May 2010アーカイブ

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「ガールズ」や「ドラムス」など検索し難いバンド名が流行中(?)の昨今だが、このバンドもちょっと検索し難い。彼らの名はマーチング・バンド。スウェーデンのリンシェーピン出身の、エリックとジェイコブという2人の青年によるユニットだ。本作は、各方面で絶賛されたファースト・アルバム『スパーク・ラージ』に続く2ndアルバムで、エド・ハーコートやカメラ・オブスキュラ、コンクリーツの作品で知られるヤリ・ハーパライネンがプロデュースを手がけている。美麗なピアノで幕を開ける「ANOTHER DAY」から、ほとんど産業ロック(?)なギター・ソロがフューチャーされた「OKEY」まで、前作よりもアレンジの振れ幅が広がり、聴き手を飽きさせない構成になっている。もちろん彼らの持ち前のキラキラした美メロは健在で、二人のヴォーカルのハーモニーもバッチリ。同郷のローニー・ディア辺りにも通じる、丁寧に作り込まれた楽曲群は、インディー・ポップ・ファンのハートを鷲掴みにして離さないだろう。

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「書を捨てよ、町へ出よう」とはいったもんで、引き籠ってばかりじゃあ頭でっかちになるばかり。おまけに人との会話も億劫になってしまうから困ったもので、「書を捨てよ、町へ出よう」に賛成だ。町へ出て、色々なことを体験した方が良い音楽作れそうだし。ところがどっこい、数学博士でもあるダン・スナイスことカリブーは、まさに部屋に閉じ籠る音楽オタクなのだった。

 オタク属性特有の「できれば分かってほしいけど、分かってもらえなくてもかまわない」という、音のこだわりをもってして、もともとは純粋と言えるエレクトロニカを奏でていたが、作品を発表するたびに音楽性は変化し、それはエレクトロニカ・シューゲイザーであったりサイケデリック・ロックと表してもいい作品だったりした。そのどれもに彼の音マニアとしてのこだわりとシューゲイザーへの愛が刻印されていた。

 本作『Swim』はダンス・ミュージックではあるものの、それは表面上だけで彼の音マニアとしてのこだわりは絶対的なまでに貫かれている。しかしダンス・ミュージックという非常に分かりやすい要素を取り入れたことで、彼の「分かってもらえなくてもかまわない」というオタク的スタンスは崩壊し、リスナーの「うん、分かる、分かる」という共鳴を生んだ。と同時に、同じオタク属性の、音マニアからも支持を受ける結果となった。もしリスナーを強引にクラバーと機材オタクに別けたとしても、本作はその両極端のリスナーを同時に包容してしまうほどに作り込まれた音とダンサブルな音に溢れる。そこにこの音楽の魅力がある。

 同じく音マニアのフォー・テットと比べてみるに、両者の違いはジャズをルーツに持つフォー・テットが豊かな演奏技術に裏打ちされた音楽性を押し出す中、カリブーは部屋に引き籠り、うんしょ、うんしょと、脳内世界を具現化しようとしている感じである。いわば、仮にフォー・テットが体育会系ならばカリブーは理系である(実際に数学博士なわけだが)。ひょろひょろで肌は青白く、太陽は僕の敵という感じの、絶対クラブに行かなそうな音楽オタクが脳内で奏でるダンス・ミュージックがここにある。それはピンク・フロイドの1stのように甘美であり、わずかに狂気の香りがする。

編集部補足:日本盤は6月16日(水)リリース予定。

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 今作はノルウェー出身の新世代シューゲイザー・バンド(ニューゲイザーではなく)、セレナ・マニーシュの4AD移籍後、初のアルバム。

 最初にアルバム全体を通して聴いた時に、前作との作風の変化に驚きました。端的に言うと、セルフ・タイトルを冠した前作よりも、はるかに耽美的で閉鎖的。

 もともと、シューゲイザーからの影響を公言していたけれど、それを執拗に押し出すのではなく、あくまでサウンドの一要素として取り入れていた彼ら。中心人物でありギタリストのエミール・ニコライセンと、その妹でありベーシストのヒルマ・ニコライセンは音楽家一家に生まれたこともあり、ロック以外の音楽からも影響を受けており、その雑多なバック・グラウンドをヴァイオリンやオルガンのパートもいるこのバンドで鳴らすことによりカオス的になり、それが結果的にシューゲイザー・サウンドとして成り立った、と言った感じでした。デビュー・フル・アルバムである前作を聴いた感触としては、シューゲイザーと同時に80'sポスト・パンクやゴス周辺のようなカラーを前面に打ち出しているな、と思いました。

