April 2010アーカイブ

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 5曲入り約15分の前々作『シフォン主義』、9曲入り約33分の前作『ハイファイ新書』につづいて、今回は11曲入り約40分。こういった言い方自体古いような気もするが、「初のフル・アルバム」みたいな表現も可能だろう。実際それだけの充実作となった。

 ローファイなバンド・サウンドの『シフォン主義』が話題になりはじめたころ初めて見たライヴで、リズム隊の生みだすしなやかなリズムに感銘を受けた。それゆえ『ハイファイ新書』における「歪んだAOR」的サウンドも自然な成長に思えた。そして今回、ある種の違和感やスポンティニアス性を内包したままのソフィスティケーションはさらに進み、最も魅力的だったときの歌謡曲がこの10年代にまだ(普通に)棲息していたかのような錯覚さえ覚える。

 やくしまるえつこのヴォーカルも、ずいぶん印象が変わった。まだ子どもっぽさを感じさせた1作目の衝撃から、よりアニメ度(そんな言葉あるのか?)の強まった2作目をへて、これまでになく人間っぽい。エキセントリック「ではない」、通常の会話に近い部分の発声方法が、新鮮な衝撃。以前とは明らかにレベルが異なる。一抹の「二次元性」もしくは、ある種のアンドロイドっぽさとそれの併存ぶりは、アリソン・スタットン(ヤング・マーブル・ジャイアンツ~ ウィークエンド。ぼくの最も好きな女性ヴォーカリスト)さえ想起させる。

 数ヶ月前に、ツイッターを始めて以来、もともと曖昧な部分もあると感じていた「機械と人間の境界線」が、ぼくの中で、またさらにぼやけてきた。この新しいコミュニケーション・ツールは、普段の生活の中にも無数に存在しているシンクロニシティを顕在化させる。そういった状況に、このアルバム・タイトルは (そして、それが象徴する内容も)よく似合う。

 資本主義ではなく『シフォン主義』を唱える相対性理論というバンドのファースト・(ミニ・)アルバム冒頭曲は(ウルトラ警備隊ではなく)「スマトラ警備隊」。長めのイントロのあと「やってきた恐竜、街破壊」とか、女子が歌いだす。おそろしく今っぽい、そしてSF的な体験だった。未来が見てみたい、と思った。そこで抱いた期待を裏切らないどころか、さらなる驚きが、この新作にはある。

 前作も前々作も、実はデータのみで所有していた。『ハイファイ新書』を聴いて、意外に早く限界が来るかも? などと醒めた見方になってしまった部分もあり(すみません...)今回どうしようか迷った。でも、このアートワークを事前に見て、思わずCDを買ってしまった (個人的な話で申し訳ないのだが、これ、うんこ次郎先生のマンガにしんくろにしてぃーん! みたいな...。ちなみに、うんこ次郎先生とは、初期クッキーシーンに連載してくれていた人です)。そうしたら、あまりに良くて、つい前2作もCDで買い直してしまった。また、もう少し未来をのぞいてみたい、そんな気分で。

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雨の中、傘を差さずに踊る人間が居たっていい。それが自由というものだ。(ロジャー・スミス)
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 今回の新作に際してのインタビューで、彼がセオ・パリッシュ、ドナ・サマー、ジョージ・デュークへの愛慕の念を示していたのが僕は一番、興味深かった。というのも、兎に角、シリアスなイメージが常に纏っていたフライング・ロータスの存在を今、再解釈するのに良い文脈かもしれないと思ったからだ。

「ディスコ」の起源は第二次世界大戦にまで遡らないといけない。

 戦争の激化に伴い、バンド演奏の生演奏が不可能となったフランスのナイトクラブで、しかたなく演奏の変わりにレコードを掛けて踊るようになったのが発祥と言われている。そもそも、「ディスコ」という言葉もフランス語のdiscotheque(レコード置き場)の短縮形であり、生演奏の代替物として発生したディスコも、生演奏よりも曲を「客に合わせて再生できる」というメリットが受けて、第二次世界大戦後のパリに「ラ・ディスコティーク」というクラブが開店したことでフランスに新しいディスコというカルチャーが定着する。

