アルバムは、彼が経てきた様々な体験が理想的な形で結実した作品となった。

 ほぼ彼ひとりによる多重録音ファースト・アルバムにつづいて、ライヴ・バンドを率いてレコーディングされた2007年の前作は『The Days Of Perky Pat』と題されていた。フィリップ・K・ディックの短編から引用された言葉。「小説の内容との関係性を強く感じてつけたというより、言葉が想起させる非現実的な日常といったイメージに強く惹かれた部分が大きいと思います」と彼は語っていた。実際、表面的に「フィリップ・K・ディック的な音楽」というより、彼の世界の奥底にある「泣きたくなってしまうほどの暖かい人間性」に通じる部分があると感じた。

 そのときおこなわれたインタヴューで彼は、とくに影響を受けたソングライターとして、プリファブ・スプラウトのパディー・マクアルーンとXTCのアンディー・パートリッジを挙げていた。一方、テニスコーツの準メンバーとして、さらにはマヘル・シャラル・ハッシュ・バズへの参加歴でも知られていた。『The Days Of Perky Pat』にはセカンド・ロイヤルのレーベル・メイト、ルーファスやコレット、そして(BMXバンディッツの一員として来日した際に共演したことが縁となり)パールフィッシャーズのメンバーも参加していた。こういった様々な要素がようやくまとまりかけていたのが前作だったとすれば、今回の『Tales From Cross Valley』ではプロデューサーにデヴィッド・ノートンを迎えることで、その多面的な魅力が自然にまじりあい、過不足なく表現されている。

 スコットランドはグラスゴーで活動を開始、ロンドンをへて、現在は東京をベースに活動しているデヴィッド・ノートン(David Naughton)は、ティーンエイジ・ファンクラブ、ベル・アンド・セバスチャン、モハーヴィ・スリー(Mojave 3)、ライラック・タイムのスティーヴン&ニック・ダフィー、そして最近ではセカンド・ロイヤル期待のニュー・フェイス、ザ・ニュー・ハウスといった人たちと関わってきた。『Tales From Cross Valley』では彼自身がベースをはじめとする様々な楽器を手がけ、ニック・ダフィーやメトロ・オルガンなど彼ゆかりの人たちも参加している。京都のユニット、ナイト・テラー(Night Teller)をフィーチャーし、彼らがヴォーカルをとっている曲さえあるのだが(ソングライターでありヴォーカリストである個人名を冠したユニットとしては異例...)それさえ難なく溶けこんでいる。

 牧歌的とも都会的とも言いきれない、人なつっこいんだけど、不思議なひっかかりのある世界。楽しい、でもどこかに悲しみをたたえている。ちなみに彼はモンティ・パイソン/ニール・イネスの大ファンで、ラトルズのカヴァーをライヴでずっとやっていたらしい。ちょっとクセのあるヴォーカルも、なんとなくその系譜。オシャレというより、洒落ている。そこが好き。

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 数々のエレクトロニック・ミュージシャンがメロディ志向や生楽器の大胆な投入、またはダンス・ビートの強調へ向かう中、そんなことはおかまいなしと突き進むオウテカ。音を徹底的なまでに研ぎ澄ませ、繊細でいて複雑な一つひとつの音が持つ情報量に圧倒される本作『Oversteps』は、まったく、ほんとうに、作り込まれた一音が尋常じゃない。それだけでオウテカは聴き手を自陣に一気に引き入れる。もうその時点で勝負ありだ。

 初期の傑作『Amber』や、かなりIDM的な『Incunabula』と比べられることが多い本作であるが、とぎれとぎれのポップ性を散りばめ、精密な構築美と、乱暴とも言える破壊美。その両極端の美しさを同時に鳴らしてしまう点は、いやはや、耳を刺激し、昏睡と覚醒をも同時に誘う音の強度が増したことと相まって、過去最高なんじゃないかと叫びたくなる。しかも隙あらば背中を狙って叩きのめしにくるような緊張感があるからたまらない。ランダムなビートが渦巻くこの音楽に顔をうずめてしまえば理性など吹っ飛ぶよ。とにかく、最高潮に興奮する。すなわち、カッコいい。

 しかしこのふてぶてしさといったらなんだ。カリブーや、同レーベルWarp所属のクラークなどがダンス・ビートを強調した作品を発表する中にあって、オウテカは『Oversteps』を目の前にしたリスナーに向かって不敵に笑ってみせる。踊るのか? それとも鑑賞するのか?

 すなわち、音楽が与える人間の原初的欲求と、近代の「鑑賞する」という概念欲求を同時に煽る音を鳴らしている。しかもそれをリスナーが選択できる余地を与えるかのごとく、ノン・ビートの楽曲を交えるという、巧妙なトラップを設けているからエスプリが効いているというか、にくいというか...。

 とはいえ、べらぼうに難しい音楽ではない。紛れもなく美しく、ポップであり、聴き終えたときの清々しさといったら過去の作品にはなかったものだ。「暗すぎる」「冷たすぎる」と批評された00年代の作品を、爽快で、清々しくある本作で痛快に払拭し、光を一点に込めたような音が次々と溢れる音楽性が大胆なまでに開花した。『Incunabula』や『Amber』よりもイノセントな匂いたっぷりに。それはおそらく、音が持つ最も美しい奏でを抽出し、なおかつ楽曲にスペースを残し、様々な音を泳がせるという意味で、無意識的にマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』にも通じる美をも獲得した結果だろう。

 『Oversteps』は彼らの次なる一歩の記録である。それは実に鮮やかだ。オウテカを敬遠している方にも薦めたい。素晴らしいよ。

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ご存じのとおり、イギリスの総選挙では久々に保守党が第一党に返り咲いたものの、第一党が議会で過半数を確保できない「ハング・パーラメント」状態となっている。

それに絡んで、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カブラーノスが、選挙中にまたもやツイッターで豪快/爽快な言葉を発信していた

「マードック(訳注:イギリス最大の大衆紙『ザ・サン』も傘下に持つ「メディア王」。長年の労働党支持をひるがえし保守党に鞍替えした)のオマンコ野郎! くたばれ『ザ・サン』! キャメロン(訳注:保守党党首)のキンタマ野郎! 保守党なんかに投票するな(まあ、これを読んでいる人は、もちろん誰もそんなことしてないと思うけどさ...)!」(訳注:今でも「公式に」口にするのは一応それなりにはばかられる「FUCK」という単語を、何通りかのパターンで意訳)

以前からツイッターで歯に衣着せぬ発言を飛ばしていることが話題になっているアレックス。この熱い発言も、残念ながら保守党の勢いをとどめられなかった。にしても、保守党「完全勝利」ではなかったわけだし...。とにかく、ミュージシャンがこのような発言をおこなうことは、基本的に素晴らしいのではないだろうか。

2010年5月9日7時46分 (HI)
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