 このアルバムは、その前作から垣間見えていた、そういった要素をより色濃く表したアルバムと言えましょう。もちろん、あえてジャンル区分をするのなら、やはりシューゲイザーとなるとは思いますが、その一方でザ・ホラーズにも決して引けを取らないような耽美的なサウンドに仕上がっています。確かに、前作の雰囲気からこう言ったサウンドになることは、少しながら予測はできたとは思いますが、自分のような多くのリスナーはやはり困惑してしまうのでは、と心配してしまうところでもあります。これはやはり耽美派の総本山とも言える4ADに移籍したこともたぶんに影響しているのでしょう。

 厚い雲がたれこめて、雷鳴が鳴り始め時のような不穏なこのアルバム幕開けを飾るインスト曲「Ayisha Abyss」。その嵐が去った後に、まだ降り止まぬ雨の中を駆け抜けて行くような「I Just Want To See Your Face」。やはりこの始まりの二曲の展開が、アルバム全体を表すカラーであり、自分達のスタンスを今一度示しているかのようです。中盤の「Melody For Jaana」や「Blow Yr Brains In The Morning Rain」の酩酊感は隣国、デンマークのザ・レヴォネッツもたじろぐほどで、「Honeyjinx」はソニック・ユースの「Shoot」を彷彿とさせます。

 書けば書くほど、カオスさが浮かび上がる今作。アルバム全体を通して聴くと、前作よりまとまった印象を受けますが、かといってリスナーに歩み寄った、聴きやすいサウンドかと言えば、そうではなく、あくまで今の自分達のスタンスを突きつける色合いが濃いように思います。今作の歪つなまでの酩酊した耽美さも良いですが、前作ではシューゲイザーやポスト・パンク的ながらポップ・ソングをところどころに散りばめていた彼らなだけに、次作は再びそう言ったサウンドも思い返してくれると嬉しいな、と感じたり。

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 2009年にリリースされたアルバムも素晴らしかった、イッツ・ア・ミュージカル(It's A Musical)や、ボビー・ベイビー(Bobby Baby)名義でも活動しているスウェーデン人女性ヴォーカリストエリノア・ブリクシ(Ellinor Blixt)と、いわゆるエレクトロニカ・アーティスト、F.S.ブルム(Blumm)というドイツ人ベテラン・ギタリストによるデュオ、ボビー・アンド・ブルム名義まさかの2作目。続編が出るとは思わなかった。

 良質なインディー・ポップを量産しているMorr Musicの諸作の中でも異色といえるほど、リラックスしたムードに溢れた良盤だ。決して生演奏だけにこだわった作品ではないのだけど、部分的には室内楽と言ってもいいような、落ち着いたエレガントな雰囲気にあふれている。

 F.S.ブルムのエレクトロニカ系のプロダクションは、リバース再生などが所々にちりばめられているがかなり抑えめな印象だ。フェンダー系のギターの音もノン・エフェクトじゃないかというほど生々しいクリーン・トーンで録られている。

 エリノアのヴォーカルのかすんだ質感もすごく良い。イッツ・ア・ミュージカルの時の様な張った唄い方も良いのだけど、このアルバムでの深呼吸の様なリラックスした唄い方の方が彼女の本来の持ち味だと思う。

 流す程度に聴いていたら、「Seascape」の最後、ベースの余韻がフェード・アウトせずに、10秒以上しっかり収められているのを、じーっと聴いてしまった。一度に鳴っている音数も少ないので、ひとつひとつの音に自然と意識が向くのだろう。「Take A Sip(NO.2)」後半の、16分音符5個取りのシーケンス・パターンも、ポリリズムを強調するでもなく、音量抑えめでそれだけが際立たないよう注意深くに配置されている。エレクトロニカ的と思える箇所はほとんどなく、アルバム通じてライヴ・バンドのようなナチュラルさだ。全編通じてチェレスタの音がすごくきれいに録られているのが印象的なのだが、これって本物なんだろうか。実物を見たことがないんだけど。