 そして、生バンドの代わりにスピンされるレコードの価値が本格的に世界的なブレークの契機になるのは60年代のアメリカのゲイ・シーンである。ヒスパニック、黒人層、移民達のマイノリティの磁場が熱狂的に支持をするが、その背景には彼等のアンテナの鋭度が流行曲、大衆歌を越えて、世界中の音楽、特にブラック・ミュージックのソウル、ファンク、のバネの強さに反応して、ダンスの機能性と共振した結果、ユース・カルチャーと根付いていき、クールでファッショナブルな場所として様々なディスコ・クラブを産む。有名なものではパラダイス・ガラージ、フラミンゴ、ギャラリーだろうか。特に、パラダイス・ガラージにおけるDJのラリー・レヴァンの影響力は大きかった。単純にレコードをスピンさせて、原曲で踊らせるという形式からオリジナルなテイストを組み込むこと、二枚のレコードを繋げてミックスして流す所作、クラブ向けの12cmのヴァイナルといったものも広まっていくことになる。そして、60年代の、まだ黒人差別やゲイ・カルチャーへの偏見が根強かったアメリカにおいて、カウンター・カルチャーとして有為に機能した。

 70年代に入り、伝説の番組『SOUL TRAIN』をして、トライヴや垣根を越えて、アメリカでブームが起きる。このディスコ・ブームと呼ばれるものは元々のディスコが内包していた強度を漂白して、商業化への波へと舵を切る事になり、各国に輸入されたものはこの時のブームの要素が強く、マイノリティやゲイ・カルチャーへの目配せというよりは、もう少し「表層」的な部分も含意していた。
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 そして、表層から深層、深層から実相、実相から空洞へ。

「空洞」の中に、際限なく多種多様な文化的産物から派生したドローン音が響く現代で、こういった文化的背景を踏まえて、フライング・ロータスことスティーヴン・エリスンの2年振りの新作『Cosmogramma』(Cosmo+Gramma、宇宙+原理)への解析をすると面白い。この作品が表象する、こんがらがった「小宇宙的世界観」はサン・ラー、ファラオ・サンダース、ジョン・コルトレーン辺りの「それ」(例えば、コルトレーンで言えば、『LOVE SUPREME』的)なものでもあるが、これは希釈化されたビート・ミュージックの「カウンターへの、カウンター」が「内在化されている」という意味では仄かな深度がある。精神的な「何か」を希求する為の意志的なビートとアタック感、そこで脊髄反射されるクールなモダンネスとスキゾ性。スティーヴ・ブラナー、レベッカ・ラフ、ミゲル・アットウッド・フォーガソンと多くの面で組みながら、ヒップホップ、電子ノイズ、グリッチ音、テクノ、ゴスペル風コーラス、ダブ・ステップ、ガラージ、エレクトロニカがハイブリッドに撹拌され、マッシュアップされた上で、「46分のボードリヤール以後の、ナラティヴ」としても捉えても良いだろう中で繰り広げられるマッシヴな音像は「均質と差異」を行き来しながら、微妙にサウンド・レイヤーをずれていく構造を更に対象化していく。
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 この音像の混沌たる「美意識」が示す、「気高きマイノリティをスイングさせる」強度は時代を越えて、ラリー・レヴァンのスピンしたレコード群に混じりながら、確実にフロアを上気せしめるかもしれない。J・ディラ、エイフェックス・ツイン、インドープサイキックス、今回のトム・ヨーク客演などの「外部」要素は越えて、この作品は「内部」に潜航していきながら、「内部の<内部性>」から外部的な道筋に快楽をセットインする。そういう意味では、マルチチュード的な佇まいもある。
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 想うに、ビート・ミュージック系のハイエンドな音に触れるということは「現実の退路を断たれる」意味さえも孕む気がする。(エレクトロ・)ビートの先にアルコール、ドラッグやささやかなこの瞬間の永続性を願う祈念や等が待備せしめる瞬間、クラウドの総てが万能になるの「ではなく」、観念の肥大にダンスが、ステップが追いついていかないもどかしさ、とそこにカットインされる「大文字のセンチメント」が前景化するのが常だからだ。そこが今におけるダフト・パンク、ジャスティス的なものの「デッドエンド感」やWARP勢にしても時折、ちらつく悪しき選民主義もサジェストしたとも言える。WARPという事で言えば、新世代的なビート・メイカーのクラークやハドソン・モホークが畳みかける判り易い変拍子、歪みは個々の生体リズムに仮託(マップ)されて、「不自由」な刻みでヘドニズムを感応することができる導線は敷いたが、複層性は無かったように。

 そんな中で、フライング・ロータスとはコルトレーンの甥という出自もあるのか、この(非自覚的だろう)「浅さ」を逆手に取ったドープさの先に見える、「終わりの中での、始まり」への意識をビートに乗せて、その位相をスライドさせるのが巧みだ。しかも、それがオーディエンスの自意識の「ソト」でちゃんと響くようにセッション的に乱雑に音を「畳みかける」ので、音像への同一化の余地を許さない代わりに、音楽の「音」自体への耳の反応を鋭角化させる。
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 ほんの少し前、ポスト・パンクやニューレイヴで酔っていた輝かしい都市生活者、キッズ達のパーティーはクールなブランド服で固められたある種の護られたユニティが出来ていた。並行して、ダブ・ステップやグライムのクラブには「完全に世から離れている」トラッシュ達の咆哮と欲動を感知する事が出来たが、すぐさま「離散」した。だからこそ、今、本当の「外れし者たち」や「メトロポリタン主義者」とは「ディスコ」や「ダンス」にさえ繋がっていないのではないか、と思いさえする。
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 ラリー・レヴァンがソウルやファンクのブラック・ミュージックに並べて、日本の歌謡曲をスピンしたような位相としてスーパーフラット的に、「現代のラリー・レヴァン」が居るとしたならば、皿に真っ先に乗せるレコードはこのフライング・ロータスの新作ではないか、というのは穿った妄想ではないかもしれない。この作品には徹底的な記号的なラジカリズムへの求心的で皮肉な視点と古のスピリチュアル・ジャズへのオマージュ、90年代以降のIDM、エレクトロニカ文化、更には西海岸アンダーグラウンド・ヒップホップへの明確なポスト性がある。

 この作品は決して「郵便的」ではない。IDチェックや管理下の五月蠅い閉ざされたドアを開こうとする真摯な外れし者たちが46分程で、脳内でインナー・トリップする為の入構証のアウラがある。既に戦時下の世界で、2010年代最初の、ハーヴェストと反抗のステイトメント。LAからコスモス、そして、内的宇宙、素粒子レベルに還流して、ウロボロスの蛇のように何もかもが「消失」する点(ヴァニシング・ポイント)の上に、この作品の「真価」が可視化出来る。

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 かつての盟友、ブライアン・イーノとの「再開」を経て作られた感動的なゴスペル・アルバム『Everything That Happens Will Happen Today』、及びトーキング・ヘッズ時代の名曲も含むイーノとの共作曲の数々を斬新な演出とともに披露した一連のライブ・ツアー(昨年の来日公演も鳥肌モノでした)を始め、各所に出ずっぱりな客演なども込みで近年充実した活動を続けているデヴィッド・バーン。

 そんな彼が新たに届けてくれたのは、数年間に渡って構想の練られ続けてきた渾身の力作コンセプト・アルバム。物語の主役はフィリピンで20年に及ぶ独裁を続けたフェルディナンド・マルコス大統領の夫人で、自らも政治介入して辣腕を振るった一方、「3000足の靴」を始め、かのビートルズをブチ切れさせた逸話などその立場を活かした贅沢でやりたい放題なエピソードの数々を誇る悪名高き美女、イメルダ・マルコス。

 ディスコでのナイトクラビングも愛してやまなかった彼女の栄光とその落日までに至る半生と、当時のフィリピンにおけるクラブ・カルチャーの強烈なバイブスに着眼したバーンは、その魅力と妖気をいつもながらの特異な探究心とロマンティシズムでもって追求。数回のライブにおいて試行錯誤を重ねられ熟成したダンス・ミュージックは、現代性と懐古趣味の両方を併せ持ちながらもどこにもなかった音触りで、これまたバーンのキャリアの代名詞ともいえる「フェイク」に満ちている。

 音作りのパートナーはBPA名義の近作でもチャーミングなユーモアを撒き散らしていたファットボーイ・スリムことノーマン・クック。彼の手による洒落と抑制の利いたビートと、気品溢れるガーシュイン風のストリングスを軸に、ディスク2枚組90分に及ぶ物語は進行していく。

「音源ダウンロードが全盛の時代において、どうやったらリスナーにアルバムという記録形態の価値を認められるか腐心した」と述懐するバーンは、物語の担い手としてそれぞれ異なるシンガーを一曲毎に適材適所で配置。