 このアルバムを入手したのは、4月半ば、異様に雨の多い春だったのだけど、ある日、部屋で鳴るこのアルバムをBGMにベランダに出てぼんやり三軒茶屋の景色を眺め、この曇った空のちょっとけだるい感じと相まった、ナチュラルでリラックスした雰囲気に浸っていた。しばらくすると、iTunesが別のアルバムを再生し我に返った。以来、何人かの友人に聴かせたところ、晴れてる日に緑道を散歩するときにこういうのを聴きたいだの、自転車に乗ってちょっと遠出してみたくなるだの、喫茶店で死ぬほど聴いたボサノバなんかがかかるよりこういうのがかかると良いのに、などという感想を僕にはずかしげもなく語ってみせた。なんか木漏れ日っぽい音楽だよね、と言った人もいた。いい歳こいた人間を、こういう感情に駆り立てるのだとしたら、これほど危険な音楽はない。

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 いとうせいこう氏がヒップホップ黎明の時期に発表した「Mess/Age」という曲は知っている人も多いだろうが、それは70年代の後半にNYで誕生して、USで80年代以降に台頭したヒップホップの持つ内在的なややこしさ、切実さ(例えば、人種差別の壁や経済格差の問題)を形式的に、ラングとパロールの対立軸を脱構築して、問題性から日常的抽象性にスライドさせた意義として大きかった。

 社会的に共有される言語上のコードと、個人的側面の言語運用の解析をした結果、日本ではゲットー的な何かとは、「仮想化」されるべきものでしかない部分もあり、ハードな表現するには、どうにも「大文字の他者(Grand Autre)」が許さなかった。としたならば、小沢健二&スチャダラパーの「今夜はブギーバック」やフィッシュマンズ「Baby Blue」の「何も言ってなさ」が現在進行形でずっと残り続ける意味は容易に解析出来るだろう。

 つまり、日本という磁場で「何かを言う」には「何も言わない」周到な自意識の回避が付き纏うということである。集団的な自意識をポスト・コロニアル化してくる大きな言葉や物語に当惑している時間よりも先に、積極的に「Mess=混乱」「Age=世代」として切り分けるしかない導線の上での綱渡りを試行する為には積極的に「黙る事も雄弁」であり、ラカン的に、どうやっても言葉では現実そのものは語れないが、同時に、人は言語を用いないと現実を切り取れないからだ。人が言葉と出会う事は、「不可能なもの」だ。

 98年にデビューしたSpangle call Lilli lineが10年以上に渡って創り上げた音像には美しさと静寂が同居していて、エレクトロニカとバンド・サウンドの有機的な組み合わせとポスト・ロック性、は軽佻浮薄な日本の音楽シーンの中でエコーのように現前し続け、その雄弁な沈黙の行間から滲み出る意味はとても批評的だった。また、例えば、僕のような、シカゴ音響派勢で言うトータス『Tnt』、ザ・シー・アンド・ケイク『Oui』、サム・プレコップ(Sam Prekop)『Sam Prekop』、タウン・アンド・カントリー『It All Has to Do with It』辺りの質感を愛する者にとっては、彼等のセンスの良さと、声の小ささにはいつも胸躍らされたし、日本では貴重な存在だという認識を持っていた。

 12年目に入った今年、その沈黙がどんどん大きな声にアンプリファイドされていっている事を感じる。先ず、相対性理論の永井氏をプロデューサーに迎えてのシングル「dreamer」のポップさと麗しさは今までにない開け方があり、それまで門外漢だった人たちも多く巻き込んだ。ちなみに、僕は相対性理論というバンドも小声の素晴らしさを持つバンドという印象があり、そこに鏡像性を持ち込むか、「対象a」的に捉えるかしかない部分があり、オタクやサブカル文脈で回収される意味が分からない所があるのだが、今回、永井氏とSpangle call Lilli lineの化学反応がとても良い形で、健康的な奥行きの深さをもたらすことになったのは、素直に嬉しかった。そして、セカンド・アルバム『Nanae』以来、8年振りに組んだ益子樹氏と組んだ新作の『View』はとてもユーフォリックで祝祭的な輝きを放っている。アッパーで派手な幕開けを示す「eye」、カントリー調のリラックスした「Shower Beige」。その他、これまでの彼等の持ち味が存分に発揮された曲が陽的に提示されているが、いつも通りの浮遊性とポップ感に、今回は大人の成熟、色気が加わっているのは大きい。今までに比べ、ボーカルの大坪女史のキーを抑えた歌唱が効いているのかもしれないが、全体に独特の艶美さがある。そこに、益子氏が意図しただろうストリングスが大胆に絡んでくる快楽は大きい。ともすれば、アルバム・リーフ、カイト(Kyte)の新作との共振さえ感じるこのドリーミーなムードはなかなか稀有なサウンド・センスを持っていると思うし、これだけポップに開けながらも、やはり限りなく小声な佇まいも素晴らしい。