 フローレンス&ザ・マシーンのフローレンス・ウェルチにセイント・ヴィンセントといった若手インディー・シーンの看板娘に、グライム・シーンのヒロインであるサンティゴールド、あのレディ・ガガの奇抜なファッションの元ネタと一部で噂されている元モロコのローシーン・マーフィーや、ゼロ7との共演でも有名なシーア・ファーラーといったかっ飛んだポップセンスを誇る才女たち、B-52'sのケイト・ピアーソンや元10,000マニアックスのナタリー・マーチャント、シンディ・ローパー、トーリ・エイモスといったロック界の生きる伝説から、最近ではエイミー・ワインハウスのバックヴォーカルも務めたシャロン・ジョーンズ、フレンチ・ポップを代表する歌い手カミーユなど、錚々たるメンバーが集結してそれぞれの個性を発揮。バーン自身もお馴染みの伸びやかなヘタウマ声を披露。

 こういったトピックに事欠かない作品でありながら、結果的にはバーンのコンポーサーとしての腕前が話題負けすることのない強度をこのアルバムにもたらしている。長年のインチキ・エスノポップ路線がひとつの結実を果たした2001年作の『Look Into The Eyeball』(余談だが、このアルバムでメキシコの国民的ロックバンド、カフェ・タクーバのルベンと共演している事実は、単独ライブやサマソニでの驚異的なパフォーマンスで日本でも彼らが知られるところとなった今こそ再評価されるべき)辺りから安定して高品質のポップスを作り続けてきたバーンのペンは今作でも冴えわたり、AOR的でもありながら刺激に満ちた独特のバランスを生んでいる。

 ちなみに、アルバム・タイトルの『Here Lies Love』は80歳を迎えますます意気軒高なイメルダ夫人が墓碑銘にと望んでいるフレーズとのこと。数奇な人生を歩んだ彼女の悪びれない美意識がそのエピソードに集約されているようでもあるし、そのフレーズをそのままタイトルに採用してしまうバーンの表現の軸はヘッズ時代から微塵もブレていない。

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 昨年9月、2005年の解散から3年半を経て再始動したゲット・アップ・キッズ(以下TGUK)に会うべく、私は彼らのUSツアーへと向かった。そこでは新曲が演奏され、この活動再開は一時的なものかどうかという懸念は、その瞬間きれいに吹っ飛んだ。その時演奏された「Kieth Case」を含む全4曲入りのEPが、遂に! 6年ぶりに! TGUKの新作としてリリースされる!

 そのツアーで聴いた印象は、4作目『Guilt Show』の雰囲気と近いな、というもので、後に他の収録曲を聴いてもやはり同じことを思った。そしてそれは正しい、と。『Guilt Show』は解散前の最後のオリジナル・アルバムで、つまりは前作にあたる。その前作の延長にある音を出しているということは、今の時代に合わせたものでも、みんなが聴きたいであろうイメージに沿ったものでもなく、彼らの人としての成長と音がリンクしている証であり、それはとても正しい形だと私は思う。TGUKというバンドはいつでも彼ら自身を音楽に投影して来たのであり、5人の密な関わりがなければ保てない絶妙なバランスで成り立っている。3年半の空白期間は、彼らの生活や人生と、音楽、バンドが密であるが故に少しだけ休息が必要だったのであって、仲違いでも音楽性の相違でもない。そして休息はもう終わったのだ!

 新たにレーベルを立ち上げ、12インチ、CDともに限定リリース(itunesでも配信中)というところからも、自分達の望むやり方で活動していこうという意思が感じられ、これからますます等身大の彼らを見せてくれるだろうこと、再び彼らと共に年を重ねていけることが、私は楽しみでたまらない。このEPは、そんな嬉しい再会の1枚。

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 音楽だろうが演劇だろうが、最先端のものは現場で表れる。お笑いに関してもそれは例外ではない。いくつかの主要なお笑い番組が終わり、ブームが終わりつつある(もしくは終わった)と喧伝される今こそ、お笑い好きで行ける環境にある人はライブに足を運んでみてはいかがだろう。テレビにほとんど出ていなくても、自分の信じる面白さを日々観客にぶつけている芸人が沢山いる。

 東京コントメンはシティボーイズ擁するASH&Dという事務所のライブ。新宿の地下にある小劇場で、隔月にひっそりと行われている。ライブ名が表す通り、出演陣は全てコント師。司会がいてそのナビゲーションによって演者がネタを演じるのではなく、ムロツヨシという役者が狂言回しとなっているため、観客の空気が素に戻る時間がない。また、観客もコントを観るという姿勢で臨んでいるために、独特の雰囲気がある。東京のコントは、演じ始めてから設定が明らかになるまでの時間帯が重要なので、コント好きにはその醍醐味が十分に味わえるライブ。お勧めです。

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 例えるならレディオヘッドのヴォーカル、トム・ヨークのソロのように、このアルバムはヴォーカルの音量が大きく、強くフィーチャーされている。シガー・ロスのヴォーカル、ヨンシー・バーギッソンは、別のサイド・プロジェクト"ヨンシー&アレックス"でのフル・アルバム・リリースを経て、遂に満を持してのソロ・デビューと相成った。その作品はシガー・ロスの最新アルバム『残響』でのオープニングのように壮大であり、ポップであり、美しい。むしろ筆者としては『残響』以上にお薦めしたい。何せその世界はリード・シングル「ゴー・ドゥー」だけに留まらない。どの曲も繊細なエレクトロ・サウンドとバンド・サウンドが見事に入り交じって異国のヴィジョンを映し出す。

 聴くほどに思い描かれるアイスランドの自然溢れる景色は、シガー・ロスに決して劣ってなどいない。これが奇跡と呼べるサウンドスケープの歌と光だ。

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 2007年のデビュー・アルバム『Oracular Spectacular』で大きな盛りあがりを見せた彼らだが、次作ではそのセールス・ポテンシャルを無視した「わけのわからない」ものを作るつもり...というアナウンスが昨年流れていた。プロデュースを手がけるのは、アンダーグラウンドにその名をとどろかせるソニック・ブームという情報を聞いたとき、こいつらマジだよ、と...。そしてカヴァー・アートは、モロ、E.A.R.(Experimental Audio Research。ソニック・ブームのユニット)じゃん...と思ったら、そのシングルを手がけたこともある人が、そのままやってるらしい。これは、さぞ、ぐしゃぐしゃな音楽になってるに違いないと、おそるおそる聴いてみたところ、驚いた! これは、もう、むちゃくちゃポップじゃないですか!

 もちろんヘンな音はたくさん入ってるし、ヒット・チャート・シングルを聞き流すだけという人がそう感じるかどうかはよくわからないのだが、そうではないものを普通に聴いてる耳であれば、躁病的かつドリーミーな世界に横たわるポップ性に、まずはうっとりしてしまうはず。

 ロック・スター、ロック・ヒーローに対して痛切な皮肉をかませつつ、彼ら自身がそれになってしまいそう...そんなアンビバレンツな魅力が『Oracular Spectacular』には、あった。しかし、この『Congratulations』では、それが徹底的に排除されているような印象さえ受ける。パワフルかつ骨太ととらえられかねない要素を避け、わざと軟弱であろうとしているかのごとき、確信犯的ふにゃふにゃぶり。

 最初に聴いたとき頭に浮かんだのは、今や日本ではいくぶん形骸化してしまった印象もある、ギター・ポップとかインディー・ポップという言葉。90年代後半のエレファント6系とかも思い出した(そういえば、エレファント6系と日本でシンクロしていたコーネリアスの最初のUSツアーは、フレーミング・リップスが企画したものだったけど、その前半にはソニック・ブームも出演していたんだっけ...)。だから、フリッパーズ・ギターを思い出すという意見にも納得がいったのだが、いや、それ以上に、プライマル・スクリームの『Sonic Flower Groove』! あくまで、ノリとして。

 レコード・デビュー前は、PILやスロビング・グリッスルなどに通じるノイジーな音楽をやっていたプライマル・スクリームだが、クリエイションからレコード・デビューしたときには(わざと軟弱であろうとしているかのごとき)ドリーミーなポップ・バンドに変容を遂げていた。その集大成が『Sonic Flower Groove』。MGMTの人も好きらしい(そしてベル・アンド・セバスチャンのスチュワートも好きだった)フェルトのキーボード奏者も、5人目のメンバー的に参加していた。プロデューサーがサイケデリックの大御所メイヨ・トンプソンだったことも、『Congratulations』におけるソニック・ブームの起用と、妙にかぶってしまう。

 こう考えると、「Song For Dan Treacy」という曲の存在にも合点がいく。プライマル・スクリームの音楽仲間であったアラン・マッギーがクリエイション・レコーズを始めたとき、なにより憧れていたのはダン・トレイシー、そして彼率いるテレヴィジョン・パーソナリティーズだった。