 6月にはtoeの美濃氏と組んだアルバム『forest at the head of a river』が早速リリースされる。その前に、リキッド・ルームでのライヴがあるが、そこで当面のライヴ活動自体の中止を宣言しているので、とても自覚的な形でのこのリリース・ラッシュと作品の方向性の舵取りを決めたのだろうが、この充実振りを看過するのは勿体ないと言える。

『View』には劇的に世の中を変える大袈裟な仕掛けもこれみよがしなフェイクもないし、大きな意味は無く、彼等の来し方をずっと愛してきた人にはささやかなプレゼントのような作品かもしれない。ただ、3D映像用の眼鏡のような現実を仄かに浮かび上がらせるスペクタクルがある。そのスペクタクルは巷間に溢れるダイナミズムの力学を忌避する類のものであるのは言うまでもないだろう。

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 シカゴ音響派でこそないが、ボニー"プリンス"ビリーことウィル・オールダムといえば、あの界隈における仙人のようなSSWである。外見も仙人さながらなのだが、フォークやカントリーから半身ぐらい乖離した(脱線しすぎるとかえって胡散臭くなる。その塩梅が素晴らしい)独特の孤高感と距離感がまた仙人的なのだ。悟りや真理に指先で触れたかのような神秘さまで孕んでいる。
 
 ここ数作において、曲に明るみが増したり、トータスとカヴァーアルバムをドロップしたりなど、彼のサウンド・スケープには静かな変容が伺える。今作もまたカイロ・ギャング(事実上エメット・ケリー)とのコラボレーションという名目(オリジナル盤のアーティスト表記はBonnie 'Prince' Billy & The Cairo Gang)ではあるが、エメットは既に二枚のアルバムに参加している。極端に言えば「なにも今更そんな名義で出さなくても、エメットがいるのは当然というか...」という心境で新譜に臨んだのだが、確かに違う。コラボ名義でドロップする意義が大いにある。
 
 今作では、ほっこりする暖かさが見え隠れしている。彼らの談笑がどこからか聴こえる。ボニー特有の内省的な姿勢は健在しているが、彼らの間でその厭世を相互理解したような、一種の温もりがある。「仲間しか知らない秘密基地」の共有意識に似ている気がする。
 
 実は歪んだギターがそれなりの割合を占めている。やはりクリーンな音色の方が美しさを想起させるのが常なのだが、どうしてかボニーの楽曲は、ロジックを跳躍して美しく響くことがある。元々私達自身が歪んでいるから、なにかとシンクロする部分でもあるのだろうか。なんにせよ、言語化できない神秘性が潜んでいる。

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 ラヴ・イズ・オールのポップの定義は明確だ。キャンキャン歌う女の子のヴォーカルが飛び跳ねる。とどのつまりはその一点。「もっとハイに! ポジティヴに!」と言わんばかりの歌声とギター、ベース、ドラムス、サックスのスピードに乗った演奏が突っ走る。一切ロウに入ることのないハイなテンション。夢にまで記憶が残る鮮烈なサウンド。もしこの音楽を辞書でひくなら出てくる単語はストレート。

 その姿勢はアロハやオーウェンなどで知られるレーベル、Polyvinylに移籍し、発表した3rdアルバムとなる本作『Two Thousand & Ten Injuries』(初国内盤化)でもぶれていない。デビュー当初はポスト・パンク・リヴァイヴァルと評され、2ndアルバムではガレージと評されたスウェーデン出身、男4人女1人の彼ら。ポスト・パンクやガレージの要素を残しつつ、エレクトロの要素を取り入れ、わずかにシューゲイザーも取り入れ、なおかつ凝ったサウンド・エフェクト、立体的なミックスが功を奏し、本作では、もはやムーヴメントに収まらないほど音楽性のふり幅は広がった。が、しかし、やはり真っ先に耳に飛び込んでくるのはキャンキャン、ポップな女の子ジョセフィーヌのヴォーカルだ。