 ネオ・モッズの始祖のひとつ(どちらかとえば、そこから派生したザ・タイムスの方がそれっぽいけど)でもあり、ポスト・パンク・インディーを代表する存在(「Part Time Punks」は本当に名曲!)。「I Know Where Syd Barrett Lives」という曲も当時話題になっていた(ダンは、どうやら本当にストーカー的にシド・バレットの住所を調べていたらしい。ピンク・フロイドの前座に起用されたとき聴衆の前でそれを披露して、翌日からツアーを追いだされたという...)。ワーム!というインディー・レーベルを主宰し、話題になりかけた頃、ワム!がデビューすることになった。ダンは彼らのレーベルだかマネジメントだかに大金をもらって、レーベルの名前を変えた。それはそれでよかったのだが、そのお金で大量にドラッグを入手、それ以来ひどい中毒になってしまった(と、テレヴィジョン・パーソナリティーズのオリジナル・メンバーであり、ザ・タイムスを始めたエドワード・ボールに聞いた)。そして、なにより、オレンジ・ジュースと並ぶD.I.Y.ポップのゴッドファーザーとして、現在も多くの人たちに敬愛されている。

 こういった文脈で、このアルバムをとらえないのは、明らかに片手落ちではないか?

「Brian Eno」という曲もたしかに入っている。それも「アンビエント・ミュージック」を提唱する以前、ロキシー・ミュージック在籍時から70年代なかば頃までの彼が得意としていた狂騒的ポップ・センスを思い出せば、なんの不自然さもない。「Siberian Breaks」というタイトルで長い曲をやっているところは、イエスの「Siberian Khatru」を思い出す...というのはウソ...ともあながち言い切れないが、それより、やはりビーチ・ボーイズだろう。幻の『Smile』がもし完成していたら...。いや、サーフィンは終わった(Surf's Up)。プライマル・スクリームが、シングルB面で故デニス・ウィルソンの曲をカヴァーしていた、などということが、またもや頭をよぎる。

 収録曲中、最もソニック・ブームのイメージに近い「Lady Dada's  Nightmare」は、レディ・ガガを意識した曲だという噂も聞いた。彼ら、意外に(?)レディ・ガガも嫌いではなさそうだが(ちなみに、ぼくは嫌いじゃない)、彼女に「勝とう」などとは、夢にも思っていないだろう。どうして、彼女と競わなくちゃいけないの? まったく違う場所にいるのに(笑)。

 変な逆エリート意識とか、選民主義ではない。そうなってしまう、もしくは、そうせざるをえない(それしかできない)のだ。

 クッキーシーンのモットーは、always pop and alternative。「オルタナティヴを目的化している」などと、見当外れの後ろ指をさされることも少なくない。そんなとき、ぼくはこう思う。ああ、この人はけっきょく「大きな物語」しか認めないんだな、と。そして、ロック的な「大きな物語」を、まずはあえて回避したようなこのアルバムに、限りないシンパシーを覚える。

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 90年代に見せた小室哲哉のプロデュース作品の持っていた躁的なムードと市場での受容のされ方は、経済学的に言うと「失われた10年」という記号と共振するところがあって面白く、それは日本のガラパゴス化が既にその頃から始まっていた証左だと思う。金太郎飴のようなエレクトロ・サウンド、15秒のサビに全てを掛けた構成、大きい文字の羅列の歌詞、あらゆる要素が「自意識」のソトで鳴り響いてしまうという皮肉を内包していたが故に、その後の小室哲哉の衰微と比して、ミスチルが「自意識」のウチで勝ち続けたという事は象徴的かもしれない。

 ポスト・モダンからロスト・モダン、そして、パスト・モダンへ。

 過去を振り返る為に「近代」があるとした時期に、中田ヤスタカはブレイクしたと定義付けるなら、大胆な80年代的なニュー・オーダーに代表される薄いサウンド・レイヤー、ダフト・パンク的なコンプがかかった意匠、露骨なハウスの元ネタへのオマージュを「メタ」に再構築して、一気に時代の寵児になり、街中にこれの過剰なまでの情報量の多いサウンドが溢れさせる事にした時代の要請とは僕は逆に漸く、日本は「戦時中」だという事を無意識裡にでもインストールさせたのか、と思った。

 それは例えば、『地獄の黙示録』の船で「王国」を目指すべく、川を昇る時にラジオから流れるローリング・ストーンズの「サティスファクション」と、プライマル・スクリームが00年と共にケミカル・ブラザーズと組んだアシッドな「Swastica Eyes」のPVに出てくる次々と衣装(意匠)を変え、挑発的な女性の持つ蠱惑性と僕の中では繋がってくる。そこを汲み取り、08年から急激にポップ・イコンとして地表化したPERFUMEの三人の持つ完全なパフォーマンスと中田ヤスタカの嬉しい誤算は演繹出来るだろう。

 免疫学的に女性は「存在」として認知出来るが、「男性」は現象でしかない。だからこそ、女性はリアルを生きる。男性はロマンを生きる。中田ヤスタカのロマンの中でリアルに三人の女の子がリアルに踊る、そこにセルジュ・ゲンズブールとフランス・ギャルの関係性を見た僕のような人間が居てもおかしくない気がする。

 そして、10年代に入り、中田ヤスタカのロマンがついに女の子のリアルに回収されてしまったのが、この「不自然なガール/ナチュラルに恋して」の二曲と いえる。「不自然なガール」はMEGの「甘い贅沢」や彼女たちの「love the world」辺りを彷彿させるアッパー・チューン、「ナチュラルに恋して」は「I still love U」系の80年代のブラコン風。ただ、そこで出てくるマーケティングされた「女の子像」は素直な乙女心の揺れ動き、「婚活」というターム以降の感性論で語る事が出来るというのが、とてもシミュラークル的で興味深い。

「いないのに、いる」女の子、「いるのに、いない」男の子、その深い溝を埋める術はあるのかどうか僕には分からない。でも、愈よPERFUMEという大きな「自我」が暴走し始めた作品としてこれは分水嶺になるのではないだろうか。

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 本DVDは、2009年6月30日に明治安田生命ホールで行われたライブの模様を収録したもの、番外編と銘打っているように、通常のコント・ライブとは違い、バカリズム升野英知が色々な案を提示するというもの。ライブの告知時にもコント・ライブではない旨強調されていた。とはいえ、そこはバカリズム。自己紹介代わりに周囲の人に聞いたというアンケートを持ってきている時点からして一筋縄ではいかない。設問自体も意表を突いてくるものばかりで、バカリズムを電化製品に例えると何? 怪我に例えると全治何ヶ月? 等々。勿論本編の各案も充実した内容で、バカリズムの発想がコントの時よりもより生に近い状態で味わえる。...と、楽しんで観ていると、徐々に、これは案を 発表するという体の大掛かりなコントではないのかという疑念が湧いてくる。途中で投げたら戻ってきそうなひらがなランキングなどという秀逸なフリップ・ネ タを持ってこられると尚更その思いは強くなり、エンディングの趣向はそれを示している。が、そのような仕掛けを読みつつも、翻弄されながら観るのが一番楽しい見方だろうと思う。

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 ゴールドフラップが凄いのは、実験性を一切失わないままメインストリームを突き抜けていくところだと思う。というのも、このデュオはアルバムごとに音楽性をがらりと変え、しかも、ケイト・ブッシュの遺伝子を受け継いだ独特の奇妙にねじれた感覚をみせながらチャートを席巻していくからだ。難解なフォークの 『Felt Montain』でデビュー、硬質なエレクトロに転向した『Black Cherry』、よりダンサブルになった『Supernature』、そしてフォークに立ち返りながら明快なメロディを奏でた『Seventh Tree』とアプローチは毎回大きく変わっている。そして、5枚目となるこの『Head First』で鳴らしたのは80's風シンセ・ポップで、これまでで最もわかりやすく、グリッターな内容だ。だが、今回はアバを思わせる複雑なコーラス ワークを使ったり、ジョルジオ・モロダー風のファンキーなディスコのビートを取り入れたりと一筋縄ではいかない。特に、アルバム最後に収録されている 「Voicething」なんて、ほぼ声だけでリスナーをトリップさせるような不思議さを宿しているエクスペリメンタルな曲で、決してポップなだけの作品で終わらせないとの意思を示しているようだ。確かに、かつてのエロディックでミステリアスな魅力は薄れたかもしれない。だが、万人に開かれたプロダクショ ンのあちこちに仕掛けを施した出来に、アリソン・ゴールドフラップは高笑いしているんじゃないだろうか。
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