 アート・ブレイキー並のドラミング、フリー・ジャズを思わせる歪んだサックス、すっとんきょうなギターが、ジョセフィーヌの歌声に絡みつき、整頓されないまま飛び出てくる。ぶっきらぼうだがそれがいい。愉快痛快とはまさにこのこと。あえて例えれば、ヤー・ヤー・ヤーズの1stアルバムをキュートにしたような作品だ。

 ラヴ・イズ・オールはトーキング・ヘッズにも、TVオン・ザ・レディオにもなれる素質を持っている。しかし彼らはそうならなかった。それはあくまでも自分たちのアイデンティティは、苦労も苦難も高らかに笑い飛ばしてしまうシンプルなポップ性だという自覚がはっきりしているからなのだ。ゆえに聴くたび真っすぐ耳に飛び込み、スカッとするしグッとくる。メロディをわずかに崩し、ちくりと刺す程度の毒っ気ある歌声を忍ばせているところもグッド。ネガティヴな物事のみではなく、ネガティヴ思考が渦巻く現代にあって、本作はネガティヴ思考をも実にチャーミングに蹴散らしてしまうのだ。そこにまた、スカッとする。

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 ドゥルーズの言い回しに「逃走線」という言葉がある。

 諸々の逃走線は社会野のリゾーム、地図作成法となっており、それは脱領土化の運動と同じものであり、自然への回帰では全くない。もっと言うならば、欲望の編成行為のエッジと言える。故に、諸々の逃走線は必ずしも革命的であるわけではなく、反対に権力装置が縛りまとめるものである。そこで、彼は「戦略」を持ち出す。戦略とは、逃走線に対し、その統合や方向付け、そして、収斂や分岐に対して、二次的でしかない訳だ。欲望とはまさに、諸々の逃走線の中にある、流れの統合と分離である。欲望は逃走線とは、区別される。アントニオーニの「欲望」を想い出すまでもなく、そもそも欲望はとても不条理なものであり、その不条理なものを装置的に囲い込むのが社会システムと言えるとしたならば、マシュー・ハーバートが試みてきた数々の実験と果敢なチャレンジはどのような成果をもたらしたか、を敷衍して考える余地はあるかもしれない。

 現在進行形で常々動く、彼の長い歴史の説明は寧ろ必要がないかもしれない。

 ただ、簡単に纏めると、ビョークの『Vespertine』のプロデューサーに起用されてから、その後のリミックスでの優秀な仕事、ドクター・ロキット、レディオ・ボーイ名義など様々なものをスキゾに縦横無尽に渡りながら、ハーバート名義での3作目の01年の『Bodily Functions』でシーンを揺らがしたのは記憶に新しい。この作品により、クリック・ハウス文脈からも称賛を受け、また、生活音を取り入れコラージュをする手腕、プリセット音を使わない職人的な音作りや美麗なサウンドレイヤーへの意識への高さからも、注目を浴び、彼を絶賛していたジャイルス・ピーターソンの名前を挙げるまでも無く、世界的な評価を得た。特に、「Audience」に至ってはよくFMで聴いた(日本でも、かのKREVAも自分のラジオでお気に入りでかけていた)。その後、室内楽的ビッグバンドへ接近した03年の『Goodbye Swingtime』、05年の食品産業へのアイロニーを込めた『Plat Du Jour』、06年の会心作『Scale』など常にぶれのない姿勢を続けてきた。

 余談だが、僕個人としては、彼の音響工作の妙とダイナミクスの力学を端的に示すのは『Bodily Functions』も勿論なものの、実は、リミックス・ワークを纏めた02年の『Secondhand Sounds』といまだに思っている。何故なら、リクルースからセルジュ・ゲンズブール、更には自身のワークまでを跨ぎ、独特の揺らぎと美麗さを極めたサウンド・コンクレートの為され方はここに凝縮されており、ある種、以前/以後の彼の音像を「規定」した作品群がおさめられていると言えるからだ。それにしても、どのワークにしても、どこまでも美麗でソフトな手触りの音、ダブやクラシックやジャズを参照点にした上手な咀嚼の仕方には唸らされる。

 また、彼は、「音」自体の側面以外にも、ハンバーガーや世界的アパレル・ブランドの商品を潰してそれをサンプリングして、即興的にビートを構成するパフォーマンスや明確に反グローバリズムを発言する活動家としてピックアップされる部分があったのは否めない。そして、ジャーナリズム・サイドも、その姿勢を面白がり、付随するサンプル数や品物の種類や過激な発言を敢えて抽出するようなところがあったのに対して、僕は妙なもどかしさも感じていた。何故ならば、バルトーク的に「音の政治性」というコンテクストを敷けば、もっと皆が彼の創る音楽の美麗さに最短距離で近付けるかもしれない、と思っていたからなのもある。

 そんな中、ソロ三部作と銘打って、彼はマシュー・ハーバート名義で「世界」ではなく、遂に「自分」と対峙する事になった。今回は、「1人の男」をコンセプトとして、彼の人生の「とある一日」を描写したものになっており、ソングライティング、演奏、サンプリング、レコーディング、ミキシングに至るまでの全制作過程をハーバートが完全に1人でこなしている。今後も、1か所のクラブで一夜の間にサンプリングされた音源だけを用いた第2弾『One Club』と、1匹の豚が生まれてから屠殺されて食べられるまでをサンプリングで音楽に仕立て上げた第3弾『One Pig』が順次リリースされる予定となっている。

 さて、第一弾の『One One』はどうなのか。結論から言うと、これがしかし、良い意味でいつものハーバート以外、鳴らせない音が鳴っている。エレガントにダルで、捻じれた音の位相が微妙に緩やかに変わってゆき、曲名は徹頭徹尾、マンチェスターやバレンシアという地名に統一された記号的な有り方という、センスは相変わらずな部分がある。しかし、一つ、これまでと違うのはパーソナルでメランコリックに、よりミニマルな様相になっているということだろうか。反・グローバリズムや常々、コンセプトを標榜して世界へ音を届けようとしていた彼が、自分自身と向き合った結果、どうにも零れ出る自省のムードがベッドルーム・シンガー・ソングライターのそれに似て、非常に面白い。

 僕は、この『One One』での、一人の人間としての、マシュー・ハーバートが紡ぎあげる狂おしいサウンドの先に、何故か、オウテカの新作『Oversteps』の美しい静謐性に似た感覚を想い出してしまった。オウテカの新作も非常に緻密に編まれた優美でメロウな内容だったが、その音の隙間から滲み出るものには今までにないマッドネスを感じた。そういう意味で言うと、余計なバイアスを除いて音だけに耳を澄ますと、柔らかく日常が歪んでくる、そんな相変わらずのフリーキーさも備えているところがやはりハーバートの本懐だと思う。これから続くONEのシリーズを期待させる充実した内容の力作だろう。

 逃走線上にまだまだ、彼は戦略を練る。

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 シューゲイザー? レイヴ? それともシュー・レイヴ?

 日本でのみセカンド・アルバムとして発表された前作『Science For The Living』のイギリス版というコンセプトの下に制作が開始され、新曲も加えたこのアルバム『Dead Waves』を聴くと、上記の形容のどれもが彼らカイト(Kyte)のサウンドを捉えきれていないことが、すぐに分かるでしょう。今作は本国では彼ら初のフル・アルバムとしての、デビュー盤となっています。

 まず一聴しただけで、今までのどの作品よりも電子音を大々的に取り入れていることに驚かされます。いや、前作のタイトルが『Science For The Living』だったり、今作にも収録されている「The Smoke Saved Lives」や「Designed For Damage」といった曲のタイトルを見ただけで、文系・文科系の数のほうが多いだろうインディ・シーンにおいて、明らかに理系っぽい異質な雰囲気を漂わせていた彼ら。今作は、その理系的スタンスが見事に活きたエレクトロニックなサウンドの攻めのデビュー作と言えましょう。

 前作では序盤の流れのなか、ゆるやかな印象すらあった「The Smoke Saved Lives」。今作では再録され、力強いボーカルと、より動と静が強調したサウンドを手に入れて、アルバムの幕開けを飾ります。続いて今作を象徴するような、新曲「Ihnfsa」の吸い寄せられるような吸引力をもったイントロを聴いただけで、気がつけばリスナーは既にカイトの世界に引き込まれています。アルバム全体に過去に発表した曲の新録を散りばめながらも、明らかにそれらを上回りながら、新曲でもその世界観を余すところ無く見せつける本作。シューゲイザーやレイヴは感じさせるものの、そのどれもが、限定的な範囲にとらわれず、しなやかに鳴らされています。旧来のファンも取りこぼすことなく、新たなフィールドを開拓していく彼らの積極的な姿勢が強く表れているでしょう。

 ところで、日本での単独公演は軒並みソールド・アウト、去年のサマー・ソニックでの来日でも力強いパフォーマンスを繰り広げてくれた彼らですが、まだまだ本国では、そのUKシーンでは異質なサウンドからなのか目覚しいほどの人気は確立していないようです。前作をふまえたデビュー・フル・アルバムとなる今作が、本国ではどう受け入れられるのでしょうか。気になってしまう作品です。

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 オランダのデザイナであるディック・ブルーナがミッフィーことうさこちゃんを生み出したのは1955年。今年で生誕55周年ということで、福音館書店からは色(所謂ブルーナ・カラー)を初めとして絵本が大幅に改訂され、本展が開催されることとなりました。

 展示はまず、デザイナとしての仕事の紹介から始まります。あくまでミッフィーが主役の展示会という性質からコンパクトにまとめられていますが、ペーパーバックの<ブラック・ベア>シリーズの宣伝ポスターや本自体の装釘に見られるシンプルかつ洒脱なデザインから、後の仕事への繋がりが見えてきます。また、友人の誕生日が書き込まれたカレンダーも人柄が偲ばれるものでした。

 そしていざミッフィーのコーナーへ。何と言っても、不採用のものも含めた原画(原画なのです!)が豊富に展示されていることが素晴らしいです。ブルーナがどのように描いたのか、線の具合や修正の様子も含めて間近に観てとれます。ブルーナ・カラーと称される色を直に観られるのは特に興味深いです。また、最終テイクに到るまでの異なったバージョンを同時に展示しています。そのため、絵やデザインだけでなく、ストーリーやテーマについてもバランス良く紹介されています。

 最後のコーナーでは、多くの方がメッセージを寄稿しており、個性的なミッフィーが展示されています。また、ブルーナ・カラーの家具に新装版の絵本が収納されており、実際に触れて読む事が出来ます。

 会場を出るとグッズコーナーがあるのですが、展示で盛り上がったところに充実したアイテムが揃っているため、大変な危険地帯となっています。特に祖父江慎デザインのグッズは遊び心に溢れています。ここまでなら出せる、という線を決めていかないと大変な事になってしまいます。

 そして、本展については、福音館書店による新装版と密な関係にあるように思います。特に、図録および改訂版の装釘を手掛けた祖父江慎の役割はとても大きいものです。ブルーナの意図や翻訳の意味を考えた上で、フォントまで作成しています。そこに、ブルーナへの敬意を感じました。同時に、Twitterで読めるその過程の楽しそうな事と言ったらなく(4月近辺を読んで下さい)、読んでいるこちらもとても楽しい気分になります。

 東京会場は10日で終了しましたが、今後全国を巡回します。今回見逃した関東の方も横浜会場へ是非。中国と九州が各地から遠いのと、東北地方では全く行われないのが残念ではあるのですが、行ける方にはお勧めします。

 なお、東京会場では開催最初の週末に、先着申し込みでミッフィーと記念写真というイベントがありました。お子様と行かれる方は会場毎の情報を確認して行かれた方が良いと思います。

【参考サイト】
 ゴーゴーミッフィー展公式サイト
 ゴーゴーブログ
 祖父江慎 on Twitter
 福音館書店うさこちゃん誕生55周年記念キャンペーンサイト(2010/05/31まで)
 福音館書店キャンペーン担当者 on Twitter(2010/05/31まで)

【巡回スケジュール(2010/05/10現在確定分/大阪会場以外は図録による)】
 東京:松屋銀座(8階大催場) 2010/04/22-05/10
 札幌:大丸札幌店(7階ホール) 2010/05/26-06/07
 神戸:大丸ミュージアムKOBE(大丸神戸店9階) 2010/07/21-08/04
 名古屋:松坂屋美術館(松坂屋名古屋店南館7階) 2010/08/07-09/05
 横浜:そごう美術館(そごう横浜展6階) 2010/09/11-10/11
 福岡:福岡県立美術館 2010/10/16-12/05
 松本:松本市美術館 2010/12/10-2011/01/23
 香川:金刀比羅宮高橋由一館 2011/01/29-2011/04/30
 大阪:会場未定 2011/05/
 広島・ひろしま美術館 2011/07/16-2011/08/28